2010年04月30日

潮流6:’95年、私権原理の崩壊と目先の秩序収束

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(画像はコチラからお借りしました。)
前回のエントリーでは、日本の活力と国力の喪失を招いた、特権階級のこの40年間の失政について明らかにした。
すなわち、現在のGDPの中心を占めるのは、公務、教育、医療、遊びなどのサービス産業であるが、これらの増大は国力の増大に繋がらない。にもかかわらず、市場拡大を絶対命題とする特権階級は、老人、学生、主婦、福祉受給者、公務員など「働かない人々」に支援金(国債投入)を続け、むりやり需要を拡大し、900兆もの借金を生み出した。
今求められているのは、労働活力の上昇である。本来は、社会的に必要だがペイしない仕事(例えば農業、介護、新エネルギー開発など)に、売り上げ・成果に応じて支援金を注入すれば社会活力は失われることなく、市場の転換を図れた筈であった。
今回は潮流6を題材に、’90年以降、バブル崩壊後の日本における意識潮流の重要な変化について、詳しく見ていきたい。
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バブルは必ず崩壊する。案の定、’90年、日本のバブルは崩壊した(その後、’08年、米欧をはじめ世界バブルも崩壊する)。
そして、’95年、バブル崩壊の5年後、相次ぐ金融機関の破綻を目の当たりにして、私権の崩壊が意識(予感)され始める。
半顕在意識に生起したこの私権崩壊の認識(予感)は、私権追求の欠乏を一気に衰弱させ、急速に私権圧力を衰弱させていった。潮流6:’95年、私権原理の崩壊と目先の秩序収束より引用

‘90年バブル崩壊後、金融資産の喪失と、不良債権によって地銀、信金などの中小の金融機関が次々と破綻する。そして、遂に’97年日本における四大証券会社の一角である、山一證券が自主廃業に追い込まれ、ついで都市銀行の一角である、北海道拓殖銀行が破綻に追い込まれる。都市銀行の破綻は戦後初めての出来事であり、庶民の金融不安は一気に高まってゆく。
そして、その直後の’98年、当時銀行の抱えていた不良債権の査定を審査する大蔵官僚に対するMOF担(都銀の大蔵担当)の過剰接待が問題化され(いわゆるノーパンしゃぶしゃぶ事件)、大蔵バッシングも一気に高まってゆく。
また政界においては、’90年以降経済における失政と、汚職に対する批判の高まりから、自民党不信が高まり、自民党は解体過程に入ってゆく(新党乱立)。
私権体制のトップの位置にあった金融が破綻を迎え、官僚トップの大蔵が強烈なバッシングを受け、自民党は解体過程に入った。それらは、私権体制の崩壊を予感させ、人々の私権目的を大きくぐらつかせるに十分な事件であった。

(画像はコチラからお借りしました。)

私権欠乏→私権圧力が衰弱したことによって、私権欠乏発の不満や怒りや要求も衰弱して無意味化してゆく。つまり、「否定」意識が空中分解してゆく。こうして、’95年以降、「否定と要求」の社会党は一気に凋落していった。
そして、「否定」が空中分解したことによって、’70年以来の充足志向→実現志向の潮流が次第にはっきりと顕在化してくる。
それだけではない。私権が衰弱したことによって、「否定」意識と同じく私権欠乏発の「自由(自由追求の欠乏)」も衰弱して無意味化し、空中分解してゆく。
それに伴って、明治以来、市場拡大の原動力となってきた性(自由な性=自我と私権に貫かれた性)の活力も一気に衰弱し、アッという間に女の性的商品価値が暴落すると同時に、男のセックスレスが蔓延してゆく。潮流6:’95年、私権原理の崩壊と目先の秩序収束より引用

「否定の空中分解」について現象面から補足しておきたい。戦後自民党に対して抵抗政党、反対政党としてのみ存在理由があった社会党は、1960年以降、貧困の消滅と、「反の衰弱」→実現志向の高まりによって、支持率は長期低落傾向にあった(バブル期の反消費税によるマスコミ主導の瞬間風速的なマドンナブームを除く)。そして’90年中盤以降の急速な社会党離れに伴って、ついに社会党は遂に分裂し半解党状態に追い込まれる。
「否定」や「反」は、そもそも貧困と序列体制がその対象であったが、貧困の消滅と序列体制の衰弱=否定対象の衰弱によって、「否定や反」も徐々に無意味化していった。それがはっきりと顕在化したのが‘90年以降であるが、この「否定や反の空中分解」の典型的現象が、’99年の金融機関に対する22兆もの公的資金の注入を巡る大衆の反応である。不況が長引き、倒産が相次ぐ中、国民の血税を投入し、銀行を救済するという措置は、一昔前なら、大衆の猛反発を呼びかねない出来事であった。しかし、大衆は「金融秩序を回復させるため」という政府サイドの大義名分を前に、ほとんど反発らしい反発を示さなかったのである。
「自由の空中分解」についても、同じく現象事実を補足しておきたい。その典型的現象の一つが、学生の授業出席率の急上昇である。’70年、’80年代は、大学はレジャーランド化していた。つまり大学生にとって学生生活とは「自由な遊びの時間と空間」であった。従って、授業に真面目に出席する学生は、皆から馬鹿にされていた程であった。それが’90年後半から、授業出席が九割を超えることが当たり前になるなど、大学生の空気は完全に一変する。
またこのころから「親元収束」も急速に進行する。それまで、大学に入るなり、就職する事を機会として一人暮らしを始めること多くの若者の願望であった。それは、親の目を離れ自由な空間を手に入れるためである。
そして、それら「私的自由」の核にあったものが「遊び」であり「性」だったのである。

‘95年以降、衰弱し続けてきた私権欠乏は、その後’03年、株式が二番底に向かうのを見て追求する活力も消え失せ、遂に私権欠乏そのものが空中分解してゆく。かくして、人々はもはや私権の追求に収束することができなくなり、永い間社会を統合してきた私権収束→私権統合という統合軸が崩壊してゆく。これは、1800年に亙って私権時代を貫いてきた私権原理の崩壊であった。
こうして、人々はどこにも収束できずに収束不全に陥ってゆく。
但し、肉体的な潜在意識は’70年以来、一貫して充足志向から共認収束し続けており、私権の衰弱につれて共認収束はどんどん強くなってきている。従って、収束不全と言っても、それは「否定」も「自由」も空中分解し、私権意識さえ無意味化したことによる顕在意識の収束不全に過ぎない。
(なお、上記の性の衰弱は、人類にとって極めて由々しき事態である。しかし、まやかしの近代思想に染められた知識人たちは、この問題からも目を背らし、ダンマリを決め込んでいる。今や、学者や評論家やマスコミ人たち(=プロと称する者たち)は、何の役にも立たないただの無駄飯食いに成り果てたと見るべきだろう。)潮流6:’95年、私権原理の崩壊と目先の秩序収束より引用

私権(地位や金)の獲得は最終目的ではない。私権の獲得は手段であって、その最終目的は、「いい女」を自分のモノにする(独占する)事であり、贅を尽くした遊興生活を送ることである。従って遊びや性が衰弱することは、私権そのものの目的が衰弱し、私権欠乏そのものが空中分解することを意味する。
極限時代を含めて、およそ人類史において遊び(祭り含む)や性が衰弱した事は一度もなかった。そして、貧困消滅後の充足基調においても、もちろん性や遊びの欠乏は衰えることはなかった(仲間収束と遊び収束は充足基調の実現であった)。しかし、私権体制崩壊の危機と私権意識の無意味化は、人類の最強の欠乏である「性欠乏」を封印させるくらいの強い焦燥感と探索(どうする)意識を働かせることになる。

他方、バブル崩壊に伴う経済危機は、人々の間に危機感発の安定欠乏を生起させ、目先の安定志向を強めさせる(注:この危機発の安定志向は、’70年以来の充足発の安定志向とは別物である)。そして、この危機発の安定志向は、「自由」が空中分解したことも相まって、目先の秩序収束の潮流を生み出してゆく。タバコ、セクハラ、食品叩きと続く魔女狩り=マナーファシズムは、この秩序収束の潮流に乗った法曹官僚とマスコミの仕掛けである。
しかも、この目先収束は、秩序収束の段階に留まらず、更に目先の制度収束へと突き進んでゆく。
豊かさの実現以来の充足志向→実現志向の大潮流は、’95年、私権意識の衰弱が顕在化したことによって、一段と強くなっていったが、同時に、危機発の目先の秩序収束の潮流が生起したことによって、実現志向と秩序収束の合流点に目先の制度収束の潮流を生み出していった。既存の制度の枠組みの中での、授業や試験や資格への収束が、それである。
中でも、子供や若者の試験制度への収束は、小学生の時から勉強漬けで「勉強しか出来ない」無能エリートを大量生産しただけではなく、学歴が生涯の身分をほぼ規定する学歴身分社会を作り出し、社会を少数の特権階級と多数の下層階級に分解してゆく。潮流6:’95年、私権原理の崩壊と目先の秩序収束より引用

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‘00年雪印問題、’02年BSE食肉偽装、’07年不二家、ミートホープなどの食品叩き、’02年健康増進法(嫌煙問題)、’06年改正労働基準法(セクハラ)・・・。
目先の秩序収束の事例はこれだけではない。理由なき殺人などの規範の崩壊現象とも相まって、犯罪に対する厳罰を求める「厳罰主義」の風潮が急速に蔓延していく。また、国民総背番号制の導入や、ホームレス排除、監視カメラ設置強化など、同じく一昔前であれば、(自由や人権の観念と照らし合わせて)国論を二分したであろう事柄が、瞬く間に実施されてゆく。
しかし、これら法制や規制強化にとどまらなかった。既に人々の潜在思念は共認原理に転換している。にも拘わらず、社会制度としての新しい統合原理(秩序原理)が確立されていない以上、とりあえず旧来の制度や評価指標(目標)にすがりつくしかない。
しかも、現在市場は縮小過程にあり、市場での成功の可能性は相当に狭められている。その結果私権制度下での社会序列は、国家発の序列体制である官僚と、社会共認を差配するマスコミを頂点とした著しく固定的な代物となってゆく。そして、そのいびつな体制は必然的に特権階級の暴走を生み出してゆくのである。(次回「潮流7:暴走する社会」に続く)

List    投稿者 mokki | 2010-04-30 | Posted in 12.現代意識潮流No Comments » 

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