中国の金融制度 ~改革開放以前の銀行業務(2) 統制機構としての銀行~
改革開放以前の中国における銀行(金融機関)は、資本主義経済における銀行と同じく、預金業務・貸出業務等を行っていた。
しかし、業務の内容・目的は、資金融通のためというよりも、むしろ資金融通制限のためであったと言える。(当ブログの記事「中国の金融制度~改革開放以前の銀行業務(1)」参照)
では、当時の中国における銀行の最大の役割とはなんなのだろうか?
それを示す資料を下記に引用する。
統制機構としての銀行
社会主義政権が誕生した直後、社会主義理念にふさわしい金融制度作りをするため、1950年一連の法令が施行された。具体的には、1950年3月3日の「財政経済の統一工作に関する決定」(政務院)、同年4月7日の「国家機関の現金管理実行に関する決定」(政務院)、そして同年12月25日の「貨幣管理施行法」および「貨幣収支計画編成法」(中央政府財政経済委員会)である。
改革開放までの中国の銀行は、資本主義経済のそれと最も異なっている点の一つは、預金・貸出業務をする銀行は同時に他の経済主体を統制する機関でもある点である。計画主義経済の体質の必然性から、社会の資本形成に対する資金面のサポートは、中国では財政的な方法が中心となっていた。金融仲介による資金供給はあくまで補完的な意味しか持っていなかった。そのかわりに、銀行は「社会主義的に組織化された国の全経済生活の簿記と統制のための統一的機構」(レーニン)である。上記の一連の法令はこの理念を強く反映したものである。
上記の法令によると、各経済主体は強制的に余剰資金を国家銀行に預け入れることが義務づけられていった。いわゆる自由な資金運用はあり得ない。例えば、上記の法令に次のような規定があった。
「一切の軍隊・政府機関と公営企業の現金は若干の短期使用のものを除き、一律に国家銀行に預け入れ、個人に対して融資する事を禁じ、民間の銀行、銭荘に預け入れることはできない。」(「財政経済の統一工作に関する決定」の第8条)
「中国人民銀行を現金の執行機関に指定し、一切の公営企業、機関、部隊および合作社などの所有する現金および手形は手許に保留を許される規定の額を除く以外は、中国人民銀行の預金弁法にしたがって必ず所在地の中国人民銀行あるいはその依託機関に預金することとし、民営の銀行、銭荘に預けることを得ない。」(「国家機関の現金管理に関する決定」)
「各部隊、機関、国営企業、団体、合作社間の、同一地域間及び国際間の一切の取引は、全部中国人民銀行の振替決済によらなければならない。」(「貨幣管理施行法」第4条)
具体的には、およそ30元をこえる取引について必ず銀行において振り替えにより決算される。これらの法令は1970年代後半の改革開放までの銀行のあり方に関する基本的フレームワークであった。資金の流れに関する取引がすべて銀行を経由しなければならない。もちろん、企業間の商業信用、互いの貸借また掛け売り前金取引はすべて禁止されていた。
また、銀行の運営に関して、行政と類似したシステムが採用された。銀行の分店、支店の設置は経済発展の需要ではなく行政区画と対応させていた。いわゆる、「三段階管理、一段階経営」の四段階分支店制である。そのうち、中央総本店、省レベル分店、地域レベル分店はいずれ下部機構に対する管理業務のみを行い、対顧客営業を行わない。対顧客営業活動はもっぱら県市レベル(日本の市町村レベルに相当する)の支店およびそれに属する営業所によって行われる。このように、銀行は計画経済における一行政機構でもあった。
「1950-1990年代の中国金融」P5 随 清遠
「統制機構」という言葉が示しているように、当時の銀行は、国家財政主導の計画経済を確実に遂行するために、資金管理を行っていた。
つまり、資本主義国が市場拡大を促進するために金融制度を整備したのに対し、中国(社会主義国)は市場統制のために金融制度を整備してきたのである。
国家(共産党)による序列統合を維持することを最大の目的として、金融制度を構築したとも言える。
そして、国家による序列統合を維持していくための最重要課題として、市場(=私権闘争の抜け道)の徹底管理に取り組んだのだろう。
確かに中国という国家は市場の暴走をかなり抑えてきたと言う見方はできる。(国家の暴走はしばしば起こったが…)
しかし、国家という統合体も私権闘争を活力源としていることは変わらない。その状況で私権獲得の可能性を閉ざせば、私権活力は抑制されてしまう。私権活力に代わる活力源を見出せていなければ、国民の意欲は低下し、国家の活力は衰弱せざるを得ない。
もともと国家は、私権闘争を圧力源=活力源とする、力の序列原理に貫かれたその統合体として形成された。しかし、生涯固定の身分制度の下では、私権拡大の可能性は封鎖されて終う。そこで、私権闘争の抜け道としての市場が形成され、繁殖してきた。そして今、その抜け道としての市場さえ活力を失って終った。
「超国家・超市場論12 市場の拡大限界は、国家の統合限界でもある」るいネットより
中国は、資本主義国とは逆の発想で金融制度を整備して、市場の暴走を防いだことは一面の事実であるが、市場統制だけでは答えにならなかった。
結局、私権闘争を活力源とする体制のままで、活力を見出すには、私権獲得の可能性を開かざるを得ない。
そこで選んだ道が“改革開放”だったのではないだろうか。
最後まで読んでくれてありがとうございます。
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コメント7件
匿名 | 2010.04.27 12:22
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匿名 | 2010.04.27 12:22
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匿名 | 2010.04.27 12:22
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tennsi21 | 2009.06.25 19:54
原子力も入れた火石エネルギーを全部たすと360年でエネルギーが枯渇することになるが、地球的に言うと、それは何かおかしい。エネルギーは一体何に変化しているのだろうか。