文明原理2 ~ 縄文語・日本語は、多部族の原始的共感・一体化の証 ~
文明原理、縄文のネットワークとは?
の続きです。
・・・ふと不思議に思ったことはないだろうか。
★日本は、こんなに多様な地形をしていて、島も多いのになんで同じ言葉を話しているんだろうか?・・・と。
画像はリンクより
それに対して、例えば、南にある隣の台湾。
九州ほどの島なのに言語が23も存在している。リンク
この状態は、台湾が特別なのではない。
フィリピンも150程の言語と民族に分かれている。
インドネシアにいたってはさらに500以上に分かれている。リンク
・・・そうです、このくらいに細々と分かれているのが、世界の平和的な部族では、普通だと考えたほうがよいでしょう。
一方で、逆に中国なんてあんなに大きくて人口が多いのになんでみんな漢語を使っているのか?イギリスやフランスは?ロシアはどうなん?
これらの国々には同じ特徴がある。
力で統一されていく過程がある。闘争性の強い部族が勝ち進み、弱小部族を追いやっていくという過程。勝った支配部族の言語が広まっていく。つまり力による支配の結末として広がった言語と言える。
クルガン仮説に基づく印欧語族の拡散
リンク より
※日本語にもそういう力による支配要素が多分に侵入していることには注意する必要がある。国家成立以降の制度、宗教や教育によって注入された支配観念。
★縄文語→日本語は、原始的共感の合衆国
日本人の脳の働きの特殊性とその発揮による集団独創 より
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日本人とポリネシア人だけが、その他の世界の人々と異なり、石器時代の人類の認知形式を言語形式として、そしてその発展系である音楽を根幹的要素とする祝祭や文化として温存してきてしまっている。
なぜ、日本人とポリネシア人だけが母音主義にとどまり、その他大勢が子音主義に移行したのか?
子音主義への移行については寒冷や乾燥などの気候との関連を言う諸説があるのだが、私は、日本人は、あくまで石器時代のアニミズム的世界観を母音主義を一貫することで守ろうとしたのではないか、と仮説する。
そう考えると、中国から漢字を導入する際のあの世界に類例のないウルトラC的なやりかた(音読み・訓読み/和漢混合遣い)がはじめて理解できる。母音は、人のほぼ無意識的な息そのものである。つまり、子音による意識的な加工を経ない息である。
私たちが日本語にみとめる言霊は、西欧語の呪文と違ってこのような「身体性の無意識的な延長」にあるという特徴を持っている。◆「異界との重なり領域」と日本人の脳について
日本人の集団独創の原点ないし根底を探って行くと、こうした石器時代以来の「日本人の脳の働きの特殊性」に行き当たる。
そして、石器時代にどのような集団のコミュニケーションが行われていたかを考えると、物々交換の前身である「サイレント・トレード(沈黙交易)」に行き当たる。
海の民がとった魚一匹に対して山の民がとった木の実の一山、という左脳(計算)的な交換レートが存在しない初期段階には、象徴交換が「異界との重なり領域」(どちらの部族の縄張りにも属さない、つまりはカミに属する領域)において行われた。
その際、異なる部族同士は、いかにして象徴交換の妥当性を納得したのであろうか。
それは、儀礼や儀式という祝祭によって、双方の集団の神経事象(脳と身体と環境との複合作用の全体)が同化して、言わば一味同心的な共感をもつことによった、と考えるしかない。
遠い部族ほど言葉が方言のように異なる訳だが、どのように共感を言葉にしたのだろうか。私は、人類普遍の喜怒哀楽の表情とともに発せられる母音aiueoが活用されたのではないかと想像する。
この「一味同心的な共感」は、日本人および日本文化の特性として指摘される<自他の未分化性>や<自然と人工の未分化性>が理想とする状態でもある。ただ、これは人類普遍の<部族人的な心性>の様相であって、それを日本人は現代にまで<社会人的な心性>のベースとして温存してきている、ということがその特殊性なのである。
大雑把に言えば、日本は、日本列島の四周から渡来した民が各地に住み着いてできた言わば合衆国だった。
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そして「異界との重なり領域」では、自分たちの縄張りで編み出された独自の<部族人的な心性>(<社会人的な心性>の萌芽=意識と感情に依拠)は他部族に通用しない。お互いに通用するのは、原理的に最もプリミティブな人類普遍の<部族人的な心性>(無意識と情動に依拠)しかなかった。
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その歌い踊る行為にこそ、日本列島の部族群に共通して一貫した日本語の母音主義のルーツを求めることができる。
(引用以上)
もともといろんな出身部族の寄せ集めが日本、それが共感・一体感を求め、その結果として縄文語が成立。
日本語に残るこの原始的な共感感覚ってすごい重要な遺産だと思う。
異なる部族間の共感から母音を活用。そして、それに徹底的に守り切って言語に刻印させてきた日本人。
対立と戦争を繰り返してきた人類だが、そういう、あり方を示唆させてくれる。
明治以来、学校制度と左脳偏重によって、その共感感覚さえすっかり忘れ去られてきた。
教えられなくても、感覚的に日本人は守るべきものを守ってきたのだろう。
体の内から、その感覚(原始的な心性・共感・活力)を呼び覚ますことが今ほど求められていることはない。
by Hiroshi
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