米国の圧力と戦後日本史6 ~サンフランシスコ講和条約と日米安保条約。戦後民主主義体制とは何だったのか~
前回の記事で明らかになったように、占領下の日本において、米国は日本のマスコミと検察を支配する力を手に入れた。そして、1950年朝鮮戦争をきっかけとして、米国による占領政策が「経済発展・再軍備」へと転換していくことになる。さらに今回は、1951年に調印されたサンフランシスコ講和条約・日米安保条約の実態を見ていく。
1951年のサンフランシスコ講和条約よって日本は独立を認められ、日本は主権を回復した。一方で、日米安保条約を締結することにより、日本は米軍防衛目的の駐留を認めた。
※以下、文章引用元は全て「戦後史の正体」(孫崎亨)
前回の記事で明らかになったように、占領下の日本において、米国は日本のマスコミと検察を支配する力を手に入れた。そして、1950年朝鮮戦争をきっかけとして、米国による占領政策が「経済発展・再軍備」へと転換していくことになる。さらに今回は、1951年に調印されたサンフランシスコ講和条約・日米安保条約の実態を見ていく。
※以下、文章引用元は全て「戦後史の正体」(孫崎亨)
1951年のサンフランシスコ講和条約よって日本は独立を認められ、日本は主権を回復した。一方で、日米安保条約を締結することにより、日本は米軍防衛目的の駐留を認めた。
■「米軍はいつでも引き上げることが出来る」ことを定めた安保条約
多くの日本人は、日米安保条約によってずっと日本は米国に守られていると思っている。しかし旧安保条約の交渉担当者であるダレスにそのような意図は無かった。
安保条約の条文の中で、日米の安全保障について定めている部分は以下のようになっている。
第1条
「アメリカ合衆国の陸軍、空軍および海軍を日本国内およびその付近に配備する権利を、日本国は、許容し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。
この軍隊は、極東における国際の平和の安全の維持に寄与し、ならびに、一または2以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起こされた日本国における大規模の内乱および騒じょうを鎮圧するため、日本国政府の明示の要請に応じてあたえられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することが できる。」
第2条「アメリカ合衆国の軍隊の、日本国内およびその付近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する。」
第一条では、米軍を「日本国の安全の寄与するために使用することができる。」と記載されているが、この条文が意味するところは、米軍には日本を守る法律上の義務は無いことを意味している。つまり、日本の領土に米国の軍隊が駐留しているのは、日本を守るためではなく、日本の民主主義化=市場拡大を認めて、米国の利益を拡大させることを画策する一方で、民主主義を認めることによる権力が暴走することを抑止する意図から行われたのである。
■米国の真意は「日米行政協定」にあった。
平和条約・安保条約が、日本と米国の関係性を大きく規定しているように思える。しかし、実のところは、二つの条約の後、1952年に結ばれた「日米行政協定」 (新安保締結時にに「日米地位協定」となる)にこそアメリカの真意がある。
行政協定は、政府間の取り決めであることには違いないのだが、条約とは異なり、国会における審議や批准を必要としないが、日米安保条約の細部はこの協定の内に定められている。米国は、この協定を使って、占領中に米軍がもっていた権利のほぼ全てを認める(以下に記載)などの日本にとって都合の悪い取り決めを、日本国民の目の届かないところで進めたのである。
□日米行政協定(1952年2月調印/同年4月発効)
・占領中に使用していた基地の継続使用
・米軍関係者への治外法権
・有事での「統一指揮権(日本軍が米軍の指揮下に入る)
■外交は米国との従属関係の維持作業
米国にマスコミと検察を握られ、日本の政治家の内に米国に対して反抗するものはほとんどいなかった。加えて、1951年に日米安保条約が締結されてから、外交は万事米国の顔色を見て態度を決めるという文字通りの対米追従的な態度が定着し、いかに米国への従属的な関係をすすめるかということがすなわち外交と考えられるようになった。
その日米安保条約も、秘密裏に日本人の多くがその過程を知ることなく決まってしまった様子が以下から読み取れる。
戦後日本の基礎となっているサンフランシスコ平和条約と日米安保条約。この条約は1951年の9月に調印されたが、両条約の扱いは驚くほど異なっていた。サンフランシスコのオペラハウスで、47カ国の代表を集めて調印式を行った前者に対し、後者は、郊外の米国陸軍の下士官クラブで4人の米国の代表と日本の首相、吉田茂ただ一人である。
この状況を寺崎太郎は以下のように説明している。
「安保条約という半永久的に日本の運命を決する条約が、まだ主権も一部制限され、制限下にある日本政府、言葉を変えて言えば手足の自由をなかば縛られた日本政府を相手に、きわめて秘密裏にすっかりとり決められているのである。いいかえれば、決して独立国の条約でない。
☆日米安保条約は占領期の日本の状況を引き続き認めるような日本に対して不利益なものになるにも関わらず、日本人の多くはその事実は気づくことが出来ない。なぜなら、安保条約の細部は、二国間で秘密裏に結ばれた行政協定に規定されているからである。
☆安保条約締結当時、米軍を駐留させたのは米国であった。しかし、現在は、米国の駐留を望んでいるのは、むしろ日本人であると言える。なぜ、このような逆転が生じたのか?それは、(アメリカによって作られたとも言える)竹島や尖閣諸島等の領土問題をマスコミがセンセーショナルに報道した結果、米軍の存在がアジア各国からの侵略に歯止めを掛けているという空気が、日本国民の間に広まってしまったからである。
■サンフランシスコ講和条約と、日米安保条約が、同時に締結されたのは、なぜか?(アメリカが陥った構造的な”落とし穴”)
1951年9月、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本は(形の上では)独立国家=民主主義国家として返り咲いた。同時期、日米安保条約が結ばれ、米軍が日本に駐留し続けることとなった。
注目されるのは、独立と在日米軍、そのどちらもアメリカが推進したことにある。
確かに、アメリカ、そして金融勢力としては、日本を独立させ、民主主義国家にする必要があった。なぜなら、民主主義体制の下でこそ、自我の刺激→私権意識の肥大化によって、市場が拡大することになるからだ。
しかし、これは金融勢力(ロスチャイルド)が作り上げた明治維新以降、日本で貫徹されてきた体制でもある。
大航海時代以降、西欧列強は競うように、世界中の国々を民主主義国家へと転換させ、市場を拡大し続けてきた。
一方で、民主主義国家へと転換した各国は、私権拡大競争を続け、絶えざる領土拡大にまい進することになる。その結果、至る所で戦争が発生することになる。これは、自我→私権意識を暴走させる民主主義体制の、必然的な結果であったと言うこともできる。
つまり、民主主義国家が世界中に生まれれば、その必然的な結果として、世界全体が制御不能な状態に陥ることを意味している。
二度の世界大戦によって金融勢力が考えたのは、この民主主義国家の暴走をどう押さえ込み、秩序化するのか、という課題であったはずだ。
しかし、民主主義国家の暴走が、自我→私権意識の暴走である限り、『武力』によってでしか、暴走を抑え秩序化することはできない。それが、覇権国家アメリカの軍隊を、極東を中心とする民主主義国家に派遣し、駐留させるという戦後体制であった。
実際、世界大戦以降、アメリカが望む時期と地域でしか戦争は発生していないと言っていい。アメリカとソ連との「冷戦」が、文字通り「冷戦」で終わったのも、国家の暴走を封じ込めることができた結果だと言っていいだろう。
つまり、金融勢力にとって、民主主義体制(⇒独立を認めるサンフランシスコ講和条約)と米軍駐留(⇒日米安保条約)は、セットで無ければならなかったのだ。以後、日本の政治において、 「在日米軍の撤退」はほぼ絶対的なタブーとなった。絶対に踏んではいけない「虎の尾」だと言っていいだろう。
さらに、民主主義国家体制を繁殖させたまま、世界全体の秩序化を図ると、覇権国家の軍事負担が膨大なものになることを示している。実際、アメリカの財政赤字拡大の主因は、アメリカの軍事費であるが、未だに抜本的な見直しをできないままだ。
これは、市場拡大を優先して世界各国の民主主義体制を維持しようとすれば、特にアメリカにおける軍事負担が膨大なものになり、いずれ財政破綻→没落を迎えることを意味している。つまり、既にアメリカは、構造的な”落とし穴”に囚われ、逃れらなくなっているのだ。
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