活力再生と、明治までの教えない教育・自発学習
先回に続き、活力再生に関する話です。
昨今思うのは、自分たちでしっかりものを見据え、考えられる様にならないと、今の統合階級たちに、社会をさらに好きなようにされてしまう、という事です。
明治以降の日本は、世界を牛耳っていると言われる金貸し達や、そこにぶら下がる政府を初めとする統合階級たちが、自分たちに都合の良いことばかりを学校で教えてきましたが、これに加えて、「教える」という教育法により、教えられた事以外のことを考えることができない「理解脳」が、半ば強制的に各国国民に植え付けられてきた、と見る事も出来るのではないかと思います。
今日の日本は、先進国の中でも、一人当たりの稼ぎ(名目GDP)で見ても、昨年は26位と、市場社会の中でさえ勝てない国になりました。
これは画一的詰め込み、教える教育が生んだ理解脳が多くなった結果とも言え、激変する世界環境下に勝てる頭が育っていないということです。
かたや、るいネットでも紹介されていましたが、スウェーデンなどの教えない教育法、自発的に追及したいことを追及するカナダの教育など、共同体体質を持つ日本より、共同体が破壊された白人系国家のほうが、教育方法では進んでいる点が多く見られます。
・・フィンランドの教育は、「教える教育」から「学びを支援する教育」へと転換
・・デンマークの超ホワイト社会の基礎は卒業後のギャップイヤーで培われる
・・知識を憶えるより、疑問を見つけ、問題解決能力を身につける授業
⇒この事実を直視し、理解脳を生み出す諸制度から脱却しないことには、国家単位で負け続けるということです。
一方、振り返れば、明治以前の日本には、
・・子育ては親だけが単独で子供に向き合うものでなく、その地域共同体全体の大きな仕事
・・勉強の動機付けが、寺子屋では「集団の役にたつ」こと
という、集団発の共同体教育がありました。
明治までは、生産体である集団の為に学ぶことが、学びの原点にあり、自発的な学習がその子どものペースに合せて行われ、結果的にそれぞれの子供達の特性を生かす教育が行われることになりました。
活力再生、現代教育の限界を超えるヒントが、明治以前の江戸期の教育に見て取れるように思います。
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