2010年01月25日

社会可能性の直感・・・我々は認識を武器として生きてゆけるか!シリーズ8~現実課題2 何をすれば良いのか分からない~

こんばんは~☆
前回は「仲間世界をどう生きるか」は認識の必要に繋がっていくか?を検証しました。今回は’02年時点でのもう一つの状況認識から、さらに検証していきます。
その状況とは、

☆私権に収束できず、何をすれば良いのか分からない現在の状況は、誰もが現実に生き方の選択を迫られているとも云える。

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人々に突きつけられているこの選択課題 は、はたして認識の必要へと繋がっていくのでしょうか?
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『私権に収束できず、何をすれば良いのか分からない現在の状況」とは 🙄 ??
この投稿がなされた’02年の状況を簡単に押さえましょう :
そして’00年頃、私権統合の崩壊が決定的となり、閉塞感が強まって、遂に私権観念が瓦解した。私権観念の防波堤が破れたことによって、一気に社会不全が大きくなり、私権の衰弱も相まって潜在思念の源泉部が私権不全から社会不全へと大転換した。 るいネット『新しい潮流2 私権統合の崩壊と社会収束の潮流(’90・’00年代)』より
なんでや露店で若者たちから「やりたいことが見つからないのは、何で?」が多く聞かれたのも、ちょうどこの頃でした。まさに、何をすれば良いのか分からない→でも、何かしなくちゃいけないとも思うし、親や周りからは「あなたのやりたいことをしなさい。自由にしなさい」って言われる。だから「やりたいこと」はきっとあるはず・・・。でもそんなの見つからない  自分はおかしいのかな ?そんな意識から良く聞かれました。
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また、好きにしなさいという大人の言葉は、まさに大人自身が私権追求という目標を失って、何をすれば良いのか分からない、判断できない状態であることを示しています。いい学校、いい会社、さらにはいい女を求めてやってきたけど、社会はガタガタになるばかり・・・。かつてのように「今がよければ」「自分だけ」「社会など関係ない」では、活力が全くでない・・・。これまで、これが正しい、こうすればいいんだと拠り所にしてきたものが、拠り所足りえなくなった。そんな収束不全が顕在化したのが、’02年でした。
◆このような「何をすれば良いのか分からない」状況に人々が陥ったのはなぜか?
四方氏は、本源(仲間)収束と社会収束の違いという切り口から考えます。以下るいネット『現実課題2 何をすれば良いのか分からない』より

他方、「何をすれば良いのか分からない」という選択課題の方がより全般的・総合的で、より観念回路に近い位相にある課題であるが、肝心の課題圧力が弱く、この課題に対しては適応本能があいまいに作動しているだけである。
潜在思念の本源収束は、仲間圧力の絶対化という現実課題と、それに応じて適応本能が共認回路を駆動させて形成した方法認識や状況認識が実在するが故に(orそれで充分に対応できるが故に)、強力なものとなり、半ば顕在化したのである。
それに対して、潜在思念の社会収束(外向収束)は、その様な潜在回路だけでは不充分であって、収束するには観念を必要とする。しかし、答えが見付からない(=収束観念がない)ので、適応回路があいまいにしか作動せず(外向きという方向を指示するくらいしか出来ず)、深く潜在したままその位相に留まっているのである。
要するに現状は、収束できる観念がないので、仲間収束>>社会収束となっており、又その結果「何をすれば良いのか分からない」状態にあるだけである。

◆では、この新しい社会収束(外向収束)はどうなってゆく??

しかし、潜在思念の社会収束は、(収束できる観念がないので、現状は殆ど意識されないが)明らかに実在する。むしろ、仲間収束をほぼ完了した実現派が、次に向かおうとしている世界は広い社会であり、その為に必要なのは新しい観念(構造認識)である。
その根拠は、
●潜在思念は明らかに外向収束しようとしている。このことは、私権統合が終焉の時を迎えて社会不全が増大し続けているという点からも、社会統合の可能性が開かれたという点からも、明らかである。
●男女であれ、仕事であれ、何をするにも新しい認識(言葉)の必要性と有効性は、(既にある程度の答えを識っている我々には)経験的に明らかである。

  
               ┌─────┐          ┌───┐
           ┌─>|社会不全△├======>| 社 |
┌─────┐ |   └─────┘          |   |
|       ├─┘                       | 会 |    ┌─────┐
|私権の終焉|                          |   ├==>|新しい観念|
|       ├=┐                        | 収 |   └─────┘
└─────┘ ∥  ┌─────────┐      |   |
           └=>|社会統合の可能性△├==>| 束 |
               └─────────┘    └───┘
ふむふむ。新しい認識はやっぱり必要なのですね
でもでも、また新たな疑問が 🙄

☆だが、『社会収束』やそれに伴う『観念の必要性』は、現実課題と成り得るのか?

私権収束に代わって登場してきた新しい萌芽現象『社会収束』とは、どういうものなのか?
次回以降さらに追求していくことで、検証は続きます
お楽しみに

List    投稿者 mituko | 2010-01-25 | Posted in 12.現代意識潮流3 Comments » 

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コメント3件

 伯爵 | 2010.09.01 17:36

確かに、『殺しの正当化観念』には、一元的な自然観や社会観が背景にあったと思います。 つまり、接近した部族間・民族間との争いにおいて、相手を殺すか他の土地に追い出さなければ自分達の生存が危うくなるという自然環境と原始的社会構造が存在したということです。 その結果として、自分達の集団を守るためには、「自部族が生き延びるために、他部族を殺してもいい」「逆らうものは殺してもいい」という『殺しの正当化観念』が生まれるのは自然なことです。 また同時に、「正当化観念」は、一神教的信仰を生み出す精神的母体になったと想像されます。 しかも後には「一神教的信仰」自体が「殺しの正当化観念」を強化する根拠となったはずです。
元来、人類は接近した他部族・他民族との争いを避けて他の土地に移動しても生存していける豊かな自然環境がある間は、多元的自然観・社会観を有していたはずであり、実際に、古代の多くの民族は多神教的な伝統を持っていました。 しかし、これは後の様々な民族争い・部族戦争によって一神教的文化に置き換えられていったと考えられます。(好戦的な一神教的集団が、穏やかな多神教的集団を駆逐していった。)
現代を見回してみると、イデオロギー対決や冷戦とともにポストモダンの考えが起こって多元的な社会観が見直されたのは、過去の反省に根ざしたものと解釈されます。 しかしながら、対テロ戦争という名の「対イスラム原理主義戦争」を行っている米国や多くのイスラム諸国が、今日でも「一神教的な世界観」に深く侵されているのは明らかです。 ただ、あくまで私見ですが、テロリズムが貧者を摂取している富者に対して行われているという実態を暴かれないためには、「対テロ戦争」という標語はむしろ都合がよい建前なのかもしれません。

 にしのり | 2010.09.02 16:54

伯爵さん、コメントありがとうございます。
「自集団第一」の意識が発生する以前の人類は、集団規模の拡大、拡散によって集団間がかなり接近するようになった時代(1万~7千年前)においても、ポトラッチなどを通じた緊張関係の緩和によって、争いを回避していたようです。
>また同時に、「正当化観念」は、一神教的信仰を生み出す精神的母体になったと想像されます。 しかも後には「一神教的信仰」自体が「殺しの正当化観念」を強化する根拠となったはずです。
これは、歴史の流れを見ても正にその通りだと思います。根底に「私権(私有)意識」がある以上、それをひたすら正当化⇒強化していくベクトルに向かってしまうのは必然なのかもしれません。
その「私権(私有)意識」の発生は、遊牧部族における父系制への転換が契機になっていることは、前回の記事の通りです。
>テロリズムが貧者を摂取している富者に対して行われているという実態を暴かれないためには、「対テロ戦争」という標語はむしろ都合がよい建前なのかもしれません。
これも「なぜテロが起こるのか」という事実から目を背けさせるための「正当化観念」そのものですよね。

 hermes | 2014.02.02 0:30

hermes bags usa 日本を守るのに右も左もない | 人々の意識⇔国家(制度)②~人類最初の略奪闘争(戦争の起源)~

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