1/31なんでや劇場レポート1 「遊びの失速」は、何を意味しているのか?
😀 2010年1月31日に開催された「なんでや劇場」の議論を、2回に分けてダイジェスト版でお届けします。
2009年の意識潮流を考える上で最大の変化は、検察vs小沢に代表される「特権階級の暴走」と、それに対して大衆がNOを突きつけた民主党政権の誕生だ。
深層での意識変化は、1970年から始まっている。1970年の貧困の消滅=豊かさの実現、それに伴って私権が衰弱し続けたことに起因する最先端の現象が「特権階級の暴走」であり「政権交代」だ。
1970年以降の時代を集団私権がどのように変化してきたかで見ると、1970年に国家私権が衰弱し、1990年に企業私権が衰弱、そして2009年に家族私権が衰弱し始めた。これは、各規模の集団で「豊かになる」ことを軸にして集団を統合することが出来なくなってきたことを意味している。
そして、2009年の家族私権の崩壊が即ち、遊びの無意味化、遊びの敬遠・失速を示しているのではないか?
■遊びの失速とは?
(画像引用:http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090303/136128/)
クリスマスや正月と言えば過去は”遊びの季節”でありお祭り気分に浮かれ騒いでいたが、09年末はとてもそんな雰囲気ではなかった。旅行・遠出をする人間が減り、高速の渋滞も例年に無く少なかった。「巣ごもり消費」と言う言葉が象徴しているように、外に出かけに行く人間が減っていったのだ。
過去は、「クリスマスに一人でいるのは、恥ずかしい」という焦りから、何としてでも相手を探し、予定を立てていたものだが、そのような”焦り”が消えて無くなってしまった。正月に友人と会っても、バカ話で盛り上がることなく、マジ話が主流となり、正月から「学習塾どこにする?」という話がされていたとしか考えられない現象も見られた。
☆遊びへの欠乏が(焦りが)なくなってしまった。
■遊びの歴史
(画像引用:http://bacchu614.exblog.jp/i5/)
1950~60年代 ダンパ、映画
1960~70年代 スキー、ボーリング
1980~90年代 カラオケ、合コン、ショッピング、飲み会
これらの遊び、そして場は、男と女が連れ立ってする「遊び」であり、都会の華やかさを演出してきたものだった。それが半分以下になってしまい、見る影もない。
■遊び欠乏の中心にあったものは、何か?それが失速したのは、なぜか?
1950~80年代の華やかし頃の遊びが象徴しているように、男と女が相手を見定める(その口実となる)ものが「遊び」だった。遊び欠乏の中心は、(男女という)性の欠乏だった。
☆遊び欠乏の中心は、性の欠乏
○この性の欠乏は、歴史的にどのうような変遷を辿り、焦りを生み出す競争圧力を作ってきたのか?
原始共同体の時代(500万年前~5000年前)
・集団の規範によって相手が決められていた
・だから、競争圧力が働かない。
古代市場の時代(5000年前~500年前)
・宮廷サロンは支配階級の不倫の場であって、性市場そのものだった。
・抜け駆け性闘争の場であって、強い競争圧力が働く場となった。
近代市場の時代(500年前~現代)
・近代市場では、この性市場が都市全域に拡大した時代だった。
☆「自由な性」とは女の挑発本能と男の狩猟本能が交差する場。女の挑発と男の狩猟が、性市場での強い男女引力を形成する。
☆男女とも、相手を選択する場であり、強い競争圧力が働く。
☆この競争圧力が「焦り」を生み、「誰かと一緒にいなくては」といった強迫観念も生起させる。
(画像引用:http://illustramble.skr.jp/blog/log/eid317.html)
○男の狩猟本能⇔女の挑発本能が衰弱したのは、なぜか?
女が男を挑発し、男が女を狩猟しようとするのは、男と女が「違う」から。近年のように、男女が中性化してしまい「違い」がなくなると、挑発も狩猟も失速する。この男女の中性化の原因は、自然圧力の衰弱と男女同権思想による男女役割規範が解体されてしまったことにある。
自然圧力が強く働いていた時代は、その外圧に対して男女役割が共認され、規範化されていた。しかし、1970年に豊かさを実現し、自然圧力が衰弱すると、男女役割を分担する意味が薄くなり、役割規範も無意味化していく。加えて、戦後教育で盛んに言われてきた「男女同権思想(”男女”である前に、まず”個人”)」が広がっていったことで、長い間引き継がれてきた男女役割規範が消え去ってしまう。
☆男女役割規範が解体され、男女が中性化し続けた結果、女の挑発欠乏も、男の狩猟欠乏も衰弱してしまった。
しかし、これは1970年以降、段階的に男女役割規範が解体されてきたことを示しているだけで、2009年の「遊びの失速」への直接の契機ではないだろう。
より根底的には、豊かさの実現による自我・私権の可能性がなくなった事。さらに、特権階級の暴走によって秩序崩壊の不安が強まり、「女どころではない」=「遊んでいる場合ではない」という意識が決定的になったこと。
■この「遊びの失速」は、何を意味するのか?
遊び欠乏の中核に存在する性欠乏が衰弱する一方で、人々はより広く可能性を探索し、また課題収束を強めてきた。秩序崩壊の不安を受けて、「遊んでいる場合じゃない」「女どころではない」つまり性や遊びを一旦棚上げにして可能性を探索し、課題に収束してきた。
「遊び」その中心にある「女」は、私権の最終目的に位置する。裏を返せば、女と遊ぶために、私権獲得に励んできた。私権活力の根本には、遊び活力があるということだ。
遊びの失速を以って、私権欠乏は収束する。節約志向は今や日本だけでなくアメリカ、ヨーロッパにも拡大しており、市場は急速に縮小していく。今後、市場が再拡大することはない。
この潮流の下で、従来からの「私権強者(私権闘争上での強者)」が失速していく。遊びの失速は市場を急速に縮小させていく。この中で、例え私権強者と言えど成果は上がらず、給料が下がっていく。さらに彼ら自身の私権欠乏も終息過程に入り、私権強者の活力が衰弱していくだろう。私権体制においては序列原理=指揮系統が絶対の力を持ち、成果を規定する。私権体制において判断権・決定権を持ち指揮系統を牽引してきた私権強者が失速していけば、もはや私権体制は維持できない。
☆2010年代は、私権体制がいよいよ崩壊過程に入る。
😀 ここまでが前半。続きは明日です。お楽しみに~。 😀
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コメント8件
イタリアーノ・ホッパー | 2010.09.20 18:13
はじめまして。
金融ユダヤについては、いまいち詳しくなかったんですが、最近少しずつ理解しはじめました。
自身のブログ記事でも、簡単ですが、ここをリンクしてみました。
今後とも、宜しくです。
匿名 | 2010.09.21 4:57
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匿名 | 2010.09.21 5:39
コメントを入力してください
kota | 2010.09.24 21:48
イタリアーノ・ホッパーさんこんにちは!
私もこのブログや「るいネット」http://www.rui.jp/rui1974.php3 で金融ユダヤら“金貸し”による支配の構造を勉強しています。
近代市場社会が、マルクスやケインズに代表される経済学ではなく、実は彼ら金貸しや、手下である特権階級(官僚、学者、マスコミ)によって支配されている・・・全ては騙しであるということを知りました。
事実は何なのか?を一緒に追求していきましょう!
よろしくお願いします。
saito | 2010.09.30 22:45
皆さん、コメント有難うございます。近々シリーズ4作目がアップされます。御期待下さい。
マスコミに載らない海外記事 | 2010.11.23 15:23
「国境なき記者団」のまやかし
突如として有名になった?「国境なき記者団」、イラク侵略や、パレスチナ問題に対して、積極的に活動しているという報道を見た記憶が全くない。関連記事を調べてみた…
schweiz hermes | 2014.02.02 13:44
hermes 61169 日本を守るのに右も左もない | 「特権階級の空中浮遊とは、どういうことなのか?(3)~小泉・中曽根元首相の共通点と電通によるメディア支配」
もえおじ | 2010.09.19 23:51
民主党(特に小沢一郎)が考えていたメディア改革はどうなるのでしょう。
① 新聞とテレビの共同経営の禁止 ② 電波オークション制度の導入
③ 記者クラブ制の廃止
電通のメディア支配に対抗するためにも改革は必要なのですが、
今のところ何の兆しも見られませんね。