2012年12月13日

衆院選の焦点=民主主義の騙しと不可分一体の共認支配(世論操作)を、大衆がどこまで撥ね返すか?

「解散総選挙報道に要注意!⇒マスコミの露出度に騙されるな!」
「解散総選挙報道に要注意(2)⇒世論調査という名の世論操作に騙されるな!」の続きです。
世論操作とは民主主義という騙しを機能させるために不可欠な騙しであることを指摘しておきます。
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「金融資本による世論操作の歴史①」では、次のことが明らかにされた。

第一次世界大戦時にアメリカではクリール委員会と言う政府の世論操作委員会を設立し、ドイツに宣戦布告するための世論操作に成功した。自由民主主義の理論家や報道関係者は、その世論操作の成功に大きな影響を受けた。その一人がウォルター・リップマンである。
リップマンは「民主主義のなせる技である革命」を利用すれば「合意の捏造」が可能であると主張した。世論操作という手法によって大衆が望んでいないことを承諾させることができ、またそうすることが必要だと考えた。なぜなら大衆には公益が何であるかが分からず、それを理解し、管理できるのは少数エリートの「知的階級」だけであると言うのだ。
リップマンはこの主張を進歩的な民主主義の理論でさらに裏付けた。
正しく機能している民主主義には階級ができる。そして物事を分析、実行し、意思決定を行い、政治、経済、イデオロギーのシステムを動かす少数の特殊階級が、残りの人々をどうすべきかについて話し合う。そして、残りの大多数、つまりリップマンの言う「烏合の衆」の雑踏や怒号から自分達の世界を保護するのだ。
烏合の衆の役割は民主主義社会における「傍観者」である。民主主義を掲げるからには、烏合の衆にも選挙によって特権階級の一人を自分達のリーダーとして選ぶことが許されている。しかしそれが終われば、また単なる傍観者として引っ込むのである。これが正しく機能している民主主義なのである。
なぜこういった状況になるのかというと、一般大衆はあまりにも愚かで物事を理解できないためにやむを得ないというのだ。自分達のことを自分で管理しようものなら問題が起こるだけだから、それを認めるのは道義上正しくない。これは、3才児を一人で道路で遊ばせないのと同じことなのだ。
1920年代から30年代初期に、近代コミュニケーション分野の草分けで政治学者でもあったハロルド・ラスウェルは、大衆が公益の最良の審判員だとする民主主義の通説に屈してはならないと説いた。彼いわく事実はその逆で、自分達こそ公益を一番良く理解しているのであり、単純な道徳心から、一般人が間違った判断に基づいた行動を取ることがないようにしなければならないというのである。これが全体主義や軍事国家であればことは簡単である。棍棒を振り上げて、少しでも言うことを聞かなければそれで殴りつければよい。しかし、社会がもっと自由で民主的になるとそうはいかなくなる。そこで世論操作という手法が必要になる。つまり民主主義では世論操作が、全体主義における棍棒なのである。
リップマンはその著『世論』(1922年)で、民主主義の基盤となる国民の世論はマス・メディアの支配下にあり、そこでは3つの階級に分かれていると述べている。
1.「真の」権力者: 支配的な財閥
2.第一の市民階級(特別階級): 政治家、官僚やマスコミ
3. 一般の人々(大衆)

そこでは、大衆は社会の公益を理解できないアホと見なされ、アホな大衆を傍観者とすることではじめて民主主義が正しく機能されるとされた。そこで大衆を傍観者たらしめる武器がマスコミによる世論操作である。これが20世紀の民主主義の基本的な枠組みだったのだ。

このように、民主主義が正しく機能するために世論操作が必要なのである。
つまり、民主主義という騙しと世論操作という騙しは不可分一体である。

【1】市場社会では、本当の権力は金融勢力が握っている。
金貸しの中核戦略は、国家を利用し、かつ国家から収奪することである。

その手段が戦争や革命によって国家を疲弊させることであり、国家支配の最終形態が中央銀行制度である。すなわち、一私企業である中央銀行が紙幣発行権(=無から有を生み出す特権)を独占する仕組みであり、中央銀行が紙幣を刷って国家に貸付けるだけで金貸しは濡れ手に粟の莫大な利息を手に入れてきた。
【2】そして、金貸しが国家を支配するための方便が民主主義と議会である。
事実、議会は中央銀行制度をはじめ、第一次・第二次大戦、バブル経済等、すべての主要な局面で、金融勢力の暴走にお墨付きを与えてきた。
金融勢力が官僚と学者とマスコミを支配し、彼らを通じて大衆を近代思想に染脳した上で、その大衆に選ばせたものが議員である。当然、左も右も金貸しの操り人形ばかりとなる。
したがって、議会とは、金貸しの操り人形たちの演舞場に過ぎない。
したがって、民主主義の建前上「国権の最高機関」たる議会の役割は、当然のことながら、金融勢力の暴走行為にお墨付きを与えることだけとなる。
【3】そして、民主主義と議会を正しく(=金貸しに都合よく)機能させるための生命線が大衆を共認支配することである。
だからこそ、マスコミは常に金貸しに都合良く世論を操作するのである。(実際、世論操作されない民主主義国家など存在した例がない。)
武力支配時代の権力は「大衆には知らしむべからず」で専ら力の原理(≒棍棒)によって大衆を支配してきた。例えば、中世キリスト社会では教会のエリートだけで観念(知)を隠匿・独占し「大衆は教会の言うことをひたすら信じよ」という姿勢であった。
「十六世紀ヨーロッパの言語革命はキリスト教と金貸しの共認闘争だった」
それに対して、金貸しは近世ルネサンス以降、その支配に都合の良い観念を積極的に流布することで大衆を洗脳してきた。共認支配こそが金貸しが国家を支配するための生命線だからである。
実際、ルネサンス以来、金貸しは数万人に1人の才能を発掘しては芸術家や学者や政治家として育て、また他方では諜報機関や大学や広宣機関(マスコミ)を作ってきた。今日では、諜報機関や司法機関をはじめとする官僚機構や議会、あるいは中央銀行や大学やマスコミの中枢は、そのような金貸しの手先たち=私権エリートによって占拠されている。そして、彼らは一貫して、金貸しに都合の良い観念群を作り出し、学校とマスコミを通じて発信し続けている。
こうして、金貸しは、共認支配の頂点さえ押えれば末端大衆まで支配できる仕組みを作り上げた。
【4】金貸しが騙しの社会観念の洗脳を続けざるを得ない以上、騙し観念とは云え、大衆の社会認識(量)は増大してゆく。そして、今や、遂に先端の1%は騙し=真実に気づくに至った。
それは、この騙し観念が、共認回帰という新しい潮流と対立するからである。

民主主義という騙し観念はその成立過程(古代ギリシアの昔)から自我・私権要求と不可分一体であり、この近代観念(騙し観念)による共認支配(洗脳)が成立する前提条件は、大衆が自我・私権に収束していることである。だからこそ自我・私権の正当化観念である民主主義が蔓延ったのである。
「民主主義の権化=マスコミは権力の手先である。つまり、民主派の正体は私権派ではないか」
ところが、’70年豊かさの実現以降、本能回帰・共認回帰の潮流が生起する。
本能回帰の潮流は、’70年代以降のヒッピーや環境運動を含む自然志向に始まり、’90年代の健康志向、’02年以降の節約志向(「もったいない」)と、どんどん広がってきた。
共認回帰の大潮流は、’70年代の仲間収束を皮切りに、’80年代には(私権追求に代わる)やりがい志向を顕在化させ、’90年代半ばには自我発の性欲を衰弱させて一気にセックスレスを蔓延させたが、’02年になると課題収束の潮流を顕現させて遂に遊び第一の価値観を終焉させた。
この本能回帰・共認回帰の潮流は、自我・私権に基づく騙し観念と対立するので、洗脳からの脱却を促してゆく。
【5】加えて、’85年以降追い詰められた金貸しと私権エリートの暴走が始まり、’00年代に入って以降暴走は加速する一方である。それを見てきた大衆の間で、’11年原発災害を契機として、ついに、脱洗脳という意識潮流が顕在化したのである。
金貸し(資本権力)が追い詰められ暴走を始めた’00年以降、民主主義の権化であるマスコミ、とりわけ大手マスコミは公平性も中立性もかなぐり捨てて権力の手先の相貌を露にしている。
民主派の急先鋒(権化)であるマスコミが権力の手先であることこそ、民主派とは私権派であることの証拠であり、マスコミが権力側に立っていること=自我・私権派であることを鮮明にすればするほど、大衆はマスコミから離れてゆくだろう。

今回の衆院選の焦点はそこである。
すなわち、脱洗脳の潮流がどこまで顕在化しているか?
⇒大衆がどこまでマスコミの世論操作に惑わされずに投票するか?
例えば、マスコミから完全に無視されている小沢「未来」の得票率は何%になるか?
それが、大衆の脱洗脳潮流がどこまで進んでいるかを示す指標となるだろう。 

List    投稿者 staff | 2012-12-13 | Posted in 05.染脳国家日本No Comments » 

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