2009年11月03日

思考次元3 本能⇒共認⇒観念の超越思考(構造認識)

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四方氏のるいネットの投稿「思考次元1」の紹介を通じて、人類に本来備わっている、本源的な思考様式である、潜在思念を使った実践思考を、「思考次元2」において、現代人が陥っている思考様式である、否定意識と倒錯思考の構造について触れてきた。
今回は、現代の社会状況を前に、我々に本来必要とされる思考方法とはどのようなものなのか?また、どのようにすれば有用な認識を得られるのか?について触れている、同じく四方氏のるいネット投稿である「思考次元3」の「本能⇒共認⇒観念の超越思考(構造認識)」を紹介していきたいと思う。

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超越存在たる社会の構造に起因する危機や課題は、超越思考(構造認識)によってしか、把握することも解決することも出来ない。
この構造思考の母胎を成すのは、実践思考の実現回路である。
事実、構造思考の求める答えとは、内部意識(欠乏や危機や課題)と状況認識をイコールで結ぶことのできる実現回路を開くことであり、その実現回路が内部意識と外部認識の相方を強化・変容させることも含めて、思考の基本構造は実践思考と同じである。

『超越存在たる社会の構造に起因する危機や課題』は超越思考(構造認識)によってしか、把握することも解決することも出来ない』
例えば、現在我々が直面している社会問題に経済問題や環境問題などがあるが、これらは本能や共認機能だけではでは、問題の所在さえ正確に捉えることができないものである。少なくとも数字という観念=現状のデータや今後の予測値を分析しなければ、我々は現状の問題も将来の危機も感知することさえ出来ない。
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(画像はこちらからお借りしました)
本能は主要に異種の外敵闘争を軸に発達し、共認機能は目に見える集団を対象として発達してきた。従って、目に見える個体や集団を超えた存在=超越存在である社会(或いは経済や環境などの集団を超えた課題)の問題は、原理的にいっても観念を用いなければ捉えることが出来ないのである。
しかし、この観念は潜在思念(本能や共認)と全く分離されたものではない。求められる観念内容は、本能や共認と適合的でなければ、潜在思念の欠乏を充足させることさえ出来ない。即ち求める観念内容は本能や共認機能に基づく「潜在思念の実践思考」を母胎にしたものである必要があるのだ。(ちなみにタイトルにある「本能⇒共認⇒観念」とはそのような潜在思念を母胎した思考を表している)

しかし、実践思考が主要に潜在思念を使う(内部意識も外部認識も)のに対して、簡単に実践できない⇒答えが見出せないが故に必要になる構造思考では、潜在思念の紡ぎ出す構造観念(主体や状況を構造化した観念)を使う。
この普遍妥当する構造観念という位相は、社会(超越存在)を対象とする限り、必然的に求められる認識位相である。

ではその際に必要とされる、「超越思考(構造思考)」とはどのようなものなのか、について説明したいと思う。
「超越思考」とは直接看取できない対象を捉える思考であり、その際に必要とされる「構造思考」とは諸現象の連関関係を考察することを通じて、自然や社会或いは人間の心理などの仕組みや法則を掴んでいく思考を指す。いわゆる科学的思考法である。
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(写真はこちらよりお借りしました)
科学的思考法とは、自然を注意深く観察する中から、あることが起これば、次のこのような結果が生まれるといった経験則(や実験結果)に立脚して、自然現象と自然現象の間の連関関係(この場合は因果関係)を見い出してゆく思考法である。
例えば「何故雨が降るのか、どうすれば雨に恵まれるのか」人々のこのような問題意識、課題意識から、当初雨乞い儀式として始まった行為は、無数の観察や実験を通じて、やがて、温まった空気が上昇気流を発生させ、上空の水蒸気が結露し、水滴として地上に降る=雨が降るという仕組みとして認識され結実していった。それらを探っていく過程は、おそらく何故この現象が起こるのか?という思考の連続だったと思われる。
この物事の原因を探り突き詰めていく思考、即ち「なんで?」思考こそが、実は、構造思考の第一歩でもあるともいえるのだ。
つまり、構造思考とは、事象の関連性を考察していく中で、直接は目にすることのできない対象の仕組みや、法則を解明していく思考であり、それらが蓄積され体系化されたものが構造認識なのである。
そして、この構造思考こそが、現在私たちが社会(などの超越存在)の問題を対象化する上で求められる本来の思考方法であり、有用な認識を得ていく為にも必要不可欠な思考法なのである。
にも拘らず、とりわけ社会科学の分野においては、今に至るまで殆ど構造思考、構造認識不在といった状態が続いている。それはなぜなのか?

しかし、この構造思考には、現代=過渡期に固有のいくつかの厄介な条件が加わる。
A.否定意識や感応観念から脱却できている事。⇒思考の動因は、充足基調⇒本源収束と社会不全⇒社会収束のみであること。
B.既成の底の浅い、かつ誤った観念は使いものにならず、殆どゼロから一つずつ構造観念を紡ぎ出して、それらを統合する必要がある事。しかも、危機が深刻なほど、より深く広い構造観念が求められること。
C.従って、無限大の時間と修練が必要なこと。⇒それは、考える事を専業とするプロにしか一般には出来ない!
しかし、A・Bから、プロの知識人には、新しい実現観念を(断片的な構造観念さえ)作り出せる資質がない。
☆このA・B・Cこそ、答えを出せない(従って、人類が全面閉塞に陥った)窮極の理由である。

自然科学(生物学の一部を除いて)は基本的に価値観念を排除し、自然の仕組みを解明すべく、ひたすら現象事実に立脚し、論理が整合するところまで、現象事実の連関関係が体系化されてきた。つまり自然科学はどの意味で徹底的な構造思考に立脚している。
それに対して社会科学と呼ばれる分野で使われる概念は、否定と自我の潜在思念が生み出した「価値観念」がそれぞれの理論の中核の位置を占めている(例えば近代経済学は「自由な個人」という価値観念を経済モデルの前提に置いている)。つまり社会科学はその意味では、本質的にイデオロギーにすぎないのである。
その意味で、いまだに社会科学における理論は自然科学と比べると、小学生レベルにも満たない段階にあるといっても過言ではない。

D.もちろん、普通の人も少しは考えてみる。しかし、考えても→出来ない・難しい・苦しい・碌な事がないetc否定意識のオンパレードとなり、それが「考えたくない」「理論は敬遠」という拒絶に近い意識を生み出す。
E.他方で、潜在思念の社会収束が深く進行中で、変革期待は強い。そして、潜在思念の一部は、テレビやネットでの事実収集や社会探索として顕現=自分で考えるのは無理だが、答えを与えてくれるのを願っている。

この「答え不在」の状況が理論敬遠という現状を生み出している。しかし何度も繰り返すように、社会問題を捉えるには構造理論が不可欠である。
この理論不在のカベを突破すべく、それに対する基本的な方向性を示した、四方氏の「観念パラダイムの逆転シリーズ」を改めて次回から紹介していきたい。

List    投稿者 kentaro | 2009-11-03 | Posted in 12.現代意識潮流No Comments » 

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