【日本の活力を再生する】~集団間の新たな関係を築く「贈与」の力~
地域自治の未来を追求し、日本の自治意識の源流から、未来の日本の自治の在り方として、集団ネットワーク化における贈与関係=追求関係の構築が可能性ではないかと追求してきました。
(過去記事はこちら)
この贈与関係ですが、資本主義・契約関係で生きてきた現代の私たちには実感しにくい点があるかもしれません。
そこで今回は地域自治の未来というテーマから少し寄り道して、この贈与がもたらす集団ネットワークに踏み込んで追求していきたいと思います。
■贈与による集団ネットワーク
日本において、なぜこの贈与による関係構築が地域自治の未来の実現基盤なのか。
まず、『贈与』を通じた関係構築とは何か?を深堀します。
「贈与経済」論(再録)(リンク)より抜粋
贈与経済というのは、要するに自分のところに来たものは退蔵しないで、次に「パス」するということです。それだけ。
「自分のところに来たもの」というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分のところで止めないで、次に回す。(中略)
「パスをする」と簡単に言いましたけれど、これはよく考えると、けっこうむずかしいことなんです。
例えば、みなさんの手元に今お金が1億円あるとします。とりあえず使い道のないお金です。これを「使う」のと「贈る」のとどちらがむずかしいと思いますか。
みなさんは「使う」方がむずかしいと思っているでしょう。誰かに「贈る」のは簡単だけれど、使うのはむずかしい、と。
でも、違いますよ。1億円をまさか行きずりの人にいきなり渡すわけにはいかない。まずふつうは怪しんで受け取ってくれないし、うかつな人に申し出たら、「バカにするな」と怒られたり、「そんなに余ってるなら、もっとよこせ」といって家に乗り込んできて身ぐるみ剥がされるかも知れない。適切な額を、適切な仕方で、適切な相手にピンポイントで贈るというのは、デパートに行って1億円散財するよりはるかにむずかしい。
贈ったことで、その相手に屈辱感を与えたり、主従関係を強いたり、負い目を持たせたり、あるいは恨みを買ったりすることがないように、気持ちよく、生産的にお金を渡すことができ、かつ、そのお金がその人においてもまた退蔵されずに、その人が救われて、さらにその人が次の人にパスしてゆくときの原資となる。そういう「パスのつながる」プロセスを立ち上げるような仕方で贈り物をするのは、実はきわめて困難な事業なのです。
(中略)パスが滞りなく流れ、それがどこにも退蔵されたり、停留したりすることがなく、結果的にそのパスが10人、100人、1000人というふうに広がってゆくためには、(中略)パスをめぐるネットワークがあらかじめ構築されていなければならない。パスのネットワークがすでに構築されていない限り、適切な贈与ということはできないのです。未熟な人間でもお金を蕩尽することはできるが、成熟した市民でなければ適切な贈与はできない。そういうことです。
法外なお金持ちがたくさんいるにもかかわらず、贈与経済がなかなかうまく機能しない理由がそれでわかりますね。(中略)パスを送ったときに、「ありがとう」とにっこり笑って言ってくれて、気まずさも、こだわりも残らないような人間的なネットワークをあらかじめ自分の周囲に構築できていないからです。貧乏なとき、困っているとき、落ち込んでいるときに、相互支援のネットワークの中で、助けたり、助けられたりということを繰り返し経験してきた人間だけがそのようなネットワークを持つことができる。
「贈与関係」というのは、現代人が認識している以上に送る側も送られる側にも相応の信頼・信認が必要とする行為であるということ。これは、個人間でなく集団間であればなおさら重要な点です。それを、私たち日本人の源流でもある縄文時代では、集団間の贈与を行うことで、部族間の緊張圧力を緩和し、自集団の統合と仲間の充足基盤を守ってきました。
特に、贈与という行為を個人間ではなく集団間で行うことの意義は、極限時代においては、集団を守る、集団を大きくするためには、今世界はどうなっているか?どこに行けば生き残れるか?を常に探索し「どうする?」を掴む意義があったのではないかと想像します。そう考えると、贈与という行為は、共認充足を元にした緊張緩和だけでなく、送られる側にとっては外部世界の情報を掴む絶好の機会として捉えてきたのではないでしょうか。
単なる余剰のものを贈るという現代人の発想ではなく、集団にとってかけがえのないモノを無償で相手を信頼して贈る行為を通じて、贈られる側もその信頼に応えると同時に、集団を守るために少しでも多くの認識を得ようと相手と向き合う。まさしく、信頼と信認を靱帯とした認識の贈与を通じた追求充足関係=集団ネットワークの姿がイメージできます。
現代においては個人間の「贈与」のイメージが強く、牧歌的な印象を持ちがちですが、集団間の贈与とらえると、お互いにとってより良いものを追求する先端収束のベクトルを持った行為(切磋琢磨)だと気づきます。これはこれからの時代の企業関係にも一つの可能性を示しているようにも思います。
世界が資本を土台とした近代工業生産の時代から本源時代に転換した今、市場社会では人本来の能力・活力こそが生産基盤。
交換関係でも単なる闘争関係でもない、「贈与」を靱帯とした「信頼」「認識」で集団(人・地域)を「つなぐ力」こそが勝ち筋になった時代。そんな視点から見ると、これからの集団の在り方や可能性が大きく開かれるような気がしませんか。
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