幕末の思想2 下級武士が尊王攘夷に収束したのはなぜか?
(画像はコチラからいただきました)
前稿「幕末の思想1 下級武士が西洋思想に収束したのはなぜか?」では、下級武士が西洋思想や近代化に収束していった構造を明らかにしました。
一方、幕末期には『西洋思想(近代化)』と同時に『尊王攘夷論』も下級武士を中心に盛り上がりをみせます。
西洋を受け入れる近代化と夷狄(異国民)を排斥する尊王攘夷論。
全く反対の思想なのですが、共に下級武士達が収束し、2つの思想が相まって倒幕運動につながっていきます。
両者には共通する構造があるはずです。それは何か?
今回は尊王攘夷論の元となった水戸学を学びながらその共通構造に迫っていきます。
『江戸の思想史』(田尻祐一郎著 中公新書)
『概説 日本思想史』(佐藤弘夫他 ミネルヴァ書房)より引用します。
幕末の思想は、内憂外患に揉まれながら鍛えられた。
内憂とは、農村の一揆であり都市の騒擾であるが、その背後には、民衆の間に「世直り」への待望が日ごとに強まっているという現実がある。
百姓一揆は、代表越訴型(村役人による領主への年貢減免要求)から惣百姓一揆(広汎な百姓の強訴や逃散)へ、さらに豪農・豪商への打ち壊しをともなう広域の闘争へと展開した。その中で百姓は、「公儀の御百姓」(三浦命助「獄中記」。命助は盛岡藩の百姓で行商人)、「天下の御百姓」(天保期の三河国の百姓一揆の記録である「鴨の騒立」)として、藩を越えた自分たちの拠り所を誇らかに掲げるようになり、かつて見られなかった政治的な主張を堂々と押し出して、ついには固い結束と周到な準備をもって、藩主の交替を要求し実現させるまでの力量をもつに至った(一八五三年、ペリー浦賀来航の年の盛岡藩三閉伊一揆。その指導者の一人が命助)。
外患とは、ロシア・イギリス・アメリカをはじめとする列強が、圧倒的な軍事力をもって日本の開国を迫る事態である。そしてペリーの浦賀来航(一八五三年)は、その危機感をいよいよ切迫したものとする。
このような対外的緊張を国内体制の動揺との関係のうちにおいて体系的に把握しようとする学派があらわれた。それが水戸学である。
そもそも水戸学は,水戸藩主徳川光圀(1628~1700)の『大日本史』(1906完成)編纂に由来するものであるが,特色ある一箇の学派として成立するようになるのは,藤田幽谷(1774~1826)が,「正名論」(1791)を著し,「幕府,皇室を尊べば,すなわち諸侯,幕府を崇び,諸侯,幕府を崇べば,すなわち卿・大夫,諸侯を敬す。それ然る後に上下相保ち,万邦協和す」と尊王敬幕論を唱えたことに始まる。
水戸藩は光圀以来,蝦夷地経営に関心を寄せており,18世紀末の北方ロシアとの接触の情報は,当時の幕藩体制の弛緩に対する認識とあいまって,「内憂外患」と呼ばれる内外への危機意識を生むこととなった。このような中で幽谷は,天皇を頂点とする国家体制の確立と排外主義を唱えることで,この危機を乗り越えようとしたのである。このような主張は尊王攘夷と呼ばれ,国学のエスノセントリズムや蘭学の海外知識に影響を受けつつも,あくまで儒学的論理の内でうち立てられた思想であった。
幽谷によって成立した水戸学は,その後継者である会沢正志斎(1782~1863)によって理論的に大成された。彼は1824年,水戸藩領大津浜に二隻のイギリス捕鯨船が来航し,薪水給与を求めるという事件に遭遇し,彼自身も筆談役となり,世界地図をもってその国籍を尋問している。この体験は,彼に海防の急務なることを実感せしめ,翌年の異国船打払令の公布とあいまって,主著『新論』(1825)における,幕府を中心とした統一的な国防体制樹立の主張へと結びついた。
「民心」を統合しようとした水戸学(会沢正志斎)
会沢正志斎が著した『新論』は、内憂外患の時代に何が問題の本質であり、どのような国家として徳川体制を立て直すべきかが大胆に論じられていたから、現状に危機感を懐く多くの人々の関心を呼んだのである。
その『新論』は、「民心」のありように注意を向ける。
正志斎によれば、定まってあるべき「民心」は、浮遊している。
西洋人が、「民心」の空隙を狙い、手段を尽くして「民心」を自分たちの側に呼び込もうとしている。「民心」が取り込まれてしまったなら、軍事的に対決する以前から、日本は西洋人によって実質的に植民地化されてしまうに等しいと『新論』は言う。列強の策術は巧妙であって、軍事的な脅威だけに目を奪われてはならない。
民衆の内面は、権力者の手の届かないところにあって、不気味なエネルギーを蓄えているとする不安が、会沢の思想の奥底に潜んでいる。
宗教も学問も堕落して、人心を迷わしてばかりいる。天を敬い祖霊を祀ることが疎かにされて、淫祀がはびこっていると嘆く正志斎の言い回しからは、「民心」の動向についてのある本質的な恐怖心と、徳川国家の正統性が、「民心」の掌握という点で無力だという痛いほどの思いとを見ることができる。
徳川国家はこの時まで、自らの体制を支えるべきイデオロギーについて、突き詰めて考えてこなかった。「公儀」による「泰平」は磐石に思われたから、一方で「武威」をかざし、他方で朝廷・天皇の権威(律令国家の枠組み)を利用して、儒教・仏教・神道を状況や領域ごとに組み合わせて体制を保ってこられたのである。
それは、朱子学を正統として掲げ、イデオロギー的な一元性を強固に保つことで社会体制を維持していく中国や朝鮮の科挙社会との決定的な違いである。
旧規範観念(忠孝や祭祀)によって幕藩体制と秩序を維持しようとした水戸学
水戸学は,万世一系の天皇を戴く忠の道徳を,臣民たる日本人が神代以来子々孫々と承け継ぎ守ってきたこと(忠孝一致)に基づく国家体制を国体と規定し,それが万邦無比の優秀性を持つものとして称揚することで,内憂外患に対応するための人心掌握を目指すものであった。
しかしその尊王の主張は,天皇-将軍-藩主-藩士という支配のヒエラルヒーにおいて,各階層が直上の支配者に忠義を尽くすことを求めるものであり,その限りで幕藩体制を越えるものではなかったのである。それは対外的危機意識を昂揚させることを適して,国内的な封建制の諸矛盾を解消しようとする,水戸学の戦略にほかならなかった。
忠孝の一致と並んでもうーつ、国家秩序にとっての儀礼の重要性に『新論』の著者は政治的な注意を払い、民衆の衣食住それぞれが、記紀神話に由来して「天祖」や神々、ひいては天皇による恩恵として存在することの記憶を想い起こさせようとする。
まず、祭祀の基本は祖先祭祀である。
祖先祭祀が安定し、それが国家の秩序に組み込まれれば、「民心」に動揺や空隙がなくなるのである。武士階級については忠孝一致が有効なイデオロギーであっても庶民については、祭祀を通じての民心の統合が決定的だと会沢は考えた。
このような水戸学の思想はしだいに受け入れられ,尊王攘夷を自らの行動原理とする有志の士(志士)が現れるようになった。しかしアへン戦争を経て,1853年のペリー・プチャーチン米露両艦隊の来航にはじまる開国過程の中で,尊王攘夷思想は幕府の外交姿勢を批判する思想的基盤を提供し,幕藩体制の維持という水戸学本来の目的から急速に乖離していくこととなるのである。
多発する農村の一揆や打ちこわし、列強からの侵略と内憂と外患に揉まれることになった徳川幕府を「祭祀・儀礼」や「忠孝」により立て直すための思想が水戸学でした。
しかし、これが倒幕や秩序を破壊する「尊王攘夷思想」に発展していきます。どうして真逆の運動になってしまったのでしょうか?
『日本政治思想史』(渡辺浩著 東京大学出版会)より引用します。
では、「尊王攘夷」と「公議輿論」、それぞれが当時往々命をかけて活動した「志士」「義士」たちの動機だったのだろうか。そのような抽象的な大義のために職も命もなげうって活動する献身的なヴォランティアが、突如大量に出現して、維新を起こしたのだろうか。
早熟なナショナリズムからする「国」の独立維持のための改革だった、などという維新解釈も、同様である。それは分かりやすい。しかし、結局、「国」のために自己犠牲を厭わない偉人あるいは奇人が、何故か歴史上この時だけ(しかも、何故か下級武士を中心に)自発的に多数出現したという説明に陥ってしまう。
福沢諭吉によれば、「尊王攘夷」は「枝葉」にすぎない。事の真相は自由を求めた「人民」による「専制」「暴政府」打倒である。但し、彼がいう「自由」とは、言論の自由でも信教の自由でもない。「自由」とは、世襲身分制度からの解放であり、「立身出世」の自由なのである。
もっとも、以前から、町人であったならば、家業に精を出し、「才覚」を振るって家業の繁昌と家格の上昇をめざすこともできた。これに対し、「立身出世」の可能性がほとんどなかったのが、下級武士である。彼等の大多数はそもそも意義を実感できるような仕事はしていない。
武勇も才能も、活かす機会は無い。内職に出精して手間賃は増えても、武士としての出世は無い。努力のしようさえ無いのである。「治世には役人の外は無用の長物の様に、農工商の輩は思ふも多」く、「町人百姓も侮り軽じ、士魂下り眠て、武威次第に軽く成っていた」。かといって、自分の土地も無い以上、彼等は憤然として武士を辞めるというわけにもいかなかった。
しかも、彼等は困窮していた。元来、米の量で定められた禄では、市場経済化に伴って困窮は必至である。さらに、百姓の抵抗で税収を増やせない大名は、その禄さえ十八世紀半ば以降、往々削減した。時には、半減さえし、やがてそれが常態化した(「半知」)。
下級武士は、金もなく、威信もなく、憧れもされなかった。儒学を学んで、家柄ではなく才徳によって登用されるべきだと信じるようになっても、清国・朝鮮国と異なり、科挙制度は無かった。
福沢が後に「親の敵」と呼んだ「門閥制度」だった(『福翁自伝』)。そのような下級武士にも、しかし、誇りだけはなおあった。その狭間で鬱屈していた彼等(つまり、「不平士族」である)にとって、対外に緊張感が生じ、「海防」が課題になったことは、ある意味で救いだった。武士として活躍する日がついに到来するという予感に、文字通り武者震いした人々がいたのである。「出奔」「脱藩」の「士」の多くが下層だったのも当然であろう。また、大名家の中でもとりわけ誇り高く、しかも経済的窮乏が苛烈だった水戸徳川家で、体外危機を強調し、「英雄」「豪傑」が立って世を立て直すべきことを高唱する一派(「水戸学」、さらに「天狗党」)が出現し、多数のテロリストを生んだのは、示唆的であろう。
革命とは被支配階級が起こすはずだ、と信じ込む必要はない。町人の生活は、多くの下級武士よりも豊かで、しかも気楽だったのではないか。彼等が、武士の騒動を傍観したのは当然であろう。一方、多くの武士は、経済的に苦しいだけでなく、自己肯定が困難だった。戦国武士の理想からすれは彼等は堕落していた。儒教的君子の理想からすれば、世襲の「武」の「士」であることはひけめだった。そして「皇国」の歴史意識からすれは、存在自体が道徳的に疑わしかった。
ペリー以降の動揺と瓦解の主な駆動力は、既存の体制内で鬱屈を募らせていた武士たち、とりわけ下級武士たちの、自己と他者の改革と破壊への衝迫であろう。彼等が、「壊夷」や「尊王」を旗印として、「横議」し、下克上し、戦い、同盟したのである。新政府の構成が示すように、これは、主に下級武士による革命だった。
「御威光」でいかめしく輝いていた「幕府」を「尊王」を掲げて罵れば、溜飲が下がったであろう。「攘夷」のできない臆病で「不忠」な「幕吏」を脅迫し「天誅」を下すのは、快感だったであろう。「公論」に従えと叫んで、家中の(当然に保身的であるが故に保守的な)「門閥」をやりこめ、さらには「藩主」までをも操作するのは、小気味よかったことであろう。「志士」たちの居丈高な姿勢と往々サディスティックな暴力の背後には、ルサンチマンと「正義」の結合があったのであろう。
五箇条の御誓文第三条は、それまで、「志」が「遂」げられず「人心」が「倦」んでいたことを認め、もうあのような世は止めよう、と言っているのである。それは、被支配身分だった町人・百姓からの要求へのやむを得ぬ譲歩ではなかった。何よりも、二世紀以上の間、悩み、鬱屈していた武士自身への解放宣言だった。
このように、尊王攘夷運動⇒倒幕運動を主導したのは身分序列の上位にいた下級武士たちです。庶民(農民・町人)はそれを傍観していました。
そして、幕末の下級武士たちが尊皇攘夷に収束していったのは、前稿(「幕末の思想1 下級武士が西洋思想に収束したのはなぜか?」)と同じ理由です。
下級武士が明治維新を遂行した必然性
【1】都市(市場)の住人となった下級武士は共同体と社会的役割を喪失した遊民と化しており、自我私権欠乏が潜在していた。
【2】喪失した社会的役割の代償として施された理想主義的教育の結果、武士たちは現実の圧力から乖離した観念思考に傾斜していった。
【3】さらに下級武士は年々貧しくなる一方で、立身出世の可能性もないために幕藩体制に対する不満と反体制(反秩序)意識が強くなっていった。「封建制は親の敵なり」と言った福沢諭吉がその代表である。
元々は幕藩体制の維持と社会の秩序化を目指した水戸学が、正反対の倒幕と秩序破壊の尊皇攘夷運動へと変質していったのも、それを担った下級武士が、共同体と社会的役割を喪失し、自我・私権の主体となり、反体制・反秩序意識を強く孕んでいたからです。
しかし、後期水戸学は最初は、幕藩体制と秩序維持を目的に提唱された社会統合観念でした。
後期水戸学は、民衆に新しい神学を注入しようとしたのではない。ちょうど近代日本の国家道徳が、仏教・神道・キリスト教をはじめとする諸宗教の信仰の自由をとりあえず認めながら、それらを超えたものとして君臨したように、日本人であれば誰もが守るべき道、誰もが従うべき教えとして、個々の宗教を超えるものを作り出そうとしたのである。『江戸の思想史』(田尻祐一郎著 中公新書)
後期水戸学という社会統合観念が登場したのは、その背後に社会統合期待「世直し期待」があったことを意味します。
西洋思想⇒開国や尊王攘夷運動⇒倒幕運動に対しては傍観していた庶民たちにも「世直し期待」があったことは間違いありません。
この庶民をも貫くとは、どのようなものだったのか? 次週に扱います。
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