2010年11月23日

新しい潮流シリーズ-2~社会収束2 私権圧力を超えた外向収束の潮流~

こんばんは。
前回は、’95年以降に顕著になってきた「つながり(拡がり)欠乏」(メル友・旅行・イベントや路上のオープンカフェや人間ウォッチングやパフォーマンス等に向かう、人(みんな)収束の潮流)を、「①人類は外圧適応態であること。②自然圧力を克服した人類の外圧は「個人や集団を強く規制する」社会圧力であること。よって、人々の意識は個人や集団を超えた社会に向かう」という必然構造として捉えました。今回は、さらに、『外圧適応態』としての適応方法として認識されている「外圧」=「内圧」、その機能としての「外識機能」、「内識機能」両側面から見た「つながり欠乏」の構造をみていきます。
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同類圧力とは、期待⇔応望の圧力を母胎として生起する評価圧力(評価共認⇔評価競争の圧力)、および(その評価共認によって収束→固定された)制度・規範・観念の固定圧力であり、全ては共認圧力である。この圧力を受けて、
〇外識機能は、個人や集団を超えた社会圧力(上記の共認圧力)を把握しようとする認識欠乏(注:これを脱集団という意味で、外向欠乏と呼ぶ)に収束する。
注:この外識機能の外向基調(外向欠乏・外向収束)は、内識機能の充足基調(充足欠乏・充足収束)と並ぶものである。
注:マスコミもネットも、社会探索も事実収集も、実現論も、全てこの外向欠乏が生み出したものである。
〇内識機能は、個人や集団を超えたより広い対象に向かい、多くの人とのつながり(広がり)欠乏に収束する。
注:これは外識機能の外向基調が生み出した共認(期・応)欠乏である。
社会収束2 私権圧力を超えた外向収束の潮流

①まずは同類圧力を、外識機能で把握しようとする(状況を認識しようとする)のが出発点。
②すると、それに導かれて、内識機能(欠乏意識)がより広い対象へ向かう。
③その結果、共認(期・応)欠乏が顕現し、これが母胎となってさらなる同類圧力を生む。
①へ循環♪

つまり、今どういう状況なの?みんなどうなん?と状況を認識しようとまずは社会探索、事実収集に向かう。するとそこには、やっぱりそう思うよね 同じ~☆ とか、そっかそっか、そう思うのか~ !といったすり合わせ充足 があり、その充足を味わうと、より多くの人と充足したい ⇒多くの人の期待に応えて充足したい と、その対象がどんどん広がってゆきます。その結果、社会(みんなの意識)はどうなっている?みんなの期待は何?とさらに社会収束が加速するのです。
この外識機能と内識機能という切り口は、かなり深い示唆を与えてくれます。
外識機能は視覚や聴覚etcの外部状況を把握する機能のこと、内識機能は内部(主体)の欠乏を把握する機能です。一般生物であればそれを認識するまでもなく、すぐに外認機能と直結し本能が処理(解決)するため、例えばライオンがお腹減ったなぁ~、ひもじいなぁとかという欠乏意識を認識してはいないのです。ところが陸海空以外の樹上という第4の世界を手に入れた原猿は、本能では処理できない不全(死なない不全)にさらされたことにより、その不全(内部意識=欠乏)を認識できるようになります。そして原猿は同じ境遇の弱オス同士の同一視により、ついに不全捨象することを得、仲間プラスの意識を持つようになります。このとき獲得した共認機能を元に、(そのままだと不全はいつまでも解消されず消えないので、)課題共認⇒役割共認⇒評価共認を成立させ、闘争集団(真猿)を形成していきます。
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このように見ると、外識機能と内識機能が即直結せず、イコールで結ばれるまでに断層をはらむことが、サル・人類の共通の意識構造だとも言え、直結していないがゆえに、原猿の場合いったん仲間との共認充足を基盤にしてしか(内識機能でキャッチする欠乏の高まりを受けてしか)、外識機能(闘争集団の形成)を発達させることができなかった、とも言えます。
この外識機能と内識機能の切り口で意識潮流を俯瞰すると、’10年に私たちが置かれている状況も見えてきます
‘02年段階では、みんなどうなん?の外向収束を受けて、つながり欠乏がゆるやかに生起してきた (外→内)。しかし収束不全はどんどん蓄積されてゆき、’08年のリーマンショックで私権秩序(市場システム)の崩壊を決定的に察知するや否や、秩序収束発の共認収束⇒課題(勉強・仕事)収束が一気に顕在化し、芸能・娯楽は衰退します。生物が生きているというのは秩序化(統合)されているということですから、秩序収束とは(内識機能で捉えた)根底的な欠乏です。現在の充足基調が示す通り、現在は欠乏意識(内)がどんどん高まっている状態と言えます。それはまさに集団形成前の原猿のよう。だからそれは、実現経路を結ぶべく必ず(外)=新たな外識機能(新認識)の獲得、及びそれによる状況認識(実現基盤)の発掘へ向かうはず。すなわちそれは認識収束に他ならない。
なんでや劇場で「秩序収束に立脚した共認収束⇒課題収束というベクトルの最終収束先は、認識収束しかない」と言い切られた理由が分かります
【参考】欠乏意識(内的認識機能)と状況認識(外的認識機能)を結ぶ実現回路こそ主体の中核(先端主体)であり、この実現回路こそ思考の先端中枢である。(思考次元1)
しかしながら、’02年にこのつながり欠乏が生起したことは、非常に重要な意味を持ちます。
なぜならば、

かつて、人類の同類闘争(とそれが生み出した集団を超えた社会圧力)は、掠奪闘争(その原基は縄張り闘争)として顕現し、それが私権時代の幕開けとなった。それに対して、現在生み出されつつあるのは、縄張り闘争ではなく、つながり(共認)を紐帯とした本源的な社会収束であり、これは人類史的に全く新しい潜在欠乏の発現である。これまでこの本源的な外向欠乏は、私権引力やその縄張り集団によって打ち消されor閉ざされてきた。しかし、’70年以降の私権の衰弱につれて私権引力やその縄張り集団を超えて、人々が個々につながってゆくという形で、本源的な外向欠乏が徐々に顕在化してきた。そして、遂に’02年、私権統合の崩壊によって外向欠乏⇒社会収束の潮流が一気に顕在化してきた。(但し、まだ人(つながり)収束に留まっており、社会そのものに収束していないという意味では半顕在化の段階にある。)
社会収束2 私権圧力を超えた外向収束の潮流

つながりを紐帯とした本源的な社会収束は人類史上新しい潜在欠乏の発現であり、「人類は戦争をなくせるのか?」というテーマの答え(実現基盤)となる、大きな認識です。しかも私権意識(富族強兵・富国強兵意識)によって封鎖されていたにすぎず、本源的な外向欠乏はずっと存在しており、かつ私権意識の衰弱に伴って外識機能でキャッチできる対象が個人→集団→社会へと、どんどん広がっていることは、とても大きな可能性 と言えるでしょう。
しかし’02年当時は、「サークルなどで人は集めたけれど、結集軸がないので長く続かない 。何か足りない・・・。」そう漠然と人々が感じてもいた状態で、

今こうして繋がっていこうとする気持ちが何なのかを明快に説く言葉、相手の混沌とした期待や道標を明快に指し示す言葉。そしてその土台となる時代認識・構造認識の必要性は、老若男女問わず誰しもが共通する部分。
フィールドは違えど目指している道は同じなんだと認識できる言葉が繋がりと繋がりをさらに統合していく為には不可欠なように思う。そしてその統合された姿がもしかしたら社会になっているのかもしれない。
つながりの先は言葉

このような、つながりの先を漠然と希求する感覚に留まり、社会収束は半顕在化の状態だったのです。
次回は、もう少し時代を遡った’70年貧困の消滅以降から、人々の意識潮流を丁寧に見ていきます

List    投稿者 mituko | 2010-11-23 | Posted in 12.現代意識潮流1 Comment » 

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コメント1件

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