2018年09月27日

江戸時代の寺子屋の風景。無秩序だが活力と学ぶ意欲に満ち溢れていた!

寺子屋

▲一掃百態 寺子屋図 渡辺崋山画 文政元年 田原市博物館蔵

江戸時代の画家で、三河国田原藩の家老でもあった渡辺崋山。その崋山よって描かれたたくさんの寺子屋の絵が残っています。上の絵もその一つ。
これらの絵を見て驚かされるのは、とにかくその様子は「学級のまとまり」など皆無で大騒ぎ、大はしゃぎといった感じ。現代の学校教育の視点から見れば「学級崩壊」ではないか!?と思えてしまいます。

しかしこの教育現場の姿にこそ、江戸時代の社会や精神が色濃く反映されています。

「ほぼ日刊イトイ新聞」さんで、 (リンク)

この様子を、記者の方(以下―)が江戸東京博物館の学芸員、市川氏に取材した記事が掲載されています。
江戸時代の専門家が語る、非常に興味深い記事なので、抜粋・紹介したいと思います。

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「なぜ寺子屋の中が大騒ぎなのか」

(前略)
── 寺子屋で子どもたちは何を学んでたんでしょう?

市川 :主にやっていたのは「読む」ことと「書く」ことですね。
「読み」は先生に教わりながら、色んな往来物(おうらいもの)を読むことですね。往来物は、いわば教科書ですね。
「書き」のほうは、お習字ですが、基本的には自主学習なんですよ。自分で、一所懸命やるんです。で、お手本には2種類あって、往来物がお手本になる場合と、折り本と言って、お経のように‥‥

── 蛇腹になってる。

市川 :そうそう。蛇腹になってるやつ。
これをお手本として使う場合もあるんですね。浮世絵を見るとね、折り本を見ながら、真っ黒にしながら書いてる。

―「読み」は先生に教わるということですが、いまの学校のように、みんな一斉に教科書を開いて、
「○×くん、読んでみなさい」
「はーい!」という感じでは‥‥

市川 :ないんです。
基本的には、個別教授なんですよ。だから教室があんなに賑やかになるんですね。
先生が一人の子を教えてたら、あとの子はフリーになっちゃう

── この絵でも、先生のそばの数人以外は大騒ぎですね

市川: そうなんですよねえ。
こういう絵がひとつふたつしかなかったら、ほんとかな? って思うところですが、こういうのがいっぱいあるわけですよ。
色んな本にそういう風に出てて、そうすると、やっぱりそれは真実だったんだと思わなきゃいけない。
じゃあ、どうして、師弟関係がたいへん強固に存在した社会で、こうなっちゃうんだろう? と思いますよね。先生がコラー! って言えば、たちまち静かになるはずですよね?
どうしてそういう静かさを保とうとか、ぴしっとさせようとしないのか。
そこが、寺子屋の本質であり、大事なとこなんです。
「勉強っていうのは、強制するもんじゃない」
っていう発想がかなり強かった、っていう風に、解釈できるんですね。

── ああ!

市川: つまり、勉強って何のためにやるか。いい人間になるためにやるんです。
強制されて「いいこと」をしても、全然誉められないんですよ。
いいことは、やっぱり自主的にやらなきゃいけない。江戸時代の子どもたちは、それが自主的にできるようになるために勉強してるんですよ
(中略)
自分でやらない限り意味がない。そういう発想が強かったんだと思います。

── とても基本的なことをお聞きしますが、江戸時代の人たちって、自分で職業が選べなかったんでしたっけ。
いまは小さなときから「将来何になりたいか」なんて作文に書いたりしますよね。
そしてどこの中学行こうとか、高校行こう、理数系か文科系か、大学は何学部で、それはどんな職業につきたいから‥‥、っていう風に、だんだん行きますよね。でも、江戸時代の子供っていうのは、いくら勉強しても、その能力をいかせる仕事につくことはできなかったんでしたっけ。

市川: そうなんです。「学ぶ」っていうことが自分の、将来とか経済的な地位とかステイタスを作るとか、自分の職業を選択するのに影響してくるってことがないんですね。
だから「学び」が「遊び」に純化されているところがあるんです。
そのころは“門閥制度”、‥‥つまり身分制社会ですから、なにかに秀でた能力ある人でも親の仕事を継いでそこに従事しなきゃいけない社会だった。
それは武家社会だけでなく、庶民社会でも、大工の子は大工に、だいたい、なってくわけですよ。
で、それの良さももちろんあるわけです。
親っていうのは、自分を育ててくれた恩人であるだけじゃなくて、師匠でもあって、絶対的に尊敬できる存在としてあった。
門閥制度がなくなってからは、能力ある人がその能力をいかす道がひらかれていき、自分の努力がむくわれる、そういう社会になっていった。
でも、そのいっぽうで、親が偉いとかって感覚がなくなっていく。もっと勉強して、お父さんより偉くなりなさい、みたいな感じになって。
今はもう、あまりにも功利的に振れ過ぎちゃっているのかもしれませんね。

(後略)

以上、引用終わり。

無秩序だが活力と学ぶ意欲に満ちた江戸時代の教育現場、整然としたカリキュラムと定期試験により秩序化、序列化はされているが活力の無い現代の教育現場。
人間として充足した場はどちらなのか、考えさせられます。

かつての様に個人主義と学歴社会が堅固な世の中なら、それでも私権獲得の活力に繋がりました。

しかし現代は、「個人」「自由」「権利」といった観念は、結局のところ他者否定と自己正当化を助長するのみで、今や何の魅力も未来も感じない事、学歴や肩書きは現実社会で何の役にも立たない、答えを出せないという事に気付いています。
これはむしろ、上記のような江戸時代の社会状況、教育環境に近いともいえます。
であれば、先人たちが築いた活力ある教育の現場や学ぶ意欲の再生もまた可能であり、その可能性に蓋をしているのは、残存する旧い制度や観念郡であるといえるのでは無いでしょうか。

List    投稿者 nihon | 2018-09-27 | Posted in 12.現代意識潮流, 17.これからの教育No Comments » 

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