2013年11月08日

自給期待と日本の近未来4 ~2002年、市場の先導役だった若者期待が消滅、親の期待発で課題収束~

みなさんこんばんは。
前回は、全く新しい社会期待である『自給期待』がどのように発現してきたかを見てきました。
今回はこの『自給期待』に応える主力となるであろう、『若者の意識』を取り上げてみます。

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社会の期待に応える原動力はいつの時代も若者達だったようです。
若者達の既成概念にとらわれない柔軟性、これまでにないものを生み出す創造性は、時代を活性化し、様々な『ムーブメント』を作り出してきたらしいのです。
では、現在はどうでしょう?
なにやら元気がないような感じで、新しいムーブメントに繋がるような気がしませんね。
どうしてこうなっているのか、新たな可能性はあるのか、あらためて時代を遡って検証してみましょう。
                                        
戦後→高度成長期(1970年ごろ)まで
1960年代、集団就職で多くの若者が故郷を出て都会に移住しました。
食い扶持を稼ぐこと、実家に仕送りをすることも目的でしたが、それ以上に都市部に集中した第3次産業に従事し、日本経済を成長させる原動力とすることが大局的な目的(または国家戦略)だと言えるでしょう。
当時は誰もが豊かな生活を求めていたので、経済成長⇒市場拡大は必須でした。その先導役となることが若者に期待され、若者もそれに応えることで活力=役割充足を得ていた時代といえます。
その結果、日本は他に例のない高度成長を遂げ、1970年ごろには主だった耐久消費財は大衆の手に行き渡ってゆきました。
                                          
1970年から現代まで
では、1970年以降から最近までの社会期待はなんだったんでしょうか?

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そうです。ひきつづき市場拡大なんですね。
1970年に豊かさが実現されたため、ほっておくと市場拡大は停止します。
ところが、社会のシステムは市場拡大ありきで作られているので、停止してしまうと大混乱になり非常に困るのです。
よって、当時の若者には、市場延命の期待がかかりました。
とはいえ、1970年までに必要な耐久消費材は行き渡り、豊かさ実現は成し遂げられています。
なのでこの時代には、必要以上の消費が求められました。
                   
『大々的に消費を行なえば、こんな素晴らしい生活が手に入るよ
                 
という幻想を抱かせる、テレビCM、雑誌、広告によって若者の消費欲求を刺激したのがこの時代でした。
しかし、所詮は風船のように膨らませた人工的な市場拡大。
文字通りバブルがはじけ、その後2002年ごろついに市場拡大が終焉。
それとともに、市場拡大の牽引という若者期待も消滅したのです。
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市場拡大の先導役という収束先=活力減を失った若者たちは、その後どうしたのか?
まず、仲間同士でどうするかを話し合ったのだと思われます。
それが2000年初頭、コンビニ前にたむろしていたジベタリアン、そういう場でのマジ話となって現れました。
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仲間同士で手探りで目標を探索する、この現象を仲間収束と呼んでいます。
しかし、この仲間収束からは、なかなか具体的な課題は出てきません。
なぜなら、彼らは社会に出ておらず、現実の圧力を受けることができなかったからです。
さらに、実は1970年代の『豊かさ実現』とは、『生存圧力の消滅』を意味し、生物史上初めての状況だったのです。
 
この未曾有の状況を、るいネットでは『収束不全』という概念で定義しています。
収束不全』という、人類史どころか生物史上初の未曾有な状況ゆえ、当時の政治家や経営者を含む大人たちも、誰も方向性を示すことはできませんでした。
学生や社会人になったばかりの若者たちには、当時の混沌とした社会に対してどうするか?という見通しが立てられないのはある意味当然ですね。
                                        
そして目先の課題収束へ
さて、自分たちでは課題が見いだせず、かといって大人たちからも方向が示されもしなかった、当時の若者達はどうしたのでしょうか?
その多くは『身近で分かりやすい課題』に収束して行きます。
具体的には、受験や一流企業への就職など、自分の親たちが掛けてくれる期待に収束して行くのみとなったのです。
最近では、就活自殺という状況が報告されていますが、これなどは親の期待に収束しすぎた末の悲劇、という見方もできると思います。
                                        
突破口はどこにある?
このような目先課題に収束している状況では、新たな社会期待である『自給期待』に応えられそうにありませんが、少し視野を広げれば可能性の萌芽が見えてきます。
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『初音ミク』を通じて素人がネット協力しあい、作品を作り上げてゆくのも
悲壮な覚悟ではなく、ある意味気軽な参加意識でデモに加わったりするのも、そのような可能性の萌芽だと思います。
これらに共通するのは『参加する』というキーワードです。
与えられたモノを受け取るだけでは可能性が感じられない。だからまずは自ら『参加』し、場や仲間を作って行こうという動きですね。
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さらに、アクティブラーニングといった大学講義様式の変化や、自分達で全員取締役の企業を創立する事例にいたっては、『自給』という意識がかいま見えてきます。
現実を突破するために、自分たちで可能性を切り開いて行くという動きです。
                                        
まとめると
                                        
自給期待に応える原動力になるのはやはり若者。                                     
現代における可能性として、参加意識・自給意識が萌芽している。                                                                     
ここで重要なのは「みんな=社会の力になる、役に立つ」というみんな発の姿勢。
さらに「親の期待」にまっすぐ応えようとする応望意識が生起するならば、「自給期待」の潮流を捉え、そこに応望しようという意識も生起する素地はあるはずです。      
根底的には猿・人類の活力源は同類圧力であり、現人類が生存圧力を克服した以上、同類の期待を捉えてそれに応えることで活力を見いだしてきた歴史があるからです。
                                         
顕在化しつつある自給期待。
次回は、『自給期待はこれからどんな変化を生み出して行くのか?』を扱います。
お楽しみに。

List    投稿者 ohmori | 2013-11-08 | Posted in 12.現代意識潮流No Comments » 

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