2014年02月22日

自給期待と日本の近未来13 追求力を上昇させるには?

前回は、私権時代の闘争目標と本源時代の闘争目標の違いを扱いました。
本源時代の目標は共認充足、そして共認充足を実現するのが追求力、でしたね。
では、その『追求力』を上昇させるにはどうすればいいのでしょう?
今回はそこを追求してみたいと思います。

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前回扱った

秩序崩壊の危機→適応本能⇒追求力の時代

という意識は、現代人であれば万人が例外なく心の最も奥深に孕んでいる意識です。
そして、子供であれ、学生であれ、社会人であれ、この意識を土台にしてどれだけ追求力を上昇させられるかに、今後の闘いの勝敗=集団の生死がかかっていると言います。
では、この『追求力』は、どのようにして培われるのでしょうか?
あることをとことん追求し、答えが出て、その結果大きな充足感を得たという体験は誰もが持っていると思います。
この追求には3段階の過程があるようです。順を追って解明し、追求力を培う方法を獲得してみましょう。
【第1段階】同類期待に応える追求
まずは人類の直接の祖先であるサル、それも原始のサルである原猿に着目してみます。


原猿とは、文字通り原始のサル類であり、彼らは外敵がおらず食物が豊富な『樹上』という縄張りを確保していました。
一見、天国のような『樹上生活』でしたが、この環境が原猿たちに思わぬ試練をもたらします。
それは『中途半端に生き残ってしまう』という試練です。
原猿の祖先にあたる原モグラは地上で個々に縄張りを確保して生存していました。縄張りを持てない個体は飢え死にするか、外敵に食われるかして死に、結果として原モグラの個体数は適切に維持されるのです。
しかし、原猿は『樹上』という天国を獲得してしまったがために、縄張りを持てない個体であっても、そこそこ飢えはするが外敵からは襲われないため生き残ってしまい、このような個体が、勝ち組の原猿(ボス猿=主雄)の縄張りの周辺に多数存在するという状況を作り出します。
死ぬに死ねないという、こうした状況を乗り越える手段は生物の本能には備わっていません。
原猿たちはどうしたのでしょうか?

 不全課題を抱えて依存収束した弱オスたちは、依存し合う中から、「どうする?」⇒「どうにかならないか?」と可能性を相手に求め、互いに相手に期待収束してゆく。
こうして、依存収束⇒期待収束し、互いに相手を注視し続ける内に、遂に相手も同じく依存し期待している事を発見し(探り当て)、互いに相手の課題=期待を自己の課題=期待と同一視して理解し合うに至った。
自分以外は全て敵で、かつ怯え切っていた原猿弱者にとって、「相手も同じく自分に依存し、期待しているんだ」という事を共認し合えた意味は大きく、双方に深い安心感を与え、互いの不全感をかなり和らげることが出来た。
この様に、不全感を揚棄する為に、相手の課題=期待を自己のそれと重ね合わせ同一視することによって充足を得る回路こそ、(未解明だが、おそらくは快感物質β-エンドルフィンを情報伝達物質とする)共感回路の原点である。
この安心感+が、相手+⇒仲間+共感を形成し、原猿たちは不全感の更なる揚棄を求めて、より強い充足感を与える(=得る)ことのできる親和行為(スキンシップなど)に収束していく。そこでは、相手の期待に応えることが、自己の期待を充足してもらうことと重ね合わされ同一視されている。
つまり、相手の期待に応え充足を与えることは相手に期待し充足を得ることと表裏一体である。
従って、相手の期待に応えること自体が、自己の充足となる。
共感の真髄は、そこにある。共感の生命は、相手(=自分)の期待に応望することによって充足を得ることである。
こうして、不全感に苛まれ本能が混濁したサルたちは、その唯一の開かれた可能性=共感充足へと収束することによって、はじめて意識を統合することができた。
これが、サル・人類の意識の、第一の統合様式たる共感統合の原基構造である。
 

このように、それまで直面したことのない状況に対して本能を超えるレベルで追求を重ねた結果、充足への突破口となる共感回路を原猿は獲得したのです。そしてその根源となっているのは同じような状況におかれた同類、すなわち相手の期待に応えること。
ということは、追求力というのは、サル・人類の固有の共認回路(みんな期待)発の回路がその発端となっている可能性は高いと思われます。
とりわけ人類は樹上逃避機能を失ったカタワのサルであり、500万年に亙って凄まじい自然外圧に晒されていました。
この全面的な逆境下で、みんなの生存期待に応えて「なんで?」「どうする?」と追求を重ねて進化したのが極限時代の人類です。
つまり、人類固有の追求(充足)回路は、極限時代、みんなの生存期待に応えてひたすら自然を対象化し、答を求め続ける中で形成されたようです。そうして見つけ出した答が精霊を見る観念原回路の形成です。
↓↓このあたりが参考になります。
洞窟と死肉あさりについて
観念原回路獲得のシナリオ
【第2段階】集団期待に応える追求
もう少し時代を下って、追求力の源泉について見てみましょう。
2600年前の中国、春秋戦国時代です。

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↓↓↓時代背景はこちらが参考になります。
諸子百家とはなんだったのか
なぜ中国は、自集団内の規範を説く「論語」や諜報の重要性を説いた「「兵法」を生み出せたのか?
この中の儒家、孔子の儒教に注目しましょう。
儒教の最上位の規範に位置づけられるのが仁・義です。
普く人々の期待に応えようとする規範が『仁の心』、その期待を決して裏切ることなく応合貫徹しようとするのが『義の心』です。
これらの意志が追求力を維持させ、「勝つ気」「本気」の位相に至らしめていたのです。
2600年前の中国、春秋戦国時代という武力闘争の時代に、このような本源性の高い観念体系が出来たのは何故でしょうか?
この時代の闘いは部族間闘争であり、そこでの成員の意識は「まず部族集団ありき」でした。
王侯から庶民に至るまで集団第一であったからこそ、仁義観念が最上位規範に置かれたのです。
【第3段階】社会期待に応える追求
儒教が生まれた春秋戦国時代は、圧倒的な生存圧力に晒されており、所属する部族が敗退し滅ぶことは成員自らの死を意味します。そこには『個人』という観念は存在しません。
翻って現代人が儒教規範、とりわけ仁義規範を理解し難いのは、『近代思想=個人主義』に染脳されているからなのです。
春秋戦国時代のような武力時代から資力がものを言う市場時代まで、人類は一貫して生存圧力に晒されて来ました。
しかし、1970年頃には、ついに生存圧力を克服、向こうからやってくる圧力をどうする?という思考から解き放たれ、真に充足を追求できる、『追求力の時代⇒本源社会の実現過程』に入りました。
そして【第1段階】【第2段階】で見てきたように、追求力の源泉は同類や集団の期待に深く同化すること(仁・義)にあります。
ということは今後、時代は近代個人主義を突破して集団第一の社会に入ってゆくということを意味します。このことは、同時に、近代思想=個人主義の騙しが暴露されてゆくことと重なっているのです。
基底的な流れは上記の通りなのですが、現在、かなりの難課題に我々は直面しています。
私権の終焉→文明社会の崩壊とお上の暴走(不正選挙)→秩序崩壊の危機という、これまでにない逆境がそれです。
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この逆境を突破しないことには、可能性に満ちた本源時代は到来しません。
そのためにサル時代から培ってきた追求充足回路をフル稼働させ、答えを出し、万人が充足できる社会を作る時なのです。
前回の記事で扱ったように、これからの時代における追求対象=闘争対象は、健・食・住or自然・社会etc無限に存在しています。
これらの追求対象の背後には常に人々の意識・期待が存在しており、人々の期待に深く同化することが追求力の源泉であることは、極限時代から変わりなく、現代以降の本源時代では益々重要になってきます。
すなわち、どれだけ追求できるかは、言葉になっていない人々の潜在期待を掴めるかにかかっており、それは自分自身の潜在思念の深層に耳を傾けることと同義です。
なぜならば、自分自身の潜在思念の奥深くにあるもの=人々の潜在思念の奥深くにあるものだからであり、それこそが追求の源泉だからです。
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つまり、追求力の時代とは同時に集団第一の時代の到来を意味するのです。
その意味を我々現代人はよくかみ締める必要があります。
集団第一とは、所属集団を生き残させる・勝たせるためにどうするか、真剣に考え、行動すること。
たとえば、これまでは大企業やお役所に入りさえすれば、ぶら下がって私生活を満喫して来れましたが、これからはそんなことは許されなくなるということなのです。
最後に、人類の追求充足の歴史をまとめておきます。
人類の旧い祖先である原猿の時代に同類期待に応える追求充足原回路を獲得
武力闘争の時代に自集団を勝たせるための規範を作り出してきた
私権が崩壊した現代は、あらためて集団第一をベースに360度の追求課題に向かう時代
続きます

List    投稿者 ohmori | 2014-02-22 | Posted in 12.現代意識潮流No Comments » 

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