2010年10月16日

10/17なんでや劇場に向けて(1)~儒教・バラモン教・仏教の成立過程

10/17なんでや劇場のテーマは「社会共認の歴史⇒これからは事実の共認」である。
その参考に、私権時代の社会共認である古代宗教・近代思想の成立過程を再掲する。
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■儒教
以下、『研究 世界史』(吉岡 力著 旺文社)より引用。

●春秋・戦国時代
周の支配は、前12世紀から前8世紀ごろまでつづき、支配下の植民都市国家は、山東半島から揚子江流域にまでおよんでいた。前8世紀に周は内乱や北方遊牧民の攻撃によって、都を東方の洛邑(洛陽)にうつし(前770)、その後諸侯の勢力が強まって、周王の命令はきかれなくなった。周の東遷以前を西周といい、以後を東周とよぶ。東周は春秋時代と戦国時代に分かれる。春秋・戦国時代は中国社会の大きな変動の時期であり、従来の都市国家に代わって中央集権的な統一国家が生まれる要素をはぐくんだ時期である。
●諸子百家の開花
春秋戦国の変動期には、諸子百家とよばれるさまざまな学術思想の流派が生まれた。諸国の対立が激化するにつれ、諸侯はあらそって才能ある人材を登用しようとし、富国強兵のために新しい学説が歓迎されたので、多くのユニークな思想が一時に開花する時期となったが、諸子百家の学説はおおむね、いかにして変動の時代に人民をよく治めるかという発想法に立つもので、現実的・社会的色彩の強い政治学説が発達した。
●孔子
中国で古くから発達した天命思想を、人間の自覚による道徳によって、新しい理論づけを行ない、さらにその理論を学ぶ人びとの活躍によって、従来の身分にかかわらず天下・国家の安定を期待したのが、春秋の末の孔子である。孔子は従来の貴族政治の形式を尊重しながらも、法制の整備には反対し、家族同志や郷里の親族の間の道徳秩序(孝・悌)を拡大して、国に、さらに天下に及ぼすことを強調した。そのために、従来貴族に独占されていた周の古制や儀式(先王の礼)の知識を新興の士(君子)階級に開放し、礼楽の教養を身につけて最高の道徳(仁)の実践に努力する人材を養成し、また五経の編纂につとめて、ここに儒家の学派が生まれた。
●墨家
春秋末から戦国初期にかけて活躍した墨子は孔子の家族道徳や礼の形式に反対して、人間相互の広い愛と助け合い(兼愛)を説き、その思想の基盤の上に勤倹節用・薄葬・非戦などの具体的政策を展開した。彼の後継者たちは一種の宗教団体をつくって精力的な活動をつづけ、上層部から庶民にまで教えを拡大させた。これを墨家という。
●道家
老子は儒家の徳を低次元のものとして否定し、無為自然こそ真の道であると説き、自然と人間の調和や「無為にして化す」平和非戦の政治道徳を強調した。かれの後継者荘子は、道の本質は理論的でなく直観的に把握されると主張し、文学性に富んだ老荘思想が生まれた。
●儒家
戦国中期の儒家の孟子はこれらの異説を論難しつつ、孔子の教訓的・暗示的な学説を戦国時代に向いた理論的なものに発展させた。かれは自然界よりも人間社会を重視し、人の本性は善(性善説)であり、それを拡大して、徳をもって天下を治める王道政治を強調し、また儒家思想に歴史的な考え方を導入した。
戦国末期を代表する思想家に儒家の荀子がある。かれは性善説に反対し、人の本性は欲望に弱いもの(性悪説)であり、その是正のために礼が必要であると説いた。またかれは従来の尚古主義を批判し、先王の時代をはなれて現実の政治改革(後王の法)を論じた。
●法家
荀子に学んでそれを法治主義的に展開させたのが、法家の韓非子である。法家は戦国初期の商鞅の実務的活躍の理論づけが行われて発展し、儒家の徳治を法治に置きかえて、法の有効な行使によって業績をあげる必要と、空理空論を克服し実効をあげる理論を強調した。秦は商鞅以来この学説を採用して強国をつくり、全中国の統一に成功した。このように諸子百家の思想は政治哲学の発展を導き出したのである。
●ここにあげた儒墨道法の4家のほかに、戦略戦術を説く兵家(孫子・呉子)、君民並耕による一種の無政府主義を説く農家(許行)、形式論理を説く名家(公孫竜)、外交政策を説く縦横家(蘇秦・張儀)、陰陽五行の理を説く陰陽家などが輩出した。

■バラモン教
以下、『研究 世界史』(吉岡 力著 旺文社)より引用。

●アーリア人のインド侵入
アーリア人は中央アジアの草原地帯を原住地とした遊牧民であったが、早くから西アジアの進んだ文化を学び、鉄製の武器をもち、しだいに各地に移動していった。このアーリア人の一派は、前2000年から前1500年にかけて南下して、インダス川上流のパンジャブ地方に侵入し、インダス文明を滅ぼし、先住民のドラヴィダ人を追い、あるいは征服してここに定住した。かれらはここで牧畜生活を営んだが、まもなく農耕生活に移り、部族を中心とした共同生活を行った。部族の長をラージャといい、はじめ部族民から選ばれたが、のちに世襲となった。
前1000年ごろから、アーリア人は肥沃なガンジス川流域に移動を始め、先住民と混血して農耕生活を営みながら、やがて多くの部族国家をつくりあげた。
アーリア人は、もともと自然物・自然現象を神として崇拝していたが、インドの雄大な環境の中で信仰はさらに高まり、これらの神々(天・地・水・火・風・太陽など)への賛歌などを集めたヴェーダを残した。リグ-ヴェーダはその中心であり、もっとも古い。
やがてこのような神々につかえ、しだいに複雑になってきた祭祀を守るため、専門の司祭者が必要となった。こうした司祭者階層がバラモンであり、ヴェーダの呪詞を唱えて神を祭った。その宗教をバラモン教という。このバラモンを最上位とする厳重な宗教的社会制度をカースト制度という。この制度は、アーリア人がインド社会を宗教的・軍事的・政治的に支配し、その優越を保持しようとしたために生まれたものである。バラモン階級は、かれらの支配的地位の確保につとめたので、インド社会は固定化し、バラモン教は形式化し、行き詰っていった。
カースト制度の4種姓は、次のとおりである。
(1)バラモンは司祭者で、社会の最上位を占め、その一身は神聖不可侵とされ、苦行によって解脱できる身分である。
(2)クシャトリアは王族・士族で、政治・軍事にあずかり、社会の秩序を維持し、一般人民の保護に当った。
(3)ヴァイシャは一般の庶民で、農・工・商に従事し、納税の義務を負った。
(4)シュードラは奴隷で、おもにアーリア人に征服されたドラヴィダ人などである。このほか、アウト-カーストという、カーストに属さない雑階級があり、不可触民という最低身分の賤民が発達している。
●マガダ国の成立
アーリア人はガンジス川流域に多くの小国家をつくったが、これらの小国家では肥沃な土地からの農産物が豊富に流通して商工業がさかんになり、都市国家として発展し、しだいに農村を基礎とする社会制度はくずれていった。前7世紀ごろ、ガンジス川流域には16の都市国家が成立してたがいに争っていた。この中で、ガンジス川中流のコーサラ国と下流のマガダ国が有力となった。
●ウパニシャド哲学
形式化したバラモン教も、経済・社会のいちじるしい変化の中で、地位を高めたクシャトリアの実力に対抗し、バラモンの中で神々の祭祀をこえて教理思想を深める動きが高まり、前600年ごろウパニシャド哲学がおこった。
ウパニシャドはヴェーダの中で宗教哲学の根拠となる文献で、宇宙の根源や生命の本質について究明したものである。宇宙の本体を梵(ブラフマン)、人間の本質を我(アートマン)とし、この両者の一体化、梵我一如となることによって、すべてを超越した常住不死に達すると説いた。そして、これを宗教的に理解し、実践するのがバラモンであるとし、階級的差別観を脱却することはできなかった。しかし、バラモン教の哲理を深め、形式的・儀礼的な教義に対して人生観・宇宙観を究明した点で、インド思想に大きな刺激を与えた。

■仏教とジャイナ教
以下、『研究 世界史』(吉岡 力著 旺文社)より引用。

●仏教の成立
国家統一への動きの中にみられるクシャトリアの進出、商工業の発達にともなうヴァイシャの台頭を背景にして、仏教とジャイナ教が成立した。仏教はゴーダマ=シッダールタによって開かれ、マガダ国に保護され、国王・商人から賎民に至るまで人々に広く信じられ、ガンジス川流域に広まった。
シッダールタはシャカ族のカピラ城主の王子として生まれ、29歳のとき王宮を出て修行にはいり、苦行のすえ、苦行が肉体を苦しめるだけで解脱には役立たないことを悟り、35歳のときにブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開いて仏陀(悟りを開いた者)となった。
シャカの教説を根本仏教といい、その要旨は次のとおりである。
(1)人間は社会的階級の差別なく解脱できる。その方法は苦行をへなくてもよい。
(2)社会の複雑な事象にとらわれず、無我に徹し、いっさいは「空」であるという境地に達すれば、悟りを開ける(無我・空)。
(3)人生の苦や煩悩(欲望)をこえた境地にいたるのが理想であり、これに達する方法が道である。道には八正道があり、正しく見、正しく考え、修行することなどがたいせつである(四諦八正道)。
シャカは著述を残さなかったが、その教説は弟子に語った説法に示され、のち弟子たちによって仏典として編集された。
●ジャイナ教
仏教成立と同じころ、ヴァルダマーナにより開かれた。かれがバラモンの階級的差別を否定し、階級によって解脱に差があるべきではないとした点は仏教と共通点があるが、苦行の実践と戒律の厳守を必要とした点は、バラモン教から脱却できなかった。イスラム教の侵入によって衰えたが、現在でも100万人以上の信者がある。

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List    投稿者 staff | 2010-10-16 | Posted in 12.現代意識潮流3 Comments » 

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コメント3件

 通りがけ | 2011.06.10 10:39

「目で見る日米地位協定」
池田香代子ブログさまから
>1965年沖縄 「少女轢殺」 報道写真家嬉野京子の証言 
>>http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51424388.html
この一枚が今も続く地位協定のすべてを語っている。
国会はただちに地位協定破棄せよ。

 hermes australia | 2014.02.03 8:18

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 http://www.sprasia.com/user/topuloey/blog/ | 2014.03.12 11:35

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