江戸時代の思想18 属国意識の対象が中国から西洋に変わってゆく過程
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18世紀後半から日本にも西洋の侵略圧力が加わり始める。
それによって、日本の属国意識の対象が中国から西洋に変わってゆく。
それは、ペリーによる開国の以前、18世紀後半から始まっている。
今回は、その過程をみてゆく。
いつも応援ありがとうございます。
まず、元々の中国への属国意識の中身はどのようなものだったのか?
『日本政治思想史』(渡辺浩著 東大出版会)「第15章 日本とは何か」より要約します。
●華夷意識
中華は聖人の国であり、日本は夷荻の国であると認めていた者もいた。
佐藤直方は「夷荻と云か結構な名に非ず、嬉しきことに非ざれども、夷荻の地に生まれたれば是非に及ばざる也」と書いている。
しかし、単純に夷荻と自認したくない者も少なくなかった。
特に17世紀中には、天皇の祖(天照大御神もしくは神武天皇)は実は泰伯(周の文王の伯父)だという説に好意を抱いた儒者が少なくない(林羅山、中江藤樹、熊沢番山、木下順庵)。しかし、この説は次第に人気が落ちたようである。
少しでも夷荻と認めたくない人もいた。
例えば、山鹿素行は、日本を「中国」「中州」「中華」等と呼んだ。本朝(日本)と外朝(中国)のみが中正を得ている、しかも、儒教渡来以前から中朝(日本)では同じ内容の教えが実践されていた。この国は「中国」に他ならないというのである。
浅見絅斎は、優劣とは無関係に、日本はそのままで「中国」だと主張した。彼によれば、誰にとっても自分の国が「中国」であり、他国が「夷荻」である。実態の優劣も関係ない。ただ自国すなわち中華なのである。しかし、これは問題の観念的解消かもしれないが解決ではなかった。カラと向き合う「日本」が如何なるものかは、依然として問題だった。
江戸時代の思想家の多くは、「日本は夷荻」という劣等意識を孕んでいたが、この劣等意識を覆すべく、さまざまな日本肯定論が輩出した。
●日本意識
(1)辺・小
18世紀において3000万を超える政治的に統合された人口は、世界的には巨大であった。例えば欧州には例がない。にもかかわらず「日本は小国」という意識は根深く広範だった。比較の対象がカラと天竺だったためである。とりわけ中華こそ、日本を観念する場合の比較の対象だった。
小国であるとは単に地域の広狭・人口の多寡の問題ではなかった。辺境性・周縁性は劣等性を含意したからである。大小論は優越論と容易に結合した。
「本朝は小国故、異朝には何事も及ばず、聖人も異朝にこそ出来候得と存じ候。此の段は我れ等ばかりに限らず、古今の学者、皆左様に存知候て、異朝を慕ひまねび候」と山鹿素行は書いている。
それに対して、「日本は小国なので確かに独創性はないが、模倣と改良は上手だぞ」という主張が登場する。
例えば勝部青魚(1712~1788)は、「日本は器用成る国也。物を工み創める事はならぬ也。中華より有り来る事見習いて、それよりも立派に能する事を得たるもあり」と主張した。服部大方は「新たに物を造することなるは得せぬながら、人の作りしを丸に用いて、その上に智を添えるは猶まさる方ならん」と書いている。さらに平田篤胤は、「何によらず、外国で仕出したる事物が、御国へ渡ってくると其れをちらと見て、其の上を遥かに卓絶て、其の事の出来ることも、また御国人の勝れたる所」と誇っている。
この主張は、現代でもしばしば耳にする話であるが、それは江戸時代から続いているのである。
それ以外にも、様々な日本肯定論が登場する。
(2)東・陽
地理的に周辺だと認めながらも、東の国・陽の国は特別だという意見もあった。
例えば西川如見は、「此の国は万国の東頭にありて、朝陽始めて照らすの地、陽気発生の最初、震雷奮起の元土なり」と、「日本は明るく強い陽の国」と主張している。
水戸学の会沢正志斎によれば、「神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日の嗣、世よ宸極(皇位)を御し、終古易らず。もとより大地の元首にして、万国の綱紀なり」と、東方であることを、太陽・天皇と連関させることによって、日本を万国の元首としたのである。本居宣長から学んだ、後期水戸学の成立である。
(3)武・勇
日本は尚武の国・武勇の国だという主張もある。
中華に対し、その本領の「文」や「礼」において優越しているとは言い難い。そこで、「武」なら負けないぞというのである。現に武士が統治身分である以上、それは自然であった。
新井白石の「我国は万国にすぐれて武を尚ぶ国とこそ古より申し伝へたれ」、西川如見の「日本は武国にて、質素を尊ぶ国なり」等の言明が多い。
一方、「日本は中華に比すれば小国なるゆえ、自然と人の気量も狭く、かの武風も畢竟はみな気量の狭きより起こること也」(堀景山)という、小国だから狭量で暴力的だという否定的な見解もあった。
その一方で、武国として中華に対応するには、聖人の道の普遍性を否定するほかなく、国学に接近する潮流もあらわれた。
いずれにせよ「皇国は武威を以て、万国に勝れ候ふ国風」であり、その武の衰えは国家的危機に直結すると捉えられていた。ペリーの軍事力の誇示への対応が政治問題化し、体制的危機感を引き起こしたのは、それが一因であろう。
(4)質・直
日本は「質」(質直)の国だという説もあった。それを野蛮と捉える説がある一方で、文飾より実質、虚華よりも質実が重要とする説もあった。「この国は人の心すなおにして・・・」「彼の邦(中国)は一に虚文を貴ぶ。故に人おのづから詐偽なり。我邦(日本)は淳朴を貴ぶ。故に人おのづから誠実なり」という主張である。そして、賀茂真淵や本居宣長も、儒学とカラを批判して「直き心」「真心」の皇国を賛美した。
(5)神・皇
「日本」は神国だとも言われた。「神国」は『日本書紀』巻九に、神々の守護する国という意味で登場する古い語である。但し、中世以来、神国は仏国であることと矛盾しない。神仏習合の実態があったからである。仏教が世界に拡がる普遍的な教えであるなら、それが日本という一小地域では神道という具体的な形をとって、何の不思議があろうか。寺に神社があろうが、寺と神社の双方に参ろうが、当然だということになる。現に東照宮も寺と神社で構成されていた。
徳川初期、この意味での神国観が切支丹の国々との対峙において強調された。
儒学者からは、神国論への反撥もあったが、神国観は、尊王論とも結びつき、むしろ強まっていった。
北畠親房『神皇正統記』冒頭には、「天皇の継続(易姓革命の無いこと)が、日本が誇るべき特色だ」とあるが、小国のひけめを補償するものとして、これは多くの人に魅力的だった。道徳的優位の証明とも、由緒正しさの証拠とも見えたからである。
浅見絅斎や神道家、国学者、水戸学者だけでなく、山鹿素行、伊藤仁斎、伊藤梅宇、西川如見、松宮観山、猪飼敬所、平賀源内等、さまざまな立場の人がそれを誇らしげに指摘している。
こうして皇統の連続自体が、自国優越の根拠として主張され、「皇国」の語の流行とも響きあった。幕末の志士などは日本を皇国・神州と呼んでいる。
その時、かつての中華は、「西土」「西戎」「清夷」、そして「支那」だった。
「日本人の共同体質(古の道)を追求した本居宣長→尊皇論は縄文体質の肯定」でも紹介したように、
江戸時代中期・後期の潮流として、神国論・尊王論が基本的に正しいと考えられており、江戸時代の多くの思想家が神国論・尊王論に収束していった。
そして儒教は全的に否定されるが、同時にそれは、長年の属国意識の対象であった中国が中華(世界の中心)の座から滑り落ちることを意味する。
中国はもはや中華(世界の中心)ではなく、日本と対等以下と揶揄する「支那」と呼ばれるようになる。中国に対する属国意識の否定である。
その後、アヘン戦争で中国が英に簡単に敗北したことが決定的な契機となって、中国は反面教師(失敗モデル)に転落する。
『概説 日本思想史』(編集委員代表佐藤弘夫 ミネルヴァ書房刊)「第18章 幕末の群像」「1.アヘン戦争の衝撃」より要約。
●中国観の変化
日本は古代から中国を範としてきたが、江戸時代の思想家は清代にはほとんど関心を払わず、江戸時代の儒学は明代文化の内で展開した。
大塩平八郎は当時の日本を明末の混乱に当てはめ、自らの陽明学を明代の政治集団・学派である東林党の系譜に位置づけて、大塩平八郎の乱を起こした。
洋学者の渡辺崋山も、明末の享楽的文化が亡国を招いたとして幕府の危機感を喚起している。これがアヘン戦争前の中国観であったが、アヘン戦争は、識者の関心を一挙に同時代の清朝に向けさせた。
そこでは、日本人の捉える中国の像が、古典の内に描かれた中国から同時代の現実の中国に移り、かつ、それまで教師であった中国が決して同じ轍を踏んではならない反面教師、失敗モデルへ逆転した。
近代日本の中国学が古典世界に対する過度の憧憬と現実世界に対する過度の蔑視を併せ持ったのは、アヘン戦争の衝撃を境とする二つの中国像(古典世界と現実世界)に淵源する。
但し、中国蔑視観が発達するのは、日本が脱亜入欧路線を確定して以降のことであり、当時にあって中国が失敗モデルに転じたことは、日本が遂に自身の相違で西洋に立ち向かわなければならない政治的=思想的な岐路に立たされたことを意味した。
このように日本は中国に対する属国意識を簡単に捨て去ったが、一方、朝鮮では中国に対する属国意識が日本によって植民地化されるまで不動のものとして存在していた。
それを示すのが朝鮮で唱えられた小中華思想である。それは自ら(朝鮮)を「大中華(中国)と並び立つもしくは次する文明国で、中華の一役をなす小中華」と見なす文化的優越主義思想である。この「文化」とは儒教文化のことであり、中華文明への同化の程度によって文化の高低を判断するものである。
この朝鮮との違いが、日本の属国意識の特殊性を示している。
中国に陸続きの朝鮮は、中国の侵略圧力・支配圧力に直接晒され続けてきた。
従って、朝鮮の属国根性は序列本能に発する力の原理に基づくものである。
実際、長年中国に服属することでその地位を保ってきた朝鮮の支配階級は悪しき力の原理が骨身に染み付いており、上にはとことん隷従し下にはとことん横暴に振舞うという最悪の支配体質であった。
従って、潜在思念(序列本能)は力の序列原理と属国意識(華夷思想)を正当化した儒教観念に強力に収束するが故に、朝鮮における儒教観念の支配力は極めて強力だったのである。
一方、海を隔てた日本では中国の侵略圧力を受けたことが(元寇を除いて)ほとんどない。
朝鮮出自の支配者たちには力の原理に基づく属国意識が骨身に染み付いているが、それ以外の日本人の潜在思念には力の原理は全くと言っていいほど働いていない。従って、属国意識も朝鮮に比べるとはるかに希薄である。
日本の天皇家が存続してきたのも力の原理に基づくものではなく、上も下も秩序安定期待が第一で、天皇家を奉っておくのが、秩序安定上最も無難だったからである。
天皇が力の保有者から単なる権威に変わったのも、権威として奉った方が秩序安定上無難だからである。
(正確に言えば、儒教が力の原理に基づく秩序安定期待に基づくものであるのに対して、天皇制観念は共認原理に基づく秩序安定期待の産物である。)
同様に、中国に対する属国意識も(朝鮮出自の支配者を除いて)力の原理発ではなく、心底から服属しているわけではない。ただ、「中華」という観念としてのみ存在している。
江戸時代の思想家たちも潜在思念では日本が夷(中国の属国)であるとは感じておらず、だからこそ、属国だと認めたくなかったのである。
つまり、日本人の属国意識は力の原理という潜在思念とは結びついていないが故に、簡単に捨てられる観念だったのである。
(豊かさの実現によって私権が衰弱し力の原理が崩壊した現代、日本の大衆の米に対する属国意識も観念上の遺物に過ぎず、簡単に捨てられるということを示唆している。)
徳川幕府は、力の序列と属国意識の正当化観念である儒教を社会統合観念の一つとして取り入れたが、それから100年も経たないうちに儒教を否定する数多の思想家が輩出した。
それは、イエという共同体を母胎にした現実の課題意識(→社会意識)を元に、江戸時代の思想家たちは社会統合観念を追求したからであるが、そもそも日本には儒教以前に、天皇を奉る神国という秩序安定期待に基づく古代以来の統合観念があり、その方が力の原理に基づく儒教よりもはるかに日本には適していたからである。
(にもかかわらず、徳川幕府が儒教を導入したのも、この神国=天皇主義に対抗するために違いない。)
こうして、力の序列と属国意識の正当化観念である儒教が否定されると同時に、中国に対する属国意識も否定された。それに代わって、古代以来の秩序化観念である天皇制観念「神国」「皇国」が広がってゆく。
さらに18世紀後半から、西欧列強が日本近海に出没し始め、西洋の侵略圧力が働きはじめる。
『日本政治思想史』(渡辺浩著 東大出版会)「第15章 日本とは何か」
(6)島・海
日本は海に囲まれていることが特色だという観念もあった。
そして18世紀末までは、それは安全であることを意味した。しかし、やがて島国・海国の意味が変化した。西洋の船の性能が上がり、日本近海に頻繁に出没するようになったからである。
そして1786年、林子平『海国兵談』が完成する。「江戸の日本橋より唐、阿蘭陀まで境なしの水路也。然るを此に備えずして長崎にのみ備えるは何ぞや」はその有名な一節である。
海国が、脆弱と危険の表象に代わったのである。
それ故、「異国交易は相互に国力を抜き取らんとする交易なれば、戦争も同様」「殊に日本は海国なり。渡海・運送・交易は国家政務の肝要たることは勿論なり」という説も登場した(本多利明)。
また、徳川斉昭の老中阿部正弘宛の書簡では「海国にては軍艦は第一の御備えにて候」とある。
種々の海防論が、海国・小国・武国の意識故に、緊張感を以て唱えられた。一方には皇国意識の台頭があった。
開港・開国をめぐって議論が沸騰する条件は、こうしてペリー来航以前から着々と準備されていたのである。
『概説 日本思想史』(編集委員代表佐藤弘夫 ミネルヴァ書房刊)
西欧文明に対して,「理」の思想からの対応は,大きく三つに分かれた。
第一は,「理」の基本は倫理道徳としての「理」であって、西欧は、君臣・父子のモラルを欠いた人倫外の功利的な社会だとする。西欧との交渉などは全く必要ないし、場合によっては打ち払うべきだとするのである。
第二は、自然科学や技術といった物の「理」に対する探求という次元では、日本は西欧から積極的に学ばなければならないが、心の「理」については,彼らから学ぶ必要はないとするものである。
第三は、政治経済の学問や社会制度についても、彼らの探求した「理」の成果から大胆に学ぶ必要があると考え、さらに進んで倫理道徳、心の「理」についても、学ぶべきものがあるとする立場であった。
結果的には、第二の方向が主導権を得ることになったが、自分たちの精神的な伝統と西欧文明の出会いの中から、より高いもの、より普遍的なものをどのように生み出していくのかという根源的な問題は、こうして近代に持ち越されていく
中国から侵略される危険性がなかったに等しいのに対して、西欧の侵略圧力は現実の危機である。
それによって秩序崩壊の危機意識が上昇し、そこからますます強く(秩序安定期待に基づく)神国=天皇制観念と排外意識に収束する。これが、尊王攘夷の底流をなす意識潮流である。
同時に、西洋の侵略圧力は力の原理に基づくものであり、とりわけ支配者の骨身に潜在していた(力の原理に基づく)属国意識を強く刺激する。それよって日本の支配者の属国意識の対象が西洋から中国に変わると同時に、思想家の中にも西洋を理想化する一派が登場する。これが自然科学や技術だけでなく、制度や観念も西洋の真似をするという立場であろう。
次回から、江戸時代における西洋への属国意識が、具体的にどのようなものだったのかを明らかにする。
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