2013年01月31日

天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ2 日本に脱出してきた徐福が作ったネットワークが大和朝廷

☆この時代までは、日本へは流民として命からがらやって来て、原住民の縄文の人々に受け入れられた人々でしたが、中国の秦の時代になると様相が変わってきます。計画的に大集団がまとまってやってきます。伝説でも有名な徐福です。彼らが、それ以後の日本でネットワークを形成し支配勢力の中核となっていきます。

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●徐福の脱出と葛城ネットワーク
 BC219年、始皇帝の命を受け、(帰れば村は殲滅されると考えた徐福が)童男・童女3000人・百工・五穀の種子を集め、30余隻の船団で日本に脱出・移住を計る。
 徐福は、脱出の前に一度日本を調査しており、それは計画的かつ用意周到なものだった。この用意周到さと、華僑に見られるような強力な同族意識が、彼らが日本でネットワークを形成し得た理由である。
・徐福伝説は、斉州島をはじめ福岡・八女、佐賀・伊万里、宮崎・延岡、鹿児島・串木野、山口、広島、高知、紀伊・新宮、三重・熊野、愛知・熱田、静岡・清水、神奈川・逗子、東京・八丈島、山梨・富士吉田、若狭・伊根、秋田・男鹿、青森・小泊村まで20数ヶ所。
 徐福は出発に際して徐福村の者たちに「秦に殲滅されるから、今後は徐の姓を消すように」と云い残しており、日本に来ても、当然、別の姓を使うようになった。

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〔徐福の日本への航路。ちょうど済州島が中間にあり、ここで三派に分かれた〕
・徐福の本拠は伊豆で、豊かな農作と金山で財を築くと共に、尾張、紀伊、出雲、吉備etcの徐福一族とネットワークを構築。(徐福は、始皇帝の追撃を何よりも恐れており、そこから正体を隠す家訓と情報収集のネットワークが突出して発達していった。)
・徐福は危険を分散させるために、斉州島から三派に分かれた。①日本海→出雲・北陸・東北へ、②瀬戸内海→吉備へ、③本体は、太平洋→鹿児島・高知・八丈島・伊豆へ。そして葛城は伊豆を本拠地とした。
・徐福は伊豆で葛城に名を変えた。伊豆半島には、田京を中心に葛城山、桂川、狩野(賀茂)川、長岡、賀茂群etcの地名が点在している。

 出雲のスサノオ→大国主とスクナビコナの国づくり神話は、2340年前の越人と2230年前の楚人(徐福=葛城)による連合政権を示すものである。
つまり、出雲はまず2340年前に越人が国を作り、2230年前に来た楚人を受け入れて繁栄。(それ以降は、葛城のネットワーク下にある。)
●大和政権の樹立
 葛城ネットワークは鉄の主産地である伽耶にも拠点を確保していたが、312年高句麗が楽浪郡を占拠した頃から高句麗に対する警戒を強め、大和政権の樹立を決意。そこで、拠点をネットワークの中心である大和に移し、そこに伊豆と同じ地名を付けて本拠とし、320年前後、緩やかな大和連合を形成した。続いて、350年前後、同じく高句麗の南下に対抗して百済、新羅が相次いで建国されたのを見て、大和の建国を決意。葛城傍流の伽耶の王を大王(崇神)として招き入れて大和朝廷を建国した。
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〔大和の中心だった纒向遺跡で出土する土器の由来地、日本中のネットワークが結集している〕
※出土土器は、大和以外では尾張東海地方過半を占める。
(図版はリンクよりお借りしました。楕円は土器の出土範囲です。出土数ではありません)
 つまり、徐福(葛城)が日本全国に亘るネットワークを構築していたからこそ、その中心地である大和に政権を建てることができた。朝鮮半島の伽耶や百済から来た勢力だけでは、大和政権(ネットワーク)を建てることは不可能だっただろう。(それに彼らが政権を樹立するとしたら、九州・瀬戸内、そしてせいぜい河内あたりのはずだが、内陸にはいった大和に政権を作ったのは、ネットワークの中心だったからだ。)
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☆大和政権は、葛城ネットワーク(江南人・弥生人)+伽耶人(韓人)による前方後円墳の連合政権だった。彼らは前方後円墳を作り、勢力を誇示した。しかしこの勢力とは別に日本には東にも大勢力が形成されていく。
●弥生人+韓人=西の古墳人、縄文人+高句麗人=東の古墳人
 5世紀始め頃から、朝鮮半島情勢北部の高句麗が強大化していく。高句麗広開土王が百済・伽耶に攻め込み、攻め込まれた韓人(主に百済人)が、押し出されるように日本にやってくる。さらに、その後の金官加羅滅亡(532年)、任那滅亡(562年)の際にも伽耶人が日本に逃げ込んでくる。
これら韓人(百済人/伽耶人)と弥生人・縄文人との混血を(西の)古墳人と呼ぶ。
 一方、高句麗は南進した勢いでもって日本にやってくる。高句麗は、百済や大和政権を挟み撃ちにするように東日本に勢力を築く目的で派兵。この410~480年頃の広開土王・長寿王の朝鮮半島征服時代に日本に渡って来た高句麗人と縄文人の混血を東の古墳人と呼ぶこととします。
東西の古墳の分布は、この東西2大古墳人の勢力分布を明瞭に示しています(下図)。
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〔日本列島の前方後円墳と前方後方墳の分布〕:西と東で明確に勢力が分かれている。
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●まとめ
日本人の基層をなすのは、3~1万年前にスンダランドからやってきた縄文人である。そこへ、2500年前~2200年前、中国での戦乱から逃れてきた江南人(倭人)が流れ着き、混血して弥生人が生まれる。
※秦の始皇帝から逃れてきた徐福一派は、この江南人の系統と考えられる。
・縄文人+江南人(中国南方出身)=弥生人
 次に古墳時代(1750年前頃から)には、朝鮮半島の北方部族(扶余族・高句麗)の南下に押し出される形で、韓人(主に百済人、伽耶人)が、西日本にやってくる。同時期東日本には、高句麗人がやってきて縄文人と混血する。
・弥生人+韓人(扶余族+倭人)=西の古墳人
・縄文人+高句麗人(扶余族)=東の古墳人

 この人種的混血状況が、東日本と西日本の民族的気質の違いを産み、東の古墳人の中から武士が生まれてくる。
西の古墳人は、葛城ネットワークから天皇制国家を産み、大陸の国家制度を真似た律令制を導入する。中世以降、武士政権時代には影を潜めながらも、近代になってそのリバイバルというべき明治維新となって復活します。
※日本で縄文的/共同体的な気質が強く残ったのは、地方で言えば東北・東日本、時代で言えば武士政権時代においてより強い、これは縄文人と、素朴な狩猟民族であった高句麗の気質によるところが大きいと考えられる。
それに対して皇統が政権を握った時代は、国内では民からの収奪が強く、対外的には属国的な、或いは無茶な対外進出の時代であったと言えるだろう。

~ 次回 ~
大和政権の成立についてさらに詳しく扱います。お楽しみに。

List    投稿者 staff | 2013-01-31 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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