2010年02月14日

2010年代はどういう時代か?第1話 ~イントロダクション~

21世紀も10年目を迎えました。この10年間だけを振り返ってみても社会全体で大きな変化がありました。とりわけ2008年9月の「リーマンショック」以降の世界金融危機は、既に1年半経過した現在においても収束先が見えてきません。その一方で、国内においては2009年8月に民意による政権交代が実現することで潮目が大きく変わりました。
このような社会状況の中、私たちの意識の根底から、これまでとは異なる何か大きな意識の変化が沸き起こりつつあります。その予感は“次代”へ適応するための新しい潮流の萌芽と捉えることができるでしょう。上辺の変化ではなく、それを突き動かしている予感の本質を明らかにすることが私たちの課題です。
巷には無数の未来予測が溢れています。ところが確信の持てる見通しは皆無です。これは過去の経済理論などでは全く歯が立たないことを証明しています。今求められているのは、そして誰もが知りたい のは、過去から現在までを俯瞰できる構造認識パラダイム転換の時代に即した新しい認識です。
これらの時代の要請に応えて先月末に、第111回 『なんでや劇場』 が開催されました。
既に、当ブログの会員から劇場レポートが報告されています。
⇒ 1/31なんでや劇場レポート1「遊びの失速」は、何を意味しているのか?
⇒ 1/31なんでや劇場レポート2 私権体制の崩壊⇒共同体の時代へ
⇒ 1/31なんでや劇場レポート3 企業における「共同体的」仕組みの事例
ご覧の様に、テーマは「遊びの失速⇒私権体制の崩壊⇒共同体の時代へでした。
今回のシリーズでは、なんでや劇場で登場した概念や認識を紹介するとともに、議論の前提となっている『るいネット』の秀作投稿を引用しながら、社会状況の変化と新しい潮流の中身についてさらに掘り下げていきたいと思います。
2010年代はどういう時代か?」のシリーズ第1話では、これまでの時代に私たちが収束していた対象(つまり活力の源)である“私権”とは何かを示します。そして私権の獲得に邁進した“私権社会”の正体について、『実現論』の一部を紹介し、最新の意識潮流との比較を行います。
第2話以降は、昨今の意識潮流や世界情勢、社会情勢の新しい変化をいろんな角度から数話に亘って紹介していきます。そして最終話で新しい可能性としての「共同体の時代」についてお話しする予定です。
るいネット
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1.“私権”とは何か?
るいネット 新概念定義集より

私権(しけん)
私権とは、私的権益あるいは私的権限を略したもの。人類史の過去3000年は財(金)、地位、異性(女)などの、全てが私権の対象となっていた。その結果過去3000年間は、誰もが私権の獲得=私権闘争に収束することによって統合される私権統合の社会となった。(正確には私権闘争は、力=私権の強いものに弱いものが従う序列原理によって統合される。)貧困が消滅して以降、私権を求める欠乏や私権価値や私権闘争は衰弱を続けている。

2.“私権社会”の正体
『実現論』 第二部 私権時代 ニ、私権の強制圧力と私権統合 より

私権社会では、言うまでもなく私権の確保が万人にとって第一義課題であるが、私権そのものは最終目的なのではない。最終目的は消費と遊興(平たく言えば 遊び暮らすこと)であり、それこそが私権確保の目的である。集団を破壊した以上、もはや真の共認充足は不可能であり、私権が手に入れられるのは消費充足と遊興充足、そして究極的には支配充足しか無い。
従って、私権社会では、最終目的たる「遊び暮らせる身分」を保障された消費・遊興階級こそが最終的な勝利階級であるが、その様な身分を手に入れる道は二つある。占有権力に基づく国家共認によって保障された身分(貴族や官吏や僧侶・学者や地主・資産家)と、性権力に基づく男女共認によって保障された身分(女と子供)である。これら遊興階級=勝利階級は、何れもその身分を権力によって保障されており、従って支配階級である。

3.今の時代をどう捉えたらよいのか?
⇒ 1/31なんでや劇場レポート3 企業における「共同体的」仕組みの事例より

’09年の大変化として、一つは特権階級の暴走→政権交代が目につくが、より根底的な次元での意識潮流の変化が、若者も中高年も「今や、女や遊びどころではない」と性や遊びを棚上げ していることである。これは遊びの失速or無意味化遊びの敬遠とさえ呼べる、大きな意識変化である。
これは決定的変化 である
私権時代3000年間に亙って、私権(身分やお金)の追求が活力源だった が、私権は最終目的ではなく手段にすぎない。最終目的は「いい女を手に入れたい」など、人よりもふんだんな遊び充足。それが私権追求の最終目的だった。つまり、最終目的である遊びの失速によって、私権時代(欠乏)は完全に終息する。
市場商品需要の過半は遊び(解脱)欠乏を土台にして成立している。遊びの失速の結果、物的需要の縮小市場が縮小する。
③それだけではない。市場縮小によって、どの産業・企業でも今までのようには成果が上がらなくなり、経営成績はマイナスが当たり前となり、給与も下がる。仕事成果も給与も上がらない
私権の衰弱は’70年代から進行し、’05年からは指揮系統のほころびが顕著になってきた。福知山線の事故をはじめとして至る所でミス大爆発。指揮系統下で都合の悪い情報の隠蔽。それでも私権強者には関係なかった。「俺はミスなんかしない。成果も上げている」という正当化が可能だった。ところが、今後は私権強者がどうあがいても成果も給与も上がらない。しかも、私権の最終目的である遊びも失速した以上、私権強者も活力維持は不可能である。
これまで私権が衰弱しながらも私権体制を支えてきたのは私権強者である。その私権強者が衰弱する以上、 ’10年代以降 私権体制が崩壊過程に入る のは避けられない。ex.トヨタ・JAL。

次回(第2話)では、改めて市場の拡大限界や自由市場が終焉していく必然構造を扱います。
お楽しみに・・・

List    投稿者 hassy | 2010-02-14 | Posted in 12.現代意識潮流No Comments » 

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