企業の浮沈を握る認識(4)共同体の実現を妨げる最大の障碍が、民主主義という自己正当化観念
みなさん、こんにちは。
前回は、311大震災による根源回帰(本能回帰・共認回帰)が引き金となり、すでに芽生えていた共認収束が顕在化してくることを見てゆきました。
その結果起こっているのが『独学の気運』の生起であり、それに応えるのが『概念装置』でしたね。
今回は、共同体の実現を妨げる最大の障碍とは何なのかを追究していきましょう。
まずは応援のクリックを御願いします。
現在、社会はガタガタになってゆくかのように見えますが、これは私権の衰弱・序列原理の崩壊によって、社会統合が一時的に失われてしまったことを示します。
一方で、1970年近辺の貧困の消滅に伴う共認収束はより深い位相でしっかりと形成されており、私権統合に代わる共認統合の下地はすでに存在していると言ってよいでしょう。
具体的には、
企業の浮沈を握る認識(1)敗者思考から抜けて闘争思考へ
で見てきたように
私権時代における敗者であっても、闘争思考へ転換できる可能性が開け、
また、
企業の浮沈を握る認識(2)今や、相手(顧客)を充足させなければ(勝たせなければ)勝てない
で扱ったように、
企業の闘争目標も相手を充足させることに代わってきています。
このような共認収束を土台とした意識潮流に応える基盤となるのが『企業の共同体化』。
そして、この共同体の実現を妨げるのが『民主主義』なのです。
それではいってみましょう。
★共同体の実現を妨げる最大の障碍となっているのが民主主義という自己正当化観念である。
多くの人は「民主主義は正しい」と思い込んでおり、民主主義と共同体はイコールであるかのように混同されているが、両者はその原理から全く異なるものである。
「民主主義は自我の暴走装置である」によると、共同体と民主主義の違いは次の通りである。
共同体では、
まず第一に、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。
従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。
従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。
それに対して「民主主義」は、
そもそも始めから共認原理を踏み外してしまっている。
それは、成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らないという点である。
これでは共認原理はまともに作動しない。
例えば法律については、それが日常のあらゆる生活を規制しているものであるにもかかわらず、(専門家以外)誰も知らないし、社会がおかれている状況についても、大半の成員がほとんど知らない。
事実、民主主義は、何よりも「発言権」や「評価権(議決権)」を優先させ、『まず学ぶ』という人類の根本規範を見事に捨象している。
だから、「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。
こうして民主主義は、『学び』をないがしろにし、「発言権・評価権(議決権)」を優先(=批判と要求を優先)させることによって、とことん自我を暴走させると共に、とことん人々を無能化させてきた。
★共同体的な運営は、どのようにして企業の成功に結びつくのか?
共同体の運営の胆は、「まず学ぶ」を根本規範とすることである。
共同体の成員は、当然皆に発言の資格があるのだが、発言するからには、学ばなければならない。
学びをないがしろにした発言は、自分の意見や主張のレベルでの発言にしかならず、直面している課題についての答えを提示することができない。
しっかりと学び、自分の意見を超えた、本当に必要な答えを皆でぶつけ合うことこそ、正しい方針を導き出す近道となる。
また、学びの意識を持つことで周りに対して謙虚になり、様々な意見を素直に受け止めることができるようになり、共同体としての意志の統一も図りやすくなる。
さらに、その前提として、自分たちの置かれている状況と課題を熟知している必要がある。
皆で状況を共有することで、成員の目的意識が一致し、同じ方向を向いて課題に取り組むことができる。
結果として成員は主体性を持って課題に取り組むことができ、活力も上昇する。
組織として答えを出す際、「多数決」という方法がある。
これはまさに民主主義を象徴する方法であるが、そこで決められた方針は、議論しつくされた結果のものではなく、安易な票決で決められてしまうことも少なくない。
例えば、A案とB案を選ぶ際に、A案には問題点があるにも関わらず、多数決によって票が集まり決定案になってしまう場合がある。
また、A案に納得をしていなかった人は、その後も納得しないままA案を元に仕事を進めていかなければならない。
共同体では、そのような問題点やもやもやがある場合は、とことん追求をして、問題の無い答えを導き出す。
そのために安易に多数決という手法は取らず、全員合意の意気込みで、とことん議論を尽くして答えを追求する。
その結果として、全員が活力を持って向かうことができる方針を出すことができるのである。
このように、共認原理に基づいた企業運営を旨とする共同体企業こそ、
価値観が激変する時代、すなわち私権時代から共認時代への移行期を生き残る決定打であり、文字通り企業の浮沈を握るカギであることが理解いただけたかと思う。
逆に『学び』をないがしろにして発言権や評価権を絶対化してしまう民主主義は、
「個人が原点→自分は絶対」という自我原理に立脚しているため、企業内においてもしばしば「自分の発言権は絶対」という理屈が登場する。
この自我原理こそ共認原理(共同体)の破壊物(敵対者)に他ならず、方針を見誤らせ、企業自体を蝕み崩壊させる元凶なのである。
『民主主義』が企業の浮沈を左右する構造がよく分かりましたね。
次回は、企業の浮沈を握る最終ポイント、専門分化の弊害について扱います。
企業の高度化には専門分化が不可欠だと思っていましたが、そうではないのでしょうか???
次回も楽しみですね!
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/10/2392.html/trackback