2013年12月18日

イングランド銀行創設と国債システムの関連性を探る

現代の中央銀行のモデルは、1694年にロンドンに設立されたイングランド銀行だと言われています。ただ、発券業務を完全に独占するのは1844年ビール条例以降であることを根拠に、この条例制定をもってイングランド銀行が中央銀行に格上げされたと主張する経済学者も少なからずいます。確かに、それまではイングランド全体で、個人銀行207行・株式銀行72行が、条例によって認められた銀行券を総額800万ポンド流通させていました。
     
しかし、この説には大きな見落としがあります。今日は、イングランド銀行が設立されるまでの欧州並びに英国の歴史を紐解きながら、創立段階のイングランド銀行の役割を明らかにし、中央銀行制度の本質を検討していきたいと思います。

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それでは最初に、英国を中心とした欧州の歴史と当時のイングランドの状況を整理します。
     
石器時代のイングランドには巨石文明を誇った先住民がいましたが、BC5世紀頃にケルト人が流入、その後もローマ人、ゲルマン人、ノルマン人(≒バイキング)の襲来が続き、王国が複数乱立する時代が続きます。それを統一したのが11世紀中頃のノルマン朝と呼ばれる征服王朝でした。しかしノルマン朝もわずか4代で王位を継ぐ者がいなくなり、再び無政府状態に戻ります。それを再統治したのがフランスから迎えられたヘンリー2世で、新たにプランタジネット朝を開きます。この時代のイングランドは欧州本土にも勢力を拡大し、最も広い領土を手にします。しかし、同じプランタジネット朝の3代目の王ジョン(後に「欠地王」とあだ名される)は、フランス王フィリップ2世との抗争に敗れ、大陸領土のほとんどを失いました。それでもあきらめないジョン王は、戦費をまかなうために貴族たちに重税を課そうとします。それに対抗したのが当時の貴族たちでした。
     
貴族たちは重税に反対して決起し、自分たちの主張を国王にのませるために諮問機関の立ち上げを要求します。その結果生まれたのがイングランド議会でした。
     
13世紀前半に成立した議会は世界で最も早いのですが、発足当初の議会は身分制議会と呼ばれ、主に高位聖職者と貴族で構成されていました。ここで言う貴族とは封建制の名残でもある大地主でしたが、ほとんど間髪を置かずに、議会には騎士や都市の代表が加えられ、14世紀には現在の上院に該当する貴族院に加えて、下院の前身でもある庶民院が置かれます。さらに15世紀には、金銭法案に関する先議権が庶民院に与えられました。
     
英語では貴族のことを「ジェントリー」と呼びますが、庶民院ができる頃のジェントリーは潤沢な蓄財を成した商工階級出身者が多数派を占めることになります。
     
ここまででわかることは、教科書などでは民主主義への橋渡し役として美化されている共和制の成立も、実は商工階級出身の新ジェントリーが政界に進出して、議会で自分たちの要求を王に突きつける権利を獲得したことを意味しています。
     
戦争が頻発し、各国王が財政難に陥ったのは、中世末期から近世にかけては欧州全域で共通です。しかし、そんな中でイングランドだけで議会が発足したのは、他の欧州諸国に比べて王権が著しく脆弱であったこと、したがって戦費を調達するために新商工階級に妥協しながら法律を制定しなければならかったこと、この2点が共和制への移行を余儀なくさせた要因と考えられます。
     

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それでは次に15世紀~16世紀の欧州全体の動向を見てみましょう。この時代は宗教改革が西ヨーロッパを席巻します。しかし、イングランドの宗教改革は他国とは若干様相を異にしており、当時の国王(=ヘンリー8世)自身が離婚を欲したことに端を発します。ヘンリー8世は離婚するためにローマ教会へ請願を出しますが却下されてしまいます。却下理由の真実はフランスに肩入れしておきたいというローマ教会の政治的判断ですが、表向きはカトリックでは離婚を認めていないという教義によるとされました。これに反発したヘンリー8世がローマ教会からの離脱を決め、イングランド国教会を設立し、自らが教会最高指導者に就任できるように法改正も行います。そして、イングランド国教会の教義も新しいプロテスタントに従いました。
     
ここで注目する必要があるのは、カトリックとプロテスタントの違いです。宗教改革の指導者のひとりであるカルヴァンは「神に救済してもらうには成功するしかない。では成功とは何か。それは職業上の成功=蓄財である。」という『予定説』を説きました。これは都市を中心に広く受け入れられ、あっと言う間に欧州全域に浸透しました。そして、このカルヴァンの『予定説』を理論的根拠として、カトリックでは禁止されていた貸借関係における利息収入も肯定されたのです。
     
蓄財が奨励され、しかも利ざやで儲けてよい・・・これは新ジェントリーの一翼を担っている金貸し勢力にとって、至れり尽くせりの好条件です。しかもその理論的根拠も権威者=神学者が説いてくれます。
     
そんな背景から、この時代には新しい金融資本家が次々に登場し、急速に資産を伸ばしていきました。実は宗教改革自体も、教科書に書かれているのは表面的な話であって、裏では新ジェントリーたちが援助した可能性は大だと思われます。
     
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さて、最後の論点は、イングランド銀行が設立された直接的目的は、低金利で戦費を国家が調達するためだったという点です。
     
17世紀末のイングランドは相変わらずフランスとの対立を続けていて、財政的に大変苦しい状況に置かれていました。当時のイングランドではゴールドスミスバンカー(金匠出身の高利貸し)がシティーで繁盛していましたが、彼らの金利は年30%というもので、国家は低金利での戦費調達を渇望していました。そんな折に、スコットランドの海賊出身のウィリアム・パターソンと財務府長官を兼務していたチャールズ・モンタギューという2人の貴族の提案によってイングランド銀行が設立されます。設立資金の120万ポンドもすべて民間から集められました。国家は、借金の金利を一桁に押さえるかわりに、税収の一部を直接イングランド銀行が徴収する制度を敷く条件をのみます。
     
つまり、イングランド銀行は発券機能を独占する遥か以前に、国家に戦費を低金利で貸与する目的で、ジェントリーによる提案と資金繰りによって創設された銀行なのです。
     
そして、国家は借金の返済のために税金の徴収実務もイングランド銀行に委託します。結局、イングランド銀行は、税金を徴収する際に、国家からの返済分と金利を取ってから、残りを国家に渡すという一種の特権を得たことになります。また、それを示す証書を元に国にお金を貸し付けることが可能だったことになります。
     
この仕組みは、国債発行によって現金を調達し、後の税収でそれを返済する、現在の国債システムに極めて類似しています。
     
中央銀行の最大の特権が発券機能であるのは確かですが、世界初の中央銀行と言われるイングランド銀行が、国債引受銀行のモデルとして創設されたという点も、決して見逃してはならない重要なポイントです。この論点からも、1844年ビール条例を持ってイングランド銀行は中央銀行として機能し始めたという説は誤っているのは明らかだと思われます。
     
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それでは、全体をまとめておきます。
     
【戦争】⇒【財政難】⇒【議会発足】⇒【宗教改革】⇒【蓄財肯定・金利肯定】⇒【国庫専門銀行登場】
     
このような流れを経て、近世~近代にかけて新ジェントリー≒金貸し勢力に大変都合の良い社会システムがイングランドで成立したと考えられます。

List    投稿者 staff | 2013-12-18 | Posted in 06.経済破局の行方No Comments » 

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