2010年05月18日

統合機運の基盤~キリスト教(内面と外面の使い分け⇒面従腹背⇒自我の温床空間)

歴史上の社会統合観念である古代宗教(儒教・仏教・ユダヤ教→キリスト教、イスラム教)が登場した基盤、その時代背景を明らかにする。
前回までに、儒教(力の原理の追共認⇒序列規範)、仏教(自我私権の捨象→宇宙の摂理)、イスラム教(遊牧共同体国家による市場の制御)、ユダヤ教(出自バラバラの寄せ集め集団の統合観念)を取り上げた。今回は、ユダヤ教の分派であるキリスト教を取り上げる。
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『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』(岸田秀著 新書館)から引用する。

ローマ帝国に関して不思議なのは、同じく一神教であるユダヤ教とキリスト教は、まず初めは、同じように差別され、迫害されて信者を大量虐殺されたのであるが、そののちの運命は大きくわかれ、ユダヤ教は相変わらず差別され、迫害され続けたが、キリスト教はついにはローマ帝国の国教になったということである。この違いはどこからきたのであろうか。
イエスが説法して歩いていた頃のイスラエルはどういう状況だったのであろうか。イエスがベツレヘムで生まれたときのユダヤの王はヘロデ王であった。ヘロデ王は、ゼウスの化身とされていたローマ帝国アウグストゥス皇帝の傀儡であり、ローマに対しては限りなく卑屈で、ユダヤの民に対しては残酷無法な暴君であった。(中略)イエスを含めて、当時のユダヤ人一般は、外部の権力に迎合する傀儡政権の支配下の植民地人であった。
植民地人とは心服できない権力に服従しなければ生きてゆけない状況におかれている者である。そういう状況において、いちばん安易な生き方は、内面では権力を否定し、軽蔑し、必要に応じて外面では権力に服従するふりをする生き方である。ところが、ユダヤ教は、その律法主義にも示されているが、外面と内面の一致、形式と内容との一貫性を重んじる厳格な一神教であった。
ここで、棄教すれば事は簡単である。実際、ユダヤ教徒だということで差別されるということもあり、棄教したものも多くいたであろう。しかし、棄教しないとすれば、ユダヤ教徒は非常に困った窮地に追い込まれる。迫害されないように権力に迎合すれば、戒律に背くことになり、神に見放され、罪と不安のなかで暮らさねばならない。かといって、権力は強大でとても打倒できそうにない。キリスト教の派生を余儀なくさせたユダヤ教の欠陥または弱点とは、ユダヤ教それ自体の欠陥というより、植民地という状況において信者が信仰と生活を両立させるのが困難になるという欠陥であった。
ここに、非常に好都合な脱出口を提示してくれる者が現れたのである。イエスである。彼が提示した脱出口とは、戒律を厳守しなくてもいい、すなわち、内面と外面を使い分けてもいいとしたことと、神の国における救いを説いたことである。愛を説いたということは内面を重視したことであり、内面で心清らかに神を信じているなら、食物規定とか安息日とかの外面の戒律を必ずしも守らなくていいし、ローマ皇帝に税金を払っても、ローマの神々に頭を下げてもいいのである。イエスについてゆけば、ユダヤ人は、ローマ人の要求に外面的には従いながら、内面では敬虔な信者であることができるようになった。
救いに関していえば、ユダヤ教は天国とか死後の世界とかを認めない宗教であり、救いはあくまで現実の地上の世界のものでなければならず、それは戒律と律法を厳守することによってしか得られない、したがって、敬虔なユダヤ教徒である限り、当時のイスラエルにおいて救いを得るのは絶望的であった。ところが、死後に行くことができる天国、神の国に救いがあるとなれば、この世にいて救いがないことは致命的ではないことになる。今は絶望でも、未来に救われる希望があるという「福音」をイエスは説いてくれるのであった。(中略)圧政に打ちひしがれた惨めな現実にかんじがらめになってもがいているユダヤの民衆に、イエスは、唯一の救いの道を示したのであった。
イエスは逮捕され、処刑されるが(中略)、イエスは理想化され、その信奉者は減らないどころか増えてゆく。ローマ帝国の支配下で、依然として、イエスが示した脱出口にしか絶望から脱出する希望がもてなかったからであろう。ここで、ローマに迎合するユダヤの支配層、富裕層は別においたとしても、ローマの支配に不服なユダヤの民衆それ自体が二つのグループにわかれてゆく。あくまでユダヤ教に忠実であり続け、ユダヤ民族の独立を守ろうとするグループと、現実にローマに反逆するのはあきらめ、幻想の世界(神の国、天国)に救いを求めようとするグループである。前者の中心となったのがいわゆるゼロータイ党で、彼らがユダヤ戦争を惹き起こす。彼らは、たとえ可能性はきわめて小さいにせよ、現実にローマの勢力をイスラエルから追い出すしかユダヤ民族が救われる道はないと考えた人たちであり、後者がのちにキリスト教徒となる人たちである。

イエスが提示した脱出口「内面と外面の使い分け」とは面従腹背のすすめであり、騙しの正当化に繋がる。それがヨーロッパ-キリスト教世界において、市場が拡大し自我・私権収束のパラダイム(⇒近代思想)が確立した土台なのではないだろうか。
私権体制は必然的に面従腹背の温床空間を生み出す。
「4/29なんでや劇場レポート「観念力とは何か?」(1)」より。

私権時代の統合原理=力の序列原理では、支配する者と支配される者に分かれる。ここに原理的矛盾がある。誰しもが支配するのは好きでも、支配されるのは嫌である。従って、支配される者は心底から支配を認めているわけではない。こうして、面従腹背が必然的に発生する。
私権の強制圧力が強い時代でも、私権圧力が社会の隅々にまで浸透することはなく、圧力が働かない隙間の自由空間が存在する。自由空間では自我発の自己正当化・他者否定が蔓延ることになる。元々から面従腹背で腹の底から支配を認めていない上に、自己正当化と他者否定の温床空間では、都合の悪いことは隠蔽、誤魔化し、言い訳に終始する。これが私権体制の原理的矛盾・欠陥である。

このように私権体制は必然的に面従腹背⇒自己正当化と他者否定を発生させるが、古代中国・インド・アラブのように本源集団(共同体)が残存していれば、その共認圧力(共認充足力)によって面従腹背⇒自己正当化と他者否定は一定封鎖されていた。
ところが、掠奪闘争によって本源集団(原始共同体)が破壊され尽くした古代オリエント~ヨーロッパ世界では、その支配体制は面従腹背を至る所で内在させることになる。
ユダヤ教徒が弾圧・迫害されたのは、その選民意識ゆえに支配階級に対して「面従」しなかったためであろう。当然、それではユダヤ教は普遍化しないどころか追い詰められる一方なので、「内面と外面の使い分け=面従腹背」を正当化することによって、ヨーロッパ世界で普遍化していったのが、ユダヤ教の一分派であるキリスト教なのではないだろうか。
実際、キリスト教はユダヤ教の一分派として登場したが、当時のユダヤ教徒の中にさえ「イエスの教えはインチキである」と考える者は最初は相当数いた。このことも、キリスト教がペテン性を最初から孕んでいたことを示唆している。
私権の強制圧力が強い時代であっても、「面従腹背」が正当化されれば、自我(自己正当化と他者否定)の温床空間が至る所に蔓延り、それを媒介にして騙しの正当化が蔓延ってゆく。
以降、キリスト教は「騙せば勝ち」を布教戦略として拡大に成功する。「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」というイエスの言葉も、現実の武力支配権力へは面従腹背で、内面(信仰)は現実の権力への面従とは別の所に在るということを暗示している。この内面と外面の使い分け構造があったからこそ、内面の信仰対象であるキリスト教会が、外面世界の国家権力を凌ぐ共認権力と財力を確立することができたとも言える。
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画像はこちらからお借りしました。
その後、金貸しが教会権力を買収し、持続的な市場拡大による自我・私権収束のパラダイムを確立していったことは、「近代市場は近世欧州社会の特殊事情の中から生まれた」で述べられた通りである。

近世欧州の特殊性をまとめると、
1.皆殺し→全て敵⇒架空観念に収束するが、正邪の羅針盤を喪失しているので『騙せば官軍』の世界に。
2.この力の原理に立脚する「騙せば勝ち」の構造を見抜き、それを布教戦略として成功したのがキリスト教。
3.欧州では中世~近世、教会が国家・国王をも上回る共認権力(→財力)を確立(アジアには無い構造)。
4.金貸しにとって絶対権力たる教会(法王etc.)は絶好の買収対象となり、教会の後ろ盾を得てベネチア・スイスetc.商業国家の独立、あるいは対イスラム十字軍遠征etc.次々と金貸しの思惑通りに事が進んでいく。
5.200年以上に亘る十字軍遠征により、富の大半を領有する貴族や騎士の大半が交易に関わり、商人(投機)貴族化した。その商業(私益収束)の拠点として、ベネチアetc.商業国家で金貸しに都合の良い法制・芸術・思想が生み出された。
<持続的な市場拡大の構造>
200年以上に亘る十字軍遠征=持続的な市場拡大
 ↓          
自我・私権の拡大へと可能性収束=自我・私権収束のパラダイム確立と市場に都合の良い芸術・思想・法制の創出
 ↓           
都市全域に(規範の解体→)性市場が拡大してゆくにつれて、第2弾の持続的な市場拡大
 ↓          
その後アメリカ・アジアetc.巨大な掠奪対象が「発見」されたことにより、第3弾の持続的な市場拡大
★この持続的な市場拡大による自我・私権収束のパラダイムの確立こそ、市場の力>国家の力に転換させた力の正体である。

そして、ヨーロッパ世界における自我・私権収束の原点は、キリスト教による「面従腹背⇒騙し」の正当化→自我の温床空間の蔓延にあったのではないだろうか。
そして、自我・私権収束のパラダイムを正当化した近代思想の意識と存在の断絶⇒騙しの思想構造の原点も、キリスト教の「内面と外面の使い分け⇒面従腹背」にあるのではないだろうか。
(本郷猛)
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List    投稿者 hongou | 2010-05-18 | Posted in 12.現代意識潮流5 Comments » 

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コメント5件

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小沢一郎の全てが解る。真実を知る為に国民必見です。

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