2012年11月21日

天皇制国家の源流9 高句麗や新羅に対抗する百済・加耶連合が大和朝廷を支配した

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神功皇后
前回【天皇制国家の源流8 高句麗広開土王に追われてやってきた応神(百済王族)が、第二期大和王朝 ~2つの百済の一つが日本列島へ~】の論点は次の通りです。
【1】百済には2つあり、北百済(漢江百済)と南百済(熊津百済)があり、百済の全盛期には、北百済は朝鮮半島を北進し、南百済は南進or一部は日本列島で分国(狗奴国)をつくっていた。
【2】ところが5世紀になると、高句麗の広開土王(好太王)の南進によって北百済が侵略されると、南百済の応神勢力は朝鮮半島を脱出し、大挙して日本に流れ着いた。
【3】応神勢力が、畿内に先着していた伽耶系の第一期大和朝廷を服属させた。これが第二期天皇家である。以降、天皇家は伽耶勢力から百済勢力が取って代わる。

今回は、南百済(熊津百済)の応神勢力がどのようにして日本に渡ってきたのかを明らかにします。
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『「日本=百済」説~原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)第六章「象徴『神功』の謎解き」からです。

応神の出生経緯は曖昧ですが、少なくとも臨月の母が半島にいたこと、日本の歴史上初めて実在が明らかな天皇です。『記紀』はその誕生を神話で粉飾しました。
応神と百済の地“熊津”の訓が似ており、事実、韓国では、熊津を応津と表す場合もあり、応津は百済と因縁が深い人物であることがわかります。

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応神天皇

神功皇后神話の真相
『記紀』に書かれている応神の母親、すなわち神功の話は、仲哀天皇二年に皇后になったときから始まります。仲哀天皇は神功皇后と結婚する前、ほかの女性との間にすでに3人の王子がいました。
仲哀と神功は結婚するやすぐ敦賀へ行き、行宮を建てますが、九州の熊襲(狗奴)が反乱したので、仲哀は九州に向かい、神功を呼びました。皇后は日本海の海岸線に沿って西へ向かい、下関に近い穴門で夫の仲哀と会います。玄界灘に沿う周辺の豪族の首長たちが降伏し、彼らは無事に九州の基地・香椎宮へ入ることができました。
神が神功皇后に熊襲を討つことを止め、代わりに新羅を討てと神託を下しますが、仲哀天皇は神の言葉を信じないで引き続き熊襲攻撃をし、亡くなりました。
神功は神の言葉を信じ、夫仲哀の死を隠して男装し、軍の先頭に立ちます。
一気に新羅の地へ着くや、新羅王は恐れ慄き自ら身を縄で縛り、宝物と人民の戸籍を出し、永遠に服従することを誓いました。このことが半島諸国に知られ、他の三韓の王たちも降伏しました。
神功皇后は彼らを許し、子供が産まれないように腰に石を巻いたまま九州へ戻り、応神王子を産みます。戦列を整え瀬戸内海に渡り進撃。仲哀が先妃との間に生んだ二人の王子の勢力を武内宿禰とともに打ち破り、応神が成長するまで成政し、100歳でこの世を去ったのでした。
神功皇后が韓半島と関連する実在した人物の象徴であることを示唆しているものと考えられます。
①神功と仲哀を夫婦に仕立てたのは、応神が前王朝(仲哀)と繋がるように見せかけるため。
②実際には、仲哀は神功の夫ではなく敵であり、神功と熊襲連合勢力により戦死する。
③仲哀の二人の王子が畿内におり、彼らは後日、神功の反対勢力になる。つまり、畿内には神功の敵対勢力がいた。
『神功紀』四九年には、将軍荒田別と鹿我別が新羅攻撃を命ぜられ、彼らが平定した国の名が列挙されています。
①神功(応神)勢力が畿内にあった加耶地域出身の勢力を平定したことを記録した。応神王朝樹立は、加耶系の王朝の打倒であったため、応神は畿内定着後も前王朝の少なからぬ反抗を受けていた。
②神功が渡日以前の加耶を侵攻した事実を誇張しているとも考えられる。
第一期ヤマト王朝は加耶系の崇神王朝であり、仲哀に象徴される人物は、その最後の王であったことを合わせて考えると、いずれにせよこの二つの考えに共通する点は神功(応神)が加耶を敵視していたという事実です。
神功皇后の時代の百済は、ソウルに近い漢城百済と熊津百済があり、広開土大王の碑にはそれぞれ百残・利残と示されたものです。
広開土大王軍に破れた利残・狗奴連合、すなわちこれが神功軍なのですが、南下する途中で新羅と戦ったことを『記紀』では新羅征伐としているのです。
新羅の国境付近で暴れていた倭は神功に率いられた利残と倭の連合軍です。そこで広開土大大王軍は新羅の願いを入れ、神功軍を打ち破ります。

神功軍は追われて玄界灘を渡り九州に上陸をします。神功は、そこで応神を産むことになっています。
神功(利残・狗奴連合)勢力は、辰王家の正統を継いだ百済のカリスマと狗奴の軍事力をもって勢力を拡大したと考えます。
『記紀』では、仲哀はすでに神の祟りで亡くなっていることになっていますが、その神は百済系の神です。仲哀の死によりその本拠地畿内はすでに瓦解に近い状態であったと思われます。
神功軍はいったん宇佐に集結し、東征の道に上がりました。そこにある宇佐八幡宮は、応神天皇と神功皇后が祀られており現天皇家にとってもっとも重要な神社の1つです。
①畿内の崇神系勢力の最後の王仲哀は九州の熊襲勢力を討伐しようとしていた。熊襲は『魏書』に出てくる狗奴で広開土大王碑文に登場する倭でもある。百済系勢力、すなわち広開土大王の碑に利残とされているのは邪馬台国とは敵対的な勢力である。
②神功のモデルになった女性は熊津系の百済(利残)勢力出身で、九州へ渡った。熊襲勢力と連合して九州の仲哀勢力を破り、その本拠地畿内へ進出し崇神勢力(仲哀の先妃が生んだ二人の王子)を打倒した。
神功は、利残勢力の首長であり、仲哀と熊襲は敵対関係で、また神功と新羅は敵対的(この事実を神功の新羅征伐と表現した)、神功勢力=百済(利残)は狗奴と連合関係にあった。仲哀は畿内の第一期ヤマト王朝最後の天皇で、加耶系です。

つまり、
・仲哀が神功・狗奴連合により戦死した。
・神功は九州に渡る前に新羅を討った
・神功が息子応神を抱きかかえ東征し、新しい(応神)王朝を建てた。

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武内宿禰
後に大和朝廷を支配する蘇我氏が、応神・神功勢力ととも日本に渡って来たらしいです。

日本古代史の大家・門脇禎二教授は百済の貴族木満致が、武内宿禰の孫と伝えられる蘇我満智と同一人物であるとみています。ここに武内宿禰も重ねています。
武内宿禰そのものが、五代の天皇に仕え300年以上生きたというのですから、その数代にわたる話を武内宿禰1人に集約させ超人的な伝承を作り上げたのは明らかです。
木満致は父親の功名を後ろに盾に任那のことを勝手に処理し、百済へ来た後も日本と行き来して百済の官職を受け、政治に関与した。
つまり、木満致は伽耶と日本に影響力の強い人物で、その上百済の王母と普通の仲ではない熊津百済の実力者でもあったのです。
武内宿禰は百済王母に息子応神を妊娠させた人物であり、王母が神功皇后そのものとみています。『記紀』の史家が選んだ神功皇后と武内宿禰の二人のモデルが、百済王母と木満致(蘇我満智)であったというわけです。
日本古代最大の豪族・蘇我氏と天皇家の関係は応神が産まれる前からで、彼らは一緒に半島から列島へ渡ってきた実質的な夫婦でなかったかと思うのです。

★金容雲氏の説をまとめると、次のようになります。

【1】高句麗の広開土王(好太王)に南進によって追われて、南百済を脱出したのが武内宿-神功皇后-応神勢力である。
彼らが日本へ脱出する途中で新羅・伽耶と戦ったことを『記紀』では神功皇后の新羅征伐としている。
【2】彼ら百済勢力(応神)はまず九州に渡り、宇佐を拠点にして東征をはじめる。畿内に先着し支配していた伽耶系の第一期大和朝廷(崇神勢力)と戦って、伽耶系の崇神勢力の最後の大王である仲哀を破り、伽耶勢力を服属させる。
従って、『記紀』では仲哀と神功は夫婦に仕立て上げられているが、それは応神が前王朝(仲哀)と繋がっているように偽装するためである。
もっとも、伽耶系の残存勢力がかなり抵抗したようで、だからこそ、百済系の応神勢力は大和(飛鳥)ではなく、河内に拠点を築いたのであろう。そこで建てたのが仁徳天皇陵をはじめとする大古墳である。これは残存加耶勢力に対する示威の意味もあったに違いない。
【3】応神勢力とともに南百済から渡って来たのが、蘇我氏である。

但し、『日本=百済説』の金容雲氏は、倭を九州の狗奴国(熊襲)としていますが、この倭は朝鮮半島の加耶(呉越)勢と考えるべきでしょう。
高句麗(広開土王)に対して新羅が「倭軍が侵略してきたので、救援してほしい」と要請し、それを大義名分として広開土王が加耶や百済を攻撃しています。また、南下してきた高句麗(広開土王)に対して百済は倭と同盟を結び、太子を倭に人質として送っています。
当時の日本列島に海を渡って大軍を派遣し新羅を追い詰めるだけの戦力があるはずがないので、この倭は加耶勢力(呉越勢力)と考えるべきでしょう。
注目すべきは、広開土王の時代の朝鮮半島は、高句麗・新羅連合VS百済・加耶連合の争いだったことです。


ここからが仮説です。
この百済・加耶の連合という構造は、そのまま日本列島に持ち込まれ、大和朝廷の支配階級を形成した。
つまり、応神以降の大和朝廷は、百済・加耶勢力の連合だったのではないでしょうか。

実際、朝鮮半島で高句麗or新羅が百済・加耶を滅ぼすと同時に、百済・加耶勢力が日本列島に逃れてきて、その度に大和朝廷の支配者が交代していますが、いずれの支配者も朝鮮から逃れてきた百済と加耶の連合体です。
4世紀末 高句麗広開土王の南侵 ⇒応神(百済)+葛城(加耶)
5世紀  高句麗が北百済を滅ぼす⇒継体(百済)+大伴(加耶?)
6世紀  新羅が伽耶を滅ぼす  ⇒欽明(加耶)+蘇我(百済) 実は蘇我が大王
7世紀  新羅が南百済を滅ぼす ⇒天智(百済)+藤原(加耶)
 
【応神勢力の場合は、服属させた大和の加耶勢力とは別の加耶勢力と手を結んだ。それが葛城勢力だと考えられます】
つまり、朝鮮半島において高句麗・新羅と対抗すべく百済・加耶連合が形成されましたが、日本においても百済・加耶連合が大和朝廷を支配したのではないでしょうか。
次回以降は、この仮説を検証していきたいと思います!!!

List    投稿者 i-ayaka | 2012-11-21 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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