2011年01月05日

新しい潮流シリーズ-8 ~新しい潮流6 『解脱仲間から認識仲間への逆転』

皆さんお正月はいかがお過ごしたでしょうか。 😀
新しい潮流シリーズということで、これまで6回に亘り、『るいネット』の秀作投稿を紹介してきました。今回はその第7弾です。
過去投稿は↓こちら
新しい潮流シリーズ-1 ~社会収束1 『評価共認が生み出す同類圧力』~
新しい潮流シリーズ-2 ~社会収束2 『私権圧力を超えた外向収束の潮流』~
新しい潮流シリーズ-3 ~新しい潮流1 『社会捨象→不全捨象の充足基調(’70・’80年代)』~
新しい潮流シリーズ-4 ~新しい潮流2 『私権統合の崩壊と社会収束の潮流(’ 90・’00年代)』~
新しい潮流シリーズ-5 ~新しい潮流3 『社会不全⇒認識欠乏の蓄積』~
新しい潮流シリーズ-6 ~新しい潮流4 『言葉それ自体が引力を持ち得ない時代』~
新しい潮流シリーズ-7 ~新しい潮流5 『実現派は仲間収束から社会収束へ』~
2011年の新年も新しい潮流シリーズは続きます。
今回扱うのは「新しい潮流6 解脱仲間から認識仲間への逆転」です。
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以下新しい潮流6 解脱仲間から認識仲間への逆転からの引用です。

社会収束(外向収束)は、人類史的に全く新しい潜在欠乏
であり、その答え欠乏は深く潜在している。
かつて、それは掠奪闘争→私権闘争として顕現したが、それが衰退して封鎖されつつある今、人々の潜在思念は、まずは分かり易い「人」とのつながりや「人(意識)」探索に向かい、同時に、多種多様な事実認識に向かっている。

★社会収束が人類史的に全く新しい潜在欠乏であるとはどういうこと?
るいネットに詳しい解説があってので紹介します。
社会収束(外向収束)は、人類史的に全く新しい潜在欠乏
社会収束については、新しい社会潮流1では以下の様に説明されています。
>これまで私権闘争やその私権圧力は、永い間人々の本源的な社会収束を封印してきた。とりわけ、その私権闘争(やその奥の私権欠乏や自我欠乏)を正当化した「お金だけ」「自分だけ」etcの私権観念は、もともと強く社会捨象を付帯させている。
ここでは本源的な社会収束は私権闘争により封印されているとありますから、人類史的に全く新しい潜在欠乏である社会収束(外向収束)とは、本源的な社会収束と捉えればよいと思われます。
社会収束は自集団以外の外の集団や社会に広く意識を向けることです。その中には、私権闘争の対象として他集団のことを意識することも含まれます。この社会収束は自分の利益だけを考えた社会収束です。
一方で、現在顕現している全く新しい社会収束は、私権統合の崩壊を契機として生起する、本源的な社会収束であり、みんなのために社会を良くするにはどうしたら良いかという意識です。同じ社会収束(外向収束)でも私権意識に基づくか、本源意識に基づくかの違いがあります。
広義の社会収束という概念は私権的な社会収束も含みますが、現代社会に見られる社会収束は本源的な社会収束を意味すると考えれば、矛盾はなくなります。
では、私権時代以前の本源時代には本源的な社会収束は無かったのでしょうか。私権時代以前の本源時代は、人口が少なく集団同士の接触はあまり無かったことから、集団収束どまりで、社会収束と言う意識は発生しなかったと考えられます。
そして人類が増えて集団を越えた社会が必要になってきた時代には、本源的な社会収束が起きる前に、略奪闘争が生起してしまい、そのような意識が育つ暇がなかった考えられます。
私権時代にも、古代宗教や近代哲学と言った、社会全体のことを考えているような思想が発生していますが、これは本源的な社会収束といえないのでしょうか。
古代宗教は、現世=社会を否定してあの世に救いを求める思想ですから、社会収束ではなく「あの世収束」と言うべきでしょう。万人が私権に収束している現実がある以上、現世は変えられないという絶対的な壁があります。
近代思想は自由・平等・博愛を唱えており、表面的には社会収束しているように見えますが、その本質は自己の利益(私権)を追求することを正当化する美化観念に過ぎません。
これまで人類が作ってきた思想は、全て私権意識で社会を捉えてつくってきたものです。本源的な意識で社会を捉えたのは人類にとって初めての経験であり、新しい思想が必要なのも当然だといえます。
★「人(意識)」に向かうとは?
この記事がかかれた2002年ごろと言えば、メル友 の多さを競ったり、路上の行きかう人を観察したり、雰囲気が伝わるオープンカフェ が多数出来始めたり、みんなの反応がダイレクトに伝わる路上パフォーマー(バンド) が全盛期を迎えた時期でした。
これらはいずれも、周りの人収束、とりわけ反応や評価を得たいとい欠乏が引き起こしたものと考えられます。

今生起しているのは、闘争ではなく、つながり=共認を母胎とした社会収束。つまり、人を媒介にした意識の探索と共認と伝播。今、それは潜在思念の共鳴とごく簡単な言葉の共留まっている。
その潜在思念が求めているのは、パラダイム転換の認識や状況認識、つまり現実や状況や時代の捉え方。それを明確化した構造認識は共認され、自分の認識に転化する。その先は共鳴や応援よりも、応用や実現に向かう。
確かに、現代は言葉が力を失った時代である。だからこそ、人々は言葉以前に何よりもまず人へ・つながりへと向かっているのであろう。しかし、それは云わば原猿と同じで、答えが見付からないので、人に収束しているだけである。実際、現在のつながり・広がりには、成すべき課題がなく(あるいは誤ったチンケな課題しかなく)、無為徒集に近い状態にある。
これを突破するのが新パラダイムに基づく新しい認識であり、新しい認識こそが、従来の親和や解脱に代って人と人とを繋ぐ真の紐帯となる。
また、答え(可能性を指し示す構造認識)を与えられて初めて答え欠乏が顕在化し、新しい認識の追及という課題が姿を現す。答えが同類圧力を生み出すのである。
そして、答えが与えられて初めて無為徒集のつながりから、認識の追及という課題を結集軸としたネットワークへと脱皮する。

★答えが与えられて、初めて答え欠乏が顕在化し、答えが同類圧力を生み出すとは?
圧力によって答えを必死で考えるのとは逆の構造ですね。
例えば、行き詰った議論の途中でも、可能性を感じるような新しい切り口が提示されると、追究圧力が高まる 経験ってありませんか?
答え(可能性を指し示す構造認識)つまり「考える道筋」を知って初めて、認識追求の課題が明確になると言うことだと思います。

つまり、今求められているのは、解脱仲間から認識仲間への転換である。(注:解脱仲間とは、古い私権時代の仲間様式であるに過ぎない。活力源が既に私権圧力から同類圧力へと転換した今、求められているのは、本源収束・外向収束を体現した認識仲間である。)それは、ただの人収束=つながり・広がりが、真の社会収束へと脱皮する過程でもある。

るいネットサロンでも解脱仲間から認識仲間への転換の流れが加速しています。
ネットサロン参加者に見る答え欠乏の高まり⇒認識仲間への転換加速
ネットサロンでは、今の世の中で起こっている問題について、現象やデータを調べて原因構造や突破口についての仮説を立てたりしています。
参加者は職業・年齢とも多様ですが、多くの人がなんでや露店でネットサロンを知って参加しています。
ただ、なんでや露店でネットサロンを知ってから実際に参加するまでの期間が、2~3年前と昨年とでは格段に変化してきています。
2~3年前までは、まず露店に興味を持って手伝うようになり、露店後に一緒に食事をしたりして親和関係が構築されてから、参加するケースがほとんどでした。
それが昨年辺りからは、ネットサロンを知るとすぐに参加して勉強したいと言う人が増えてきました。
そして、参加した人が「こういう場にぜひ参加させたい人がいる」と言って、新しい参加者を連れてきて、もとの紹介者が仕事等で参加できなくても、その新しい参加者が継続して参加するケースも増えがてきました。
昨今、社会不全は強まる一方であり、それに対してマスコミはもちろん、政治家も学識も何ら有効策を打ち出せない状況において、人々の潜在意識下では答え欠乏が急速に高まっています。
そこで答えを導き出す構造認識に触れると、一気に答え欠乏が顕在化し、同時により深く答えを探求したいという欠乏が、同じ課題に向かう人たち=認識仲間を求めるのだと思います。

List    投稿者 kichom | 2011-01-05 | Posted in 12.現代意識潮流2 Comments » 

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コメント2件

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