オイルピークと食糧穀物<食べ物を車に奪われてよいのか>
8月になってガソリンも過去最高値 を更新し 、下がる気配をみせていません。
そんな中、オイルピークを見越して穀物から代替エネルギーとするエタノールが脚光を浴びていますが、よくよく考えてみると・・・・・・ 🙄
・穀物は本来食糧 向けのものであり、世界的にみても有り余っているものではない。
・今の農業が石油なしでは考えられない生産形態となっている。
このような状況下で、果たして穀物からの代替エネルギーは成立する? そこに問題はないの?と思い調べてみました。
以下に元国立環境研究所所長で東京大学名誉教授でもある石井吉徳氏の「2007年2月、衆議院調査局報告見解」のコラムを紹介します。http://www007.upp.so-net.ne.jp/tikyuu/opinions/syugiin.htm
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◆農業も石油の影響を大きく受けている。でも食糧より車の燃料の方が大事?
(1)「石油ピーク」を理解し、合理的な農業政策を
「石油ピーク」は「農業ピーク」である、先ずこれを理解することである。
農業も石油が支える。これを念頭にバイオマス利用を考えないと、国家の計を誤ることになろう。
現代農業を支える肥料、農薬などは石油、天然ガスから合成され、農耕機械も石油で動くからで、日本は食料自給率はカロリーベースで40%しかない先進国の中でも脆弱な国である。
(中略)
日本では石油連盟、エネルギー専門家などはオイルサンド、オイルシェールが膨大にある、石油は大丈夫と「石油ピーク」論を無視し、NHKはメタンハイドレートが日本近海に膨大であるなどと、楽観論を繰り返す。そして人間より、車の燃料の方が大事であるがごとき風潮となる。
(中略)
もう一つ重要なのは、短期、長期のいずれで考えているかである。例えば今は余っている米からエタノールを作るのは、現在の荒れた水田の維持のための短期的便法というべきで、長期的な国家戦略でないと、肝に銘じておく必要がある。さもないと米からエタノールは国家百年の計を誤るであろう。
何故なら、これからの21世紀の国家の根本理念は「地球は有限、人は無駄、浪費をしない」となるからである。つまり「脱浪費」であり、そのモットーは「もったいない」で、人は食料が無ければ死ぬが車がなくても死なない、これは当たり前だが、今の日本に必要なのはこの「当たり前」のようである。
石油が途絶えたときの社会を知るよい例がある。ソ連崩壊後の北朝鮮とキューバだが、周知のごとく北朝鮮は飢餓状態となったが、キューバは徹底した自然との共存を目指して飢えなかった。これはキューバ第二の革命とも言われており、贅沢は出来ないが食は確保され治安も良いという。
(中略)
今では日本の米作は肥料を必要量の5倍も使用するというが、このマネー優先の農政のもと、今では生鮮野菜ですら近隣諸国から買う、それも激甚の公害、水質汚染地域からである。これでよいのだろうか。
◆人と車の農産物をめぐる争奪戦は、食料の高値化・インフレをもたらす?
(2)農業は食物を作る人間の営み
農業とは光合成を利用し食料をつくる人の基本的な営みである。ゆえに太陽が原点だが、いまの農業はそうではない。食糧エネルギーの10倍もの石油エネルギーを投入され、その後食料が食品となり消費者に届くまで加工、化学物質の添加、過剰包装、運搬など膨大なエネルギーが投入されている。
(中略)
石油ピークはこの無駄、浪費構造の見直しを迫っている。これから政策は単なる農業支援でなく、日本の安全、安心を構想するときに来ている。人の生存基盤は食料であって車ではない。
(中略)
日本工学アカデミー・科学技術連合フォーラムは、次のように分析している。
日米国は2005年8月成立した包括エネルギー法でガソリン添加のエタノールを、現在の倍近く年間75億ガロン(1ガロン3.785?)まで引き上げるとしている。エタノール10%混入のガソリンが全米に流通することとなる。生産者はトウモロコシに向かい、投資家も世界中の農業適地を買い漁り始めたという。
(中略)
だが問題も多い。エタノールは水分を含みやすく、石油用パイプラインは錆付く恐れがあり、輸送には使えず陸送するしかなく生産地から製油所までの輸送コストと時間はばかにならない。
だが営利を目的とする企業的視点では、穀物とガソリン需要は簡単に衰えないが、エタノールの生産は多くのエネルギーを消費する。石油エネルギー漬け農業による穀物からエタノールを燃料とするのは、化石燃料を消費するのと変わり無いからである。
米国のトウモロコシ畑への肥料需要増は農業に波及しており、砂糖の国際相場も上昇させている。最大の産地ブラジルでは多くのサトウキビがエタノール工場に出荷され、粗糖生産が減った。
菜種はオーストラリアとカナダが主供給国だが、オーストラリアの旱魃でカナダへ依存が集中し高値となった。これは食用油と自動車燃料との争奪戦である。
人と車の農産物をめぐる奇妙な争奪戦は、食料の高値維持が定着し生活者へのインフレ圧力化をもたらすであろう。
◆穀物(=食糧)は人より車を優先させてよいのか?
(3)お米を車に食べさせては「もったいない、罰が当たる」
著名な環境学者であるレスター・ブラウンも(Earth Policy News, Nov3, 06)車燃料向けの穀物が世界の食料を脅かす、世界の穀物貯蔵量は最低レベルなのに3日に一つの早さでエタノールプラントがアメリカで出来つつある、などと警告している。
「石油ピーク」はそこまで来ている。しかし、そのピークはなだらかなので、時期は定かではない。だがピーク後、石油生産は年率2~3%程度で減退する、さらに4~5%という向きすらある。そのとき世界の食料はどうなるのか。
アメリカは世界最大のコーン輸出国、一方日本は最大の輸入国である。コーンは家畜、鶏などの餌であるから、冷蔵庫は間接的にコーンからの食料で占められているが、アメリカのコーンが内需に向かうとき日本の食はどうなるのか、いまから本気で考えておく必要がある。
地方の活性化は、このような視点で考えるべき、むしろ石油ピークを地方分散への契機とすべきではないか。これが私の年来の主張である。自給率40%の食料を、車に食べさせるのは「もったいない、罰が当たる」ことで、原理原則的には車社会を見直すことである、石油ピークを脱大量生産型社会の契機とする、脱浪費を地方のチャンスと思うのである。
だがそれが難しいのである。不況といわれた1990年代、日本社会は石油ピークも知らず、時代遅れとも言うべきケインズ理論で景気浮揚を図ったのである。そのつけが国、地方自治体の1,000兆円に上る借財であった。
石油ピークに備えずに、道路、橋、箱モノ工事を執拗に求めたが、潤ったのは土建業のみ、これは後世に残る時代錯誤だったのだが、今度は食料を車に食べさせようとしている。経済は成長させねばならない、GDPの指数関数的成長が現在の常識のようだが、これは非持続的、社会崩壊への道筋ではないか。疑問は尽きない。
◆浪費しなければ今の半分のエネルギーで生存できる!
(4)「もったいない」を生存の理念として
そして「もったいない」だが、それは生活水準の低下でない。耐乏生活でもない。何故なら、無駄とは要らないという意味だからである。その思想の枠組みでバイオ、エタノールを考えることである。さもないと国民の支持が得られそうにない。
最後に日本の人口・エネルギー史からエネルギーを考えよう。翻って、日本の人口が1億人となったのは1970年ころである。当時エネルギー消費量は今の半分程度だったが、日本人はべつに飢えてはおらず、むしろ食料自給率は60%ほどと高かった。そして人の心はそれなりに豊かで、都市集中も今ほどではなかった。
これから重要な結論が導かれる。浪費しなければ今の半分のエネルギーで生存できるという期待である。
その後の急速なアメリカ化、競争原理の導入は社会の連帯意識を喪失させ、いつも不安な社会を招いたようである。凶悪犯罪も増える一方、日本は何かを間違ったようである。
要約すると、
□農業も石油が支えている。石油ピーク対策といってもエタノールの生産は多くのエネルギーを消費する。石油エネルギー漬け農業による穀物からエタノールを燃料とするのは、結局化石燃料を消費する現状と変わらない。
□石油エネルギー生産を優先させる市場主義の結果、穀物はエネルギー利用に多く回され、肝心の食糧としては少量化、高騰化の可能性が生じる。
□過去の日本の状況から判断すると、浪費しなければ今の半分のエネルギーで生存できる。
どれも至極真っ当である様に感じるのは私だけだろうか?
人より車(エネルギー)を優先させることによって生産穀物も利益をむさぼる、市場優先の本末転倒した考え方が背景には潜んでいる。
浪費という消費を抑制することで、本来あるべき方向性は見えてくるのではないだろうか。
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