【日本の活力を再生する】地域自治の未来① ~地域自治の源流~
以前、こちらの記事で、単なる地方創生ではなく、本気の集団づくりこそが、共認充足(つながり、活力)を資本とする本源時代における地域づくりであるということを紹介しました。
明治以降農村から都市へと人口が流入し、地域共同体が解体。「家庭=住む場」となり、子育て・学び・福祉や地域課題は、アウトソーシングあるいは行政サービスが担うことが当たり前になり、地域(集団)づくりという課題が空洞化。結果、集団の最小単位である家庭はどこも行き詰まりを見せ、社会全体の活力衰弱を招いています。
一方近年ではコロナ禍を経て、都心から地方へ移住を考える人や、こちらの記事でも紹介したように企業の拠点をそのまま地方へ移転する実践例が生まれ、東京一極集中の流れに変化が起きています。
中には、地方と都市それぞれに拠点を置き、2拠点生活を送る人たちなども珍しくなくなりました。
この変化は、我々の意識や生き方、そして国家・都市・地方・地域に、どのような未来を描くことができるのか。
今回は、「地域自治の未来」を皆さんと共に追求したいと思います。
■日本の地域自治の源流
未来を見据えるためにも、まずは日本の地域自治の歴史を遡り、その本源を探求したいと思います。
日本人の集団性や規範性の出発点はやはり、縄文時代にまで遡ります。
<地域を遡ると縄文時代にまで行きつく。縄文時代の地域とは共同体同士の繋がりである。
黒曜石や土器を贈り合い、互いに交流をする事で広域の地域が情報や人材で繋がっていく。縄文時代の地域とは海洋を使った広域のネットワークだった。これが日本で最初に登場した地域意識だろう。しかし当然、彼らは自分達の生きる場を自分達で作るなどという意識も言葉も持ち合わせていなかった。それでも実態は生きる事が自分達の集団を持続させる事であり、集団と個人は不可分な存在だった。
そこに渡来人が持ち込んだ国家、支配者、それらによる律令という制度が突然加わっていく。奈良時代から平安時代にかけて縄文時代の集落はばらばらの家族集団に解体され、人頭税が加えられ、あるいは荘園という中に労働者として組み込まれた。
彼らが改めて自分の地域という意識を持つようになったのが鎌倉時代後半から登場した惣村という集合体だった。小作農の登場によって誕生した惣村は現在に繋がる農村の原形となっており、それが現在の地域意識の原形を作っている可能性がある。
この惣村の登場で日本人は初めて「自らの生きる場を自ら作る」という行動をし始めた。
惣村は登場して数世紀後には武士集団にもまさる力を持つ事になる。土一揆、一向一揆といった反政治の行動である。荘園制度が崩れ、最も秩序が崩壊した時に自然発生的に登場した「惣村」によって縄文以来残ってきた、日本人のネットワークの意識が再生したのではないだろうか?>
(https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=298219)
1万年に及ぶ縄文時代を通じて、日本人は特有の集団意識を形成し、日本の村落共同体の原型を形成してきました。
その後、海外からの律令制や荘園制によって一度村落共同体は解体されますが、荘園制の行き詰まりの混乱期において、拠り所となったのが、縄文時代から培ってきた日本人特有の集団性であり共同体性であったということがわかります。
「惣村」によって再生された、地域自治の源流は、その後江戸時代においても継続され、藩を中心とした徳川300年の安定した地方分権時代の最も規定的な安定集団を形成したと思われます。
そして、地域自治の源流の振り返りから見て、特に注目したいのが、地域自治(村落共同体)が、単一集団内の閉じた集団ではなく、集団同士のネットワークで自分たちの集団を維持してきたということです。
我々が捉えている地域自治は、自給自足・地産地消という「その土地」「単一集団」に縛られた自治をイメージしますが、その源流に見る本質は、まったく逆にあると言えます。
縄文時代1万年で培われた集団性が、以降数千年の歴史で失われることなく現代まで我々日本人の意識の底流にあることが、我々の未来を描く何よりの実現基盤です。
近年活性化している、地方と都心の2拠点生活や、地方移転などの取り組みなども、こうした視点から見たときに、単なる個人・一企業の「ライフスタイル」の確立という見方ではない切り口から、地域自治の未来への可能性を発掘できるのではないでしょうか。
次回は、地域自治の源流に見た「集団ネットワーク」に着目して追求します。
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