2008年03月06日

日本支配の構造1 明治維新~日清戦争

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三井本館
 
徳川幕藩体制をクーデターで粉砕した明治維新が、日本で唯二つ欧米と武力衝突を起こして敗北した薩摩、長州勢によるものであることは皆さんもご存知だと思います。今回からしばらく、そうした日本の近代化の過程でどのように近代日本が出来上がってきたかを見てみたいと思います。第一回目の今回は明治維新以降、欧州列強と肩を並べるほどに躍進する近代化の初期段階についてです。
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1.明治維新
 明治維新の中心勢力である薩長勢は自ら欧州列強と開戦し敗北しましたが、その直後に藩士たちが英国へ密航し、近代国家とはどういうものかを学んだという事実がそこかしこで述べられています。当時薩長を打ち負かした同じその手で倒幕の支援をしたのは英国ロスチャイルドの商人、ジャーディンマセソン商会の出先機関であるグラバー商会だそうです。グラバー商会は倒幕の中心勢力であった長州藩へ薩摩藩を通じて武器と資金を供与し、長州は1866年の第二次長州征伐で幕府軍に勝利します。以降徳川幕府は一気に崩壊し、明治維新政府が誕生します。明治維新政府の中心である薩長勢のうち、大久保利通伊藤博文の二人は特に強い権限を有して明治天皇をも取り込んだ国家の新体制を築きます。
 しかし、かれら薩長がイギリス国際資本であるロスチャイルド系列の支援を受けていたのと同じ頃に、日本の金融資本の活躍もあったようです。
2.三井家 
 三井家は呉服業で有名な越後屋として伊勢の松阪を基点に豪商に成長していました。伊勢松阪は紀州徳川家の藩領で、当然徳川幕府とも相応の関係であったでしょう。しかし、三井家は没落する徳川家だけでなく財政基盤の乏しい明治新政府への援助も行なって関係を強め、明治元年(1868年)には、島田、小野組みとともに会計局為替方御用の地位を得ます。家庭を聖域にしてはいけない
 そもそも三井家はグラバー商会とも関係したようですが、それ以前に「三井十一家」といわれる広範な縁戚関係を有して、江戸時代以降公家や有力豪商との縁戚関係を築きます。こうして天皇の側近や明治政府の中心の長州勢、中でも伊藤博文とは強固な関係を築いていきました。
 
 明治6年(1873年)に西郷隆盛と土佐、肥前藩の有力者が失脚した後、日本は台湾へ出兵します。その際の物資輸送船は三井、三菱が手配しました。又同年国立銀行制度を敷いた際には小野組とともに第一国立銀行へ出資し、更に大蔵省正金兌換証券、開拓使正金兌換証券などの発行を政府から許可され、国家御用達の金融機関となっていきます(当時大蔵省に居た益田孝は、明治9年(1876年)に三井物産が創設されると同社の総轄に就任、同年、中外物価新報(日本経済新聞の前身)も創刊します)。
 
 台湾出兵は、英国の斡旋で清国から賠償金を得て収拾しますが、日本はその後朝鮮を巡って清国と対立、明治27年(1894年)日清戦争に至ります。翌年やはりイギリスの斡旋で下関講和条約が締結され、日本は台湾の統治権を得ます。三井物産は1900年に台湾製糖を設立し台湾の製糖事業を独占しました。
 
3.国際資本と国内資本
 ロスチャイルド系であるジャーディンマセソン商会のトーマスグラバーが長崎に代理店としてグラバー商会を設立するのは、江戸時代の1861年です。又同じロスチャイルド系の香港上海銀行(以下HSBC)も1866年には横浜支店を開設します。当時国内情勢が不安定になり幕府も各藩も外資から資金を借りて武器、艦船の購入に励みます。又、維新後の明治政府は徳川幕府の正当な後継で有ることを示すために諸般の借金を引き受け外資へ返済したと言います。
 当時内地通商権を制限されていた外商は、長崎、神戸、横浜などの貿易港を持つ居留地に限定して取引を行ないました。外商を居留地へ止めたのは外資の侵入を防ごうとの政府の意図であったようでうが、結果として居留地の内外で外商と日本商人の取引が活発化し、日本商人の資産蓄積を促したようです。又、外商にしても不慣れな内地での取引をするよりは港で荷の受け渡しを行なうほうが効率的だったとも言えるでしょう。何より「商人」が入らずとも「荷」や「資本」は手を変えて流通し、結局は内外資本家の協力体制を構築したに過ぎなかったのかもしれません。
 その後明治15年(1882年)にロスチャイルドの資金援助を受けて日本銀行が開業しますが、この間三井は上記の通り政府と一体となって日本独自の金融、商社として成長していきます。外国資本との関係も当然深まっていくでしょう。例えばHSBCは、明治11年(1878年)70万ドル、明治13年(1880年)には更に30万ドルを三井銀行へ貸し付けています。
 
 しかし、日本独自の金融資本である三井とジャーディンマセソン商会との間では石炭の国際取引を巡って競争もあったようで、文献「財閥と帝国主義」坂本雅子著には、
 「三井物産の海外進出は、中国進出から始まった。同社は1876年(明治9年)に創設されたが、早くも翌年の1877年には上海に支店を設置した。(略)三井物産の中国での最初の取引は、政府の保有する三池炭鉱の石炭を、外国汽船に焚料炭として上海、香港で販売することから始まった。政府は三池炭を三井物産に委託し輸出させ、外貨を獲得しようとしたのである。既に高島炭が輸出されていたが、それは外商のジャーディン・マセソン商会によるものであった。(略)日清戦争後には石炭輸出も急増した。同社は石炭輸出において1902年頃までは日本の輸出総額の3~40%前後を輸出し、1905年以降は80%を越し、石炭輸出市場を支配した。かくて同社は、日清戦争前には上海・香港市場で支配的であったイギリス炭を圧倒するに至ったのである。」
とあります。
因みに高島炭とは幕末に肥前藩とグラバー商会が共同開発した炭鉱です。
 
 台湾出兵や日清戦争の調停をイギリスが行なっていることなどから、日本(長州)と英国は幕末以来良好な関係を保ち、イギリスにしても清国や朝鮮、台湾は日本に任せる同盟関係である様子が伺えます。しかし、両国の資本家間では権益を巡る競争が既に始まっており、これら金融資本家たちの権益拡大を実現する帝国主義政策が当時の国家を支配していく様子も見えてきます。特に三井物産が台湾、満州へと進出していく過程は、明治政府の植民地政策と完全に一致しており、まさに日本帝国主義の初期は三井がその実務を担い実利も得たのだと思います。

List    投稿者 saito | 2008-03-06 | Posted in 04.日本の政治構造1 Comment » 

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コメント1件

 taku | 2008.06.11 15:21

イラクのマリキ首相が、イラク駐留によるイラン攻撃のためにイラク国内の基地は使わせない、とイラン側に表明したそうです。
イラク駐留軍の撤退求める イラン最高指導者
2008.6.9 21:18
 イランの最高指導者ハメネイ師は9日、同国の首都テヘランを訪問中のイラクのマリキ首相との会談で「米軍をはじめとした占領軍がイラクの統一を阻んでいる」と批判、「イラク政府がすべてを統治すべきだ」と述べ、イラクからの多国籍軍の早期撤退を求めた。国営イラン放送が伝えた。
http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/080609/mds0806092118003-n1.htm
これに対して↓
駐留米軍のイラン攻撃、イラク首相「許さない」
7日夕にイランの首都テヘランを訪問したイラクのマリキ首相は8日までに、モッタキ外相、アハマディネジャド大統領らイラン指導部の要人と相次ぎ会談、イラク駐留米軍によるイラン攻撃を「許さない」と述べた。2009年以降の米軍のイラク駐留を規定する安全保障協定に、駐留軍の活動範囲をイラク国内に限る条項を加える意向を示した格好だ。
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20080609AT2M0900409062008.html
実際に攻撃の局面になったら、イラクがアメリカの要求を拒否することができるのか甚だ疑問ですが、衝突の危険性が高まっていることの表れでしょう。

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