安倍内閣の背後にある日本会議とその精神的支柱9
これまで、多くの首相を輩出し、明治政府を作ったのが事実上、長州藩と言われているが、長州は、そもそもどんな地域だったのか?
長州は、朝鮮由来の大内家が治め、全盛を極めていたが、後に毛利家に滅ぼされる。
そして、毛利氏に滅ぼされた大内家の家臣団が移り住んだのが、平家の落人村であった田布施だったという。
○明治維新は、南朝のクーデター より
幕末から明治維新にかけての日本全国を巻き込んだ内部分裂は、南朝が北朝から政権を奪ったクーデターである。
大室寅之祐は、山口県の田布施から連れてこられたが、山口県の周防・長門は1551年に毛利氏によって滅ぼされるまで、大内氏が一大勢力を築いていた拠点だった。大内氏は百済の琳聖太子の末裔を自称していたように、北朝鮮から流れ着いた正統派の公家である。
室町中期以降、大内氏は、明や朝鮮、琉球などの東アジア貿易によって国内随一の経済基盤を有し、フランシスコ・ザビエルの滞在、キリスト教の布教も許されるなど、独特の文化圏を形成していた。
しかし、毛利氏によって滅ぼされ毛利領となった防長の地には、大内氏の家人や傭兵の残党が数多くおり、後に彼らは長州藩内で差別待遇を受けた武家奉公人となっていった。彼らの不満を利用したのが吉田松陰であり、彼らに南朝正統論をベースにした尊皇攘夷を説き、後に起こる倒幕戦争を勝利することによって騎兵隊の面々を士族へと引き上げるべく高杉晋作は奇兵隊を創設した。
ここで、大内氏の出自と南朝を囲うに至る様子が分かるサイトがあるので、紹介します。
大内氏(おおうちうじ)の出自については、日本の氏族の一つ多々良氏が本姓とされるが、古代の記録が無く伝承の域から脱し得ない。
伝承に拠ると、大内氏は百済の聖明王(さいめいおう)の第三王子・琳聖太子の後裔を称し琳聖太子(りんしょうたいし)が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗る。
その多々良氏が後に大内村に居住した事から「大内を名字とした」と伝えられるが、代々、周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出である事以外は確たる証明は出来ない。
大内氏は、周防国々府の「介(すけ)」を世襲した在庁官人から領主に台頭し、守護大名から戦国大名に移行した。
いずれにしても大内氏(おおうちうじ)は、中央の貴族の末裔を称する「源平藤橘その他」の武家とは異なり在地の「多々良」と名乗る官人が平安後期の頃より徐々に力を着け、平安末期の当主・多々良盛房は周防で最有力の実力者となり、周防権介に任じられる。
その多々良盛房は大内介と名乗り、以降歴代の当主もこれを世襲し、十四世紀頃から周防国の渡来伝承・琳聖太子の「後裔を名乗った」とされる。
鎌倉時代になると、大内一族は周防の国衙在庁を完全に支配下に置き実質的な周防の支配者となっていた為、鎌倉幕府の御家人として、周防守護を任じ六波羅探題評定衆に任命されている。
南北朝時代に入ると、大内氏(おおうちうじ)で家督争いが起こり、当主・大内弘幸と叔父の大内長弘が抗争する。
背景に在ったのは、南朝宮方・後醍醐天皇に組する当主・大内弘幸と北朝を擁立した足利方・足利尊氏に組する事を画した叔父の大内長弘との対立だった。
この抗争に勝利した大内弘幸の子・大内弘世(おおうちひろよ)は、南朝方の武将として後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)を奉じて長門国などへ勢力を拡大、周防国と長門国を領する。
南朝宮方として千三百五十八年(正平十三年)に隣国・長門国守護の厚東氏と戦いその拠点霜降城を攻略して厚東氏を九州に逐った。
これに拠り南朝宮方・大内氏の勢力は周防と長門の二ヵ国に拡大し、弘世は本拠地を山口(山口県)に移し九州王朝・懐良(かねなが)親王の隠し皇子・良光(ながみつ)親王を迎え入れる。
しかし五年後の千三百六十三年(正平十八年)、中央を北朝・足利方がほぼ掌握するに及んで、大内弘世は良光(ながみつ)親王の存在を秘したまま北朝・足利方幕府に帰服する。
北朝・足利方幕府に帰服した大内弘世の跡を継いだ大内義弘は、今川貞世(了俊)の九州制圧に従軍し、南朝との南北朝合一でも仲介を務め、千三百九十一年(明徳二年)には山名氏の反乱である明徳の乱でも活躍し、結果、和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の六ヵ国を領する守護大名となり、大内氏の最盛期を築き上げた。
大内氏は、伝承によると朝鮮からの渡来人であったこと、そして南朝の天皇家を代々庇護して来た事が分かります。
大内氏が衰退し、毛利家が長州を治めた時代を通じて南朝の子孫を庇護、長州内部に南朝の復興を望む勢力があった事は確かなよう。
そして長州には、毛利氏に滅ぼされはしたが、大内氏の意を継ぐものが多く存在し、大内氏が滅びたあと、平家の落人が住んでいた田布施村に大内氏の家臣団が住み着いたと考えられ、その後田布施村の出身者たちが明治新政府樹立に大きな影響を及ぼして行きます。
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