本能回帰・共認回帰⇒脱市場・脱洗脳の先に登場した意識潮流【自給期待】
「私たちは騙され続けてきた。しかし今や、洗脳からの脱却が始まっている」
「市場はもうウンザリ」⇒市場からの脱却が始まった」では、
【1】大衆の潜在思念の本能回帰・共認回帰と【2】金貸しと私権エリートの暴走によって、脱市場・脱洗脳の意識潮流が生起したことを提起した。
その先に登場した最先端の意識潮流が自給期待である。
つまり、市場から脱却して自給する、あるいは洗脳から脱却して自分でモノを考える能力を身につけようとする期待である。
例えば、週末農業をやろうといった意識であり、それに応えて貸し農園という事業も登場している。
「農と塾における業態革命~農の経営は、販路の開拓、農家の組織化、技術開発の3点セットの構造が基本」
この底流には、いざとなったら自分で耕して自給するという意識が働いているが、もっと大きく捉えれば、自分で生きていける力を身につけたいという意識の現れである。
つまり、自給期待とは、単に食糧を自給するといった次元を超えて、自分で生きていける能力⇒そのために、自分でモノを考えられる能力を身につけたいという期待である。
例えば、教育業界では通信教育という業態が伸びているが、これは独学の気運の現れである。この独学の気運は、個々の教科を教えてもらうよりも、自習する能力、習慣を身に付けたいという期待である。
この独学の気運の底流にあるのも、自分で生きていける能力⇒自分でモノを考えることのできる能力を身につけたいという期待であり、これも自給期待である。
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潜在思念の本能回帰・共認回帰の先に⇒脱市場・脱洗脳の意識潮流が生起し⇒そのさらに先端に登場した意識潮流が自給期待である。
自給期待の中身は、自分で生きていける能力⇒自分でモノを考えられる能力を身につけたいという期待である。
そして、その能力の中身は認識力と充足力、すなわち共認形成力に他ならない。
これは資格や専門能力といった狭い職能ではなく、全人的な能力であり、類的能力と言い換えることもできる。
実際、教育業界でも、単に授業で知識を教えることよりも、如何にして生徒のやる気を引き出すか等々の共認形成がはるかに重要になっている。
例えば、品川女子学院の漆 紫穂子校長がその著『女の子が幸せになる子育て』で提唱した「やる気のスイッチの入れ方」である。
「やる気のスイッチを入れるには(1)~できないと思っていたことができた時~」
「やる気のスイッチを入れるには(2)~これはみんなのためになると思えた時~」
「やる気のスイッチを入れるには(3)~自分のやりたいこと、目標ができた時~」
『感謝の心を育むには』「漆紫穂子著『女の子が幸せになる子育て』より ~心のスイッチ分析してみました!」
そして今後は、この類的能力(共認形成力)の育成需要が各企業に対する中心的な期待となる。すなわち、相手(顧客)にどれだけ充足と認識を与えることができるかが、企業間競争の勝敗も決することになる。
当然、各企業においても類的能力を育成できるか否かが企業の勝敗(生き残り)を決するようになる、従って、それは業態革命を促し各企業に類的能力の形成を促してゆく。
この業態革命で求められる共認形成力は、必然的に生産体革命(共同体革命)を実現してゆくだろう。
「今や、相手(顧客)を充足させなければ(勝たせなければ)勝てない」
「実現期待⇒能力欠乏→独学の気運に応える概念装置」
この本能回帰・共認回帰⇒脱市場・脱洗脳⇒自給期待⇒共認形成力(充足力・認識力)の萌芽は至る所で登場している。
例えば、『内田樹の研究室』「市場からの撤収」である。
マーケットから退場させられるより先に、自主的にマーケットから撤収する人々が出てくる。
「国民たちの市場からの撤収」が起きるのではないかと私は予測している。
「もうマーケットはいいよ」というのが現に国民のおおかたの実感である。
額に汗して労働してわずかな貨幣を稼ぎ、その貨幣で税金の乗った高額の商品を買わされるという市場中心の生き方そのものの被収奪感にもう「うんざり」し始めている。これは健全なリアクションだ。
貨幣や商品は本質的には「将棋の駒」である。
重要なのは「将棋を指す人間の中で活発に活動している人間的資質」の方である。
それは将棋の駒にはほとんど使用価値も交換価値もないが、将棋の駒を適切に操作することのできる人間的資質には汎用性があるというのと同じである。
現に私たちがありがたがっている貨幣そのものにはいかなる使用価値もない。洟もかめないし、メモも書けないし、暖房にもならない。
でも、貨幣を用いて商品をぐるぐる回すために人間にはさまざまな能力を開発せねばならず、その能力には高い汎用性がある。
だが、今このポストグローバル資本主義社会においては、「経済活動が人間的能力の開発を要求しない」という事態が出来した。
これは経済史的に前代未聞のことである。
「円高」とか「国債格付け」とかいうことは、すでに実際の国富の多寡や生産物の質や市場の需要と無関係に語られている。
こういうファクターを決定しているのは「現実」ではなく「思惑」である。「未来予測」であり、同一の未来予測を共有するプレイヤーの頭数である。
「貨幣で貨幣を買うゲーム」は「ゲームの次の展開」だけが重要であり、「次はこういう展開になる」という「まだ起きていないことについての予測」が反転して「これから起きること」を決定する。
不思議なゲームである。
ここで流れる時間は、人間的時間の流れとはもう違うものである。
ある意味で時間は止っているのである。
だから、この「貨幣で貨幣を買うゲーム」のプレイヤーにはどのような人間的資質も、市民的成熟も求められない。
そこで必要なのは適切な「数式」と高速度の「計算」だけである。
だから、金融工学についての十分な知識をもっていれば「子ども」でも株や債券の売り買いについての適切なアルゴリズムを駆使して巨富を築くことができる。
現に、そうなっている。
今では人間に代わってコンピュータが一秒間に数千回というようなスピードで取引をしているのである。
グローバル経済はもう人間主体のものでもないし、人間的成熟を促すためのものでもない。
私たちはそのことにようやく気づき始めた。
「こんなのは経済活動ではない」ということに気づき始めた。
「こんなこと」はもう止めて、「本来の経済活動」に戻りたい。そう思い始めている。
私にはその徴候がはっきりと感じられる。
そのような人たちは今静かに「市場からの撤収」を開始している。
内田樹氏の言う「人間的資質(能力)」とは、類的能力(共認形成力)に他ならない。
市場時代末期の金融経済(マネーゲーム)の世界は、経済活動が類的能力を要しないという人類史上の異常事態であったというのも、内田樹氏が指摘する通りである。
私権時代が武力支配~資力支配~末期の金融市場と進むにつれて、人類は共認形成力を衰弱させてきたというのは歴史的事実であり、その末路が金融経済の世界なのである。
しかし、今や私権社会は終焉し、共認社会へと転換過程にある。類的能力(共認形成力)が全てを決する時代に転換したことを意味する。
では、内田氏の言う「本来の経済活動」の中身は何なのか?それを次の記事で明らかにしたい。
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bllpvgym | 2014.03.26 10:20
日本を守るのに右も左もない | 裏天皇の正体14 ~明治維新は、倒幕(金貸し)V.S.佐幕(裏天皇)の対立構造によって引き起こされた。~
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