自給期待と日本の近未来2~不正選挙で大衆はお上を見限った~
昨年末の衆院選そして今年の参院選で顕在化した「自給期待」(自分たちで生きる道を考える)という意識潮流がどのようにして顕在化したのかを明らかにしたいと思います。
過去を振り返ると、これまで日本人は「国家・社会をどうする?」という社会統合課題は、殆どお上(特権階級)に任せてきました。
『6/27なんでや劇場レポート「日本人はいつ物を考え出すのか?」(5)
日本人は物的な工夫思考は得意。身近な集団をどうする?ということも考える。ところが、社会的な思考力は貧弱で、「国家・社会をどうする?」ましてや「世界をどうする?」などはほとんど考えたことがない。
改めて、歴史的に振り返ってみると、
縄文→弥生の転換期には、大陸の敗者受け入れで何も考えず。
弥生→大和の転換期には、朝鮮半島からやってきた正規軍の圧倒的な力を見て、服属することに決定。
元寇や秀吉の朝鮮出兵では戦うという決断をしたが、黒船来航では始めは尊皇攘夷だった同じ人物たちが、西洋列強との力の差を知り、脱亜入欧へコロっと転換(脱亜入欧は西洋文明を取り入れただけで自分たちで物を考えたわけではない)。
そして、第二次世界大戦で敗北して、それ以来GHQ・アメリカに服属。
それが、『お上を見限る』までに至ったのはなぜでしょうか?
お上を見限るまでの大衆の意識を見てきたいと思います。
写真はこちらのサイトからお借りしました。(リンク)
’10年まで大衆は、自分(の考え)とマスコミを一体視してきた。これは、戦前の軍国主義下でも戦後の民主主義下でも変わりがない。例えば、’60年安保運動の学生たちは「自分たちのバックにはマスコミがついている」と信じて疑わなかった。
ごく最近まで染脳され続けてきた大衆の99%は、自分(の考え)とマスコミ(の論調)を一体視してきた。従って、マスコミの論調と異なる大衆の空気(気運)など存在しなかったし、まして強力なマスコミ支配の下で、大衆固有の空気など見える訳もなかった。
それでも、’90年バブル崩壊後、マスコミをはじめとする支配層が全く答を出せない状況を見て、大衆は危機感を募らせてきた。
続いて、’11年3・11原発事故以降、大衆は支配層(お上)に対して「おかしい」と感じ、不信感を募らせた。これは、マスコミが何と云おうが「原発は危ない」という大衆の判断は変わらなかったからであり、そういう意味で3・11は、史上初めて大衆がマスコミ支配から脱して主体的な判断を下した画期的な転換点となった。(不正選挙で顕在化した「お上を見限って自給期待」とは、否定から実現へのパラダイム転換)
■自分とマスコミを一体視してきたとはどういうことか
過去を振り返ると、大衆は、学生運動、政治問題(ロッキード事件、小泉フィーバー等)や環境問題(地球温暖化、オゾン層破壊等)のようにマスコミによって報道される情報を自分の主張を代弁してくれているものとして一体視してきました。
これは、共認時代に突入し、マスコミが大衆に共認しやすい内容を発信し支配してきたことと大衆がマスコミの論調に乗っかることで世論と同じという安心感を得ていたからです。
■3.11原発問題は大衆が主体的な判断を下した画期的な転換点
バブル崩壊以降は、大企業の破綻(山一証券・拓殖銀行倒産)やオウムサリン事件・酒鬼薔薇事件に代表される事件が続々と起こりました。
しかし、このような社会問題に対してマスコミをはじめとする支配層は、全く答を出そうとはしませんでした。この状況を見て大衆は、危機感を積もり重ねてきたのです。
そして、危機感を積み重ねてきた所に起こった’11年3・11原発事故。政府・マスコミが如何に「原発は安全」と喧伝しようが、「原発は危険」という大衆判断は動きませんでした。
この判断が動かない現象こそが、大衆が主体的に判断を下した理由であり、画期的な転換点なのです。
写真はこちらのサイトからお借りしました。(リンク)(リンク)(リンク)(リンク)
そして、’12年12月の不正選挙=民主主義を破壊したお上(支配層)の暴走を見て、大衆(の3割)は、絶望感と共に「もはや、これまで」「もう、お終い」という形で、支配層(or現体制)を見限り、脱体制(その先にイメージしているのは、農村生活?or社会事業?or地方公務員?)の方向に舵を切った。
この「お上を見限った」とは「もう、お上には頼らない⇒自分たちで生きてゆく」という決断に他ならない。不正選挙を契機とするこの決断は決定的である。
これは史上初の、大衆の主体的決断であり、3・11以降の「判断」と’13年初頭の「決断」こそ、共認革命の出発点となるものである。
■’12年12月の不正選挙=民主主義を破壊したお上(支配層)の暴走
‘12年12月の衆院選は、自民党圧勝で幕をおろしましたが、大衆が納得できる選挙ではありませんでした。その背景には、不正選挙と思われる幾多の事象が存在します。
証言については下記のリンクをご覧下さい。
不正選挙まとめ ~パイナップルさんのツイートより~
写真はこちらのサイトからお借りしました。(リンク)
大衆は、上記のような民主主義という看板をかなぐり捨て不正選挙が画策されたお上の暴走を目の当たりにして、もうお上に頼るのではなく、自分たちで生きる判断をしたのです。
そのような状況から今後はどうなっていくのでしょうか?
生きてゆく上で無駄なモノはトコトン排除する節約意識がこれまで以上に高まっていく可能性もあります。
一方で大人たちは、意識上の決断を下しただけで、現実には会社を辞めるなどできません。故に、脱体制に舵を切った大人たちの想いは、将来を見据え、子供たちに期待していく方向へと向かうのではないでしょうか。
自給期待が顕在化した今、人々の意識はこれから大きく変わっていく予感がします。
今後、この決断から今後人々の意識はどのように動いていくのか、常にアンテナをはっていく必要がありそうです。
次回は、『自給期待』についてもう一段深めて考えてみたいと思います。
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