2009年07月12日
日本支配の構造31~岩倉使節団主要メンバー⇒派遣組と留守政府組
岩倉使節団~時代背景と国内・国際情勢
からも分かる様に、19世紀のアジアは欧米列強の進出に直面していました。
インド・東南アジア地域では、シャム(タイ)を除く各地が列強の植民地にされていきます。また、清はイギリスとのアヘン戦争に敗北。その戦後処理としての南京条約をはじめとして、列強と不平等条約を締結するなど、東アジアにおいてもそれまで長年にわたって維持されてきた体制が揺らぎ始めていました。又、当時の日本では、新政府が版籍奉還や廃藩置県といった中央への権力集中を目指した政治制度改革をはじめとして、経済、法律、社会などあらゆる面で文明開化の政策を進めていました。
このような情勢の中で、政府の有力者である岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らが欧米を歴訪し各国を視察したことによって、欧米諸国をモデルとした国づくりの方向性に具体的なイメージがもたらされました。
しかし、歴史教科書に書かれてある表向きの理由であり、その背後には日本国内はもとより欧米諸国の金貸したちのとの繋がりなど、探求してみたいと思います。
先ずは、視察団に加わったメンバーと留守中の日本を預かり残ったメンバーについて着目し、史実や出来事から行った人と行けなかった人との人選理由や国内外の「裏の事実」に迫ってみたいと思います。
続きは、ポチっとお願いします
↓