2016年07月14日

活力の源はどこから?集団の有りようを考えるときか?

過去の投稿「活力を無くす現代日本・・・今と昔と。」を読みました。

「仕方なく生きている」という人が増えているってどういうことでしょう?

今後の日本の行く末が暗く思えてしまいます。

最近の若者は、人の役に立ちたいという思いが強いと思うし、物事には一生懸命に取組む人が多いので、これらは可能性だし、プラスだと思うのですが、一方で、おとなしく、待ちの姿勢が多いことなど、決して活力があるとは見えない、という話も聞きます。

 

これはなぜ?

少し過去を振り返ります。

江戸時代までは、ほとんどの人たちは村落共同体に属しており、個人の生き様は集団の安定、存続と切り離すことの出来ない関係にありました。今の個人主義とは程遠いので、核家族で育った現在人にはイメージしにくいかもしれませんが、よくよく考えれば、個人主義が入ってきたのは、たかだか明治以降。日本人のDNAには、人の役にたってなんぼ・・という感覚が強く有りますが、バブルが崩壊して以降に生まれ育った若者には、それが普通の感覚として再生されて来た様です。

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明治時代は、富国強兵というスローガンの下、均質な労働力を生産すべく学校制度が作られ、村落共同体という集団にとっては、どうでも良い教育が始まります。そして、市場の拡大と共に、集団はバラバラの個人に解体され、豊かさを求めて都会に出る人が増え続けます。高度成長期~バブル崩壊までは自分の私権を満たすことが夢であり、それが活力にもなっていました。

そして、豊かさを実現し、バブルも崩壊した今、物質的豊かさを追い求めることに価値を置く人は少なくなり、今や若者を中心に、仲間第一、社会や集団や人の役に立ちたいという人が主流となって来ているのです。

 

しかし、そういった思いを実現する場はあるのでしょうか?

人や社会の役に立ちたいといっても、ボランティアするとか、デモに参加するとか・・しかし、社会が変わる感覚は薄く、決して活力につながっているとは思えない。

また、村落共同体という存在基盤を失った今、現在の集団、勉強を教わるだけの学校にはこれといった課題が無く、企業も契約関係に縛られる人工的な集団ばかりであまりに不安定、人の役に立ちたいという本源的な思いが、空回りしているのです。

いまいち活力につながらない・・という原因は、本気で何かに取組める集団が存在しないことと大いに関係しているのではないか、と思えます。では、その集団はどんなものか?を考えていく時かと思います。

(kuri)

List    投稿者 mamoru | 2016-07-14 | Posted in 12.現代意識潮流No Comments » 

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