学歴信仰・習い事信仰とその行方
学歴信仰は学校制度が導入された明治初期に端を発する。
学校制度は明治期に西洋観念(近代思想・制度と西洋科学)を取り入れるために作られたもので、従ってそれらの知識を武器に国家を運営する「官僚制度」と「大学」が核となっている。またそうであるがゆえに学歴を得、西洋観念を習得することは、身分の獲得とも直結していた。
その意味で学歴信仰は戦前から存在したが、受験戦争ピーク→塾・予備校の隆盛という形で大衆化したのは、日本が貧困から脱出した1970年代である。
それまでは、庶民は食うのに必死で、そこそこ裕福な層以外は大学など手が届かなかった。
しかし、’70年代と言えば、既に日本はGDP世界2位を達成し、経済的には既に西洋を追い越した位置にあった。
さらに貧困が消滅し、私権が衰弱した結果、いい生活⇒いい身分は絶対的なものではなくなった。
それらの意味で’70年既に学歴の価値は決定的に減衰していたのだ。
にもかかわらず逆に受験ブームが加速化したのは、私権の衰弱による自我(相対優位の欠乏)の肥大化によるものであると思われる。自我(相対優位の欠乏)が、このような状況変化と欠乏のズレという皮肉な結果をもたらしたのである。
この受験産業ブームはバブル期まで続くが、その後’80年代に重なって登場してきたのは、習い事ブームである。
これは公文・学研などの勉強系もあるが、それと並んでスイミングやサッカーなどの運動系、音楽やバレイなどの情操系もブームを迎えており、従って、3つくらい習い事を掛け持ちする子供が当たり前のように続出する。ちなみに、これの世代が現在の小中生の母親世代(35歳から45歳くらい)である。
このブームの背景には、生まれたときか核家族育ちであり、従って教育を外注すること不可欠であるという宿命を持っていることが、最も基底的な要因として挙げられる。本来の子育てには生産過程が不可欠であり、働く親の背中を見て親をまねながら(手伝いしながら)必要な能力を身に着けていくことが、生物界を貫く自然の摂理だからである。
しかし、習い事への期待としてそれが現出したのは、人々の中心的な欠乏が、勉強だけではダメ(不十分)という意識に転換したことがあげられる。おりしも時代は、仕事人間が非難の対象となり、趣味の一つもないと(人間的な暮らしと言えない)、という空気も蔓延していた。
もともと習い事も上流階級の専有物であった(お茶・お花・琴・ピアノ等々)。従って習い事の動機も、学歴と同じく上流階級の模倣でもある。その意味で肥大化した自我(相対優位の欠乏)の産物であるが、同時に「人間性」なる方向にその対象を広げだしたことは注目される。
その意味では、既に学歴信仰の絶対性はこの段階で既に崩れだしているともいえる。
現在既に産業界では学歴信仰は崩壊し、採用の際に学歴や学校名を問わない企業が過半となっている。現実の圧力と求められる能力が「学力」とずれているためである。
現在これらの受験ブーム・習い事ブームを経験してきた層が母親となっているが、その意味では単に古い経験からくる惰性が需要を作り出しているに過ぎないともいえるし、教育を外注せざるを得ない、生産過程のない核家族ゆえの構造が残存しているためともいえる。
では今後勉強需要や、習い事需要はどのように変化していくのだろうか?今後の推移を伺う上で注目されるのが、既に現出した勉強から習い事への需要の変化である。この背景にあるの欠乏の変化は、相当歪んではいるが、勉強から人間力への期待の移行とみることもできる。
仮に相対欠乏から始まったとしても、その流れは最終的には本来の能力欠乏(追求力や関係力・充足力)へ向かわざるを得ないだろう。
子どもの能力を形成するのは幼少期は遊び(本能)、以降は仕事課題(現実圧力)である。
既に新世代の子供たちは、勉強離れだけでなく、習い事に対する違和感さらには拒絶感さえ抱いている。押し付けられる中身が現実に求められる能力とマッチしない(=将来役に立たないこと)を直感的に見抜いているからだろう。
さらにはかなり多くの子供たちが「早く社会に出たい」という、祖父・親世代には全くなかった意識を持っている。それは本来の能力欠乏への回帰を意味しているのではないだろうか。
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