2012年08月17日

あじさい(紫陽花)革命に可能性はあるのか?(4) ~脱貧困の素朴な願いが民主主義を媒介して、自我・私権欠乏にスリ変わる~

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みなさん、こんにちは。お盆休みも終盤ですね この休みに自主的に勉強されている方も居そうですね。・・・このブログ記事も愛読していただけるとありがたいです
さて今シリーズでは、フランス革命以降の代表的な社会運動の構造を探ってきましたが、今回は、普遍的な 『自滅』の構造を切開します。
あわせて、脱原発の市民運動である、紫陽花革命と対比して、その実現可能性を探っていきます。
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引き続き、なんでや劇場で展開された議論の要約です。
以上見てきたように、社会運動の原動力となっていたのは、大衆の貧困からの脱出期待(願望)であるが、これは民主主義というイデオロギーでもなく、私権欠乏でもない、大衆の素朴な願いである。
ということは、民主主義も私権欠乏もどちらも騙しであることが容易に想定される。

過去の社会運動の歴史と構造をまとめ、紫陽花革命を対比してみたので、見てください

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【1】私権社会の騙しの構造

私権統合という社会フレームの中では、貧困からの脱出という素朴な願いは私権闘争に収束するしかない。従って、貧困からの脱出という真っ当な願望も私権欠乏に転倒してしまう。
そこでは、運動をすればするほど、私権欲求と自我が肥大してゆき、もともとの素朴で本源的な願いは正反対のものに転落してゆく。そうである以上、私権統合という社会フレームを変えることはできない。
これは、私権社会が持つ根本的な騙しの構造である。従って、私権社会の要求運動は、どのような運動であれ、はじめから自滅的な枠組みの中に閉じ込められている。

上の図表にあるように、ここ40年の間に起こった運動を除く過去の社会運動は全て、「脱貧困」がその原動力になっています。
かつ、どの運動も、私権時代(貧困→私的権益の獲得が第一義的課題になった時代)に起きたという点が共通しています。そして、私権統合という社会フレームの中では、どんな運動もその枠組みを超えることができません。例えば「フランス革命は成功した」と解釈したとしても、結局は新たな支配階級が登場して、大衆は変わらず苦しみながら私権を求め続けなければ生きていけない枠組みの中に置かれました。変革を標榜したとしても、私権統合の枠組みを変えない限り、その呪縛から逃れられないという意味で「自滅」なのです。
では、紫陽花革命はどうか?
図表にあるように、現在は「脱貧困」を実現して既に40年経っています。
いくつかの切り口で考えてみます。
①本能を直撃する外圧克服という点で共通
原発という、歪んだ近代科学技術がもたらし、私権統合の終焉間際にその利権構造とセットで設置され出した『負の遺産』は、本能的な危機意識を呼び起こしています。こう考えると、これまでの社会運動と同様に「素朴で本源的な願い」が源泉にあると見てとれます。その意味で、過去の運動と同じ。
  「脱貧困」は実現したものの、それ以前の生死を脅かす、生物としての適応欠乏に根ざしていると見ていい。
②私権制度のフレーム(残骸)の上に成立している原発
「脱貧困」を40年前に実現したとはいえ、社会制度は未だに私権制度が残っており、原発もその枠組みを前提として成立したし、また現在も、その枠組みを前提にして再稼働しました。
「脱貧困」を実現したからといって、その運動はこれまでの運動とは違う可能性をもった運動だ。と捉えるのは早計でしょう。
私権から逃れた普通の大衆が、動き始めたからといって、可能性があると見るのは表層的ですね。
【2】民主主義の騙しの構造

また、活動家たちは運動を始めた当初は、大衆を貧困から救うべき対象と見ていた。これ自体は大衆を救おうとする素朴な願いであり、ここまでは真っ当である。
ところが、近代の活動家たちが依拠するのは、民主主義という自己正当化観念である。その結果、大衆を救おうとする素朴な願いが民主主義という自己正当化観念を媒介にして、他者否定・自己正当化の欠乏にスリ変わってしまう。
そうなると、もはや大衆は救いの対象ではなく、自分の主張に巻き込むべきor扇動すべき対象にスリ変わる。自分のイデオロギーを大衆に押し付けるだけになり、「大衆は何を求めているのか?」と大衆に同化しようとする姿勢を消失させてしまう。
元々は大衆に期待するor救うという本源的地平であったものが、民主主義という近代観念を旗印にした結果、大衆に押し付けるだけor自らの押し付けに乗ってくれることだけを大衆に期待するようになってしまう。

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一方で、あじさい革命の主催者たち(自発的に始まった革命に主催者がいること自体、疑問ですが)は、徐々に否定と要求に捉われつつあります。
【参考】民主党議員に『踏み絵』を迫る主催者( リンク )
ここに挙げられている事象は、
『大衆を救おうとする素朴な願いが民主主義という自己正当化観念を媒介にして、他者否定・自己正当化の欠乏にスリ変わる』という本文そのままです。
原発を無くして安全な社会を築きたいという大衆の願いは、いつのまにか政権批判という他者否定にすり替わり、そしてこの他者否定は、デモに参加する大衆を巻き込んで当初の想いを風化させています。
そして『あじさい革命』が大規模化するのを尻目に、大飯原発はなにごともなかったかのように再稼動してしまっています。
これらのことは、私権統合が崩壊しても民主主義が健在である以上、社会運動は決して現実を変えられないことを証明しているのではないでしょうか。
さらに言えば、革命やデモ、あるいは選挙などの『民主主義』に巻き込むことで、自分達の障害にしかならない『大衆の素朴な願い』はすべからく阻止できることを、支配層側は把握しているのではないでしょうか。
【参考】抗議デモは権力側に乗っ取られつつある( リンク )
実際にデモに参加している若い人には『デモでは現実は変えられない、が、他に手段がないので参加している』層が2/3だというデータもあります。
【参考】20代・30代のデモ参加者100人に聞く ( リンク )
デモや革命に変わる何か他の手法を探し出すことが、現実を変えていく近道なのかも知れません。
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序3で「市民運動の活動家たちは、もっぱら大衆の意識の変革に期待してきた」とあるのは、彼らが運動を始める前の元々の課題意識であり、
「大衆にさえ何も期待していなかったのだと言わざるを得ない。要するに、彼らは、自分に都合のいいイデオロギーを大衆に押し付けようとしていただけであり、彼らに在るのは、甘言で染められた自己正当化のイデオロギーだけであった」というのは、民主主義に染まった結果、自我欠乏にスリ変わった後の活動家の意識を表している。
そして、「この甘言を信じた結果、多くの有為の若者が出口のない袋小路に追い詰められ、自滅していった」という自滅構造は、この騙し構造と表裏一体である。
【1】真っ当な貧困脱出願望が、私権欠乏と自我肥大にスリ変わる。
【2】救いの対象であった大衆が、扇動の対象にスリ変わる。
これが、騙しの構造であると同時に、多くの若者が自我肥大した結果、大衆から断絶し自滅していった構造でもあるが、更にもっと決定的な騙し=自滅の構造が存在する。

次回は 『更にもっと決定的な騙し=自滅の構造』を見ていきます:D
『あじさい革命』は本物なのか、それともこれまでの社会運動と同じく、 『アジテーター』に煽動されたままに終わるのか?
請うご期待!

  投稿者 SAKA-DAI | 2012-08-17 | Posted in 07.新政治勢力の結集に向けて393 Comments »