米国の圧力と戦後日本史8~対米自主派の登場と日本の米露戦略。日本の外交の枠組みが構築された~
前回の記事、米国の圧力と戦後日本史7~戦争終結後のアメリカの対日戦略。米国によるエリート支配は何故続いているのか~では、吉田茂内閣期における米国の対日支配構造を整理し、その支配構造が現代にも続いていることを論じた。
今回の記事では、対米従属派吉田内閣が、米国の対日支配の中で翻弄され、総辞職に追い込まれていった経緯を確認し、その後に続く対米自主派鳩山内閣における対米露戦略を見ていく。
※以下、文章引用元は全て「戦後史の正体」(孫崎享)
左から吉田茂/重光葵/鳩山一郎
□吉田政権の最後と鳩山政権の誕生
○吉田内閣期の主な出来事
1951.9 講和条約調印・日米安全保障条約調印
1952.2 日米行政協定調印
1952.10 警察予備隊を保安隊に改組
1952.4 GHQ廃止
1953.2 バカヤロー発言
1954.3 第五福竜丸水爆被爆
1954.7 自衛隊発足
1954.12 総辞職
○米国に裏切られた吉田茂
日米安全保障条約や日米行政協定等、米国優位の取り決めを数多く取りまとめてきた吉田茂は如何にして失脚したのか。
1953年の夏にダレス氏が東京にきて、〈日本が再軍備に熱心でないことに対する〉アメリカ議会の強い非難を吉田さんに伝えて、決心をせまったときも、相変わらず吉田さんの返事は同じだった。(吉田政権の最後についての池田隼人の記述)
もし再軍備を強行すれば、日本経済はたちどころにその重圧の下に崩壊し、民生は貧窮化し、そこに共産陣営のねらいである社会不安が醸成される(吉田茂の発言)
吉田が再軍備に消極的である事を受け、米国政府は積極軍備論の鳩山一郎や重光葵に期待がけを行うようになる。一方の吉田は「軍備をサボタージュする古狐」と揶揄される様になった。
では、なぜ吉田は再軍備に消極的だったのか?
ここで重要になるのは、吉田茂とダグラス・マッカーサーの関係である。
吉田とマッカーサーは、マッカーサーがトルーマン大統領によって解任され日本を去るまで親密であった。吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することに努めた。
マッカーサーは日本の再軍備に反対しており、吉田はこの戦略を追従したのではないだろうか。マッカーサーが再軍備に反対し、解任に追い込まれて以降、吉田は後ろ盾を失い、再軍備賛成派(反マッカーサー派)の手によって失脚してゆく。
○総辞職直近の様子
独立達成を花道とした退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せ、続投。しかし、公職追放を解かれた鳩山一郎グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長に佐藤栄作(幹事長)の逮捕を延期させた(結局、逮捕はされなかった)。これが戦後唯一の指揮権発動である。当然ながら、新聞等に多大なる批判を浴びせられた。
1954年12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、緒方竹虎ら側近に諌められて断念し、12月7日に内閣総辞職。翌日、自由党総裁を辞任した。
★戦後の歴史を見ると、一時期、米国に寵愛される人物がでる。しかし、情勢が変化すると、米国にとって利用価値がなくなる。そのとき、かつて寵愛されていた人物は「米国にとって自分は大切なはずだ」と考えて、新たな流れに気付かずにきられるというケースが極めて多い。吉田もその一人であり、「占領期、自分くらい米国に協力した人物はいない。したがって米国はつねに高く評価してくれているはずだ。」と考えていた。冷戦によって起きた米国の東アジア戦略の変化に、彼はついていくことが出来なかったのであろう。
★マスコミと検察を利用し、失脚させる手法は常套。
□鳩山一郎政権下で外務大臣を務めた重光葵はアメリカに何を要求したのか?
1954年12に鳩山一郎内閣が発足した。吉田茂は対米追随路線の代表だったが、重光葵は対米自主路線の代表である。
○防衛分担金の減額
鳩山首相はソ連との国交回復を政権の最重要課題とすると同時に日米間の防衛負担金の問題もあった。当時、日本の国家予算は1兆円。そのうち毎年550億円を支払っていた。
鳩山政権は防衛分担金を200億円減額し、その分を住宅建設費に当てるというアリソン駐日大使との了解を成立させた。その後重光葵により、「178億円を減額し、その分を防衛予算増額へ充当する」事が日米間で合意される。
○米軍完全撤退を要求
重光がアリソン大使(駐日大使に指名され。在任中は日米相互防衛援助協定の調印、第五福竜丸事件の処理になどあたった。)にあてた安保改定の具体的提案は次の4つ。(1955.7)
①米軍地上軍を6年以内に撤退させるための過渡的諸取り決め
(米軍コメント:緊急時に米軍を送り戻す権利を維持すること。)
②米軍海空軍の撤退時期についての相互的取り決め、ただし、遅くとも地上軍の撤退完了から6年以内
(米軍コメント:一般的に、米国海空軍は無期限に維持されることになるだろうと考えられてきた。我々は日本側の提案に合わせるよりもかなり有利な取り決めを手に入れたいところである。)
③日本国内の米軍基地と米軍は、NATO諸国と結んでいる諸取り決めと同様な取り決めのもとで、相互防衛のためだけに使用されること
(米軍コメント:基地使用の明示的な制限はあきらかに好ましくない。)
④在日米軍支援のための防衛分担金は今後廃止する。
この電報を送った後、重光外務大臣、河野一郎農林大臣、岸信介民主党幹事長の超大物が揃って訪米し、ダレス長官に直接米軍撤退を提言する。会談は1955年8月に国務省で行われた。
この会合の様子を岸信介と河野一郎は次の様に回想している。
「重光君、偉そうなこと言うけれど、日本にそんな力があるのか?」とダレスに一言のもとにはねつけられたというのが実情ですよ(岸信介の回想)
「ダレスの言った趣旨はこうだ。日本側は安保条約を改定しろと言うけれど、日本の共同防衛というのは、今の憲法ではできないではないか。日本は海外派兵できないから、共同防衛の責任は日本が負えないではないか。自分の方の体制ができてないのに安保条約の改定とは、一体どういうことなんだ。ところで、ここで重光さんに感心したことがある。というのはダレスからやっつけられると、重光さんは立ち上がって、『どこの国の憲法にはじめから侵略的な海外派兵を肯定している憲法がありますか!アメリカの憲法と日本の憲法と比べてみて、この点についてどこがちがうのか!』と主張したんだ。こうした緊張の中での重光さんの態度は堂々としている。やはり戦前の外交官は見識をもっていると感じた。(河野一郎『今だから話そう』)
戦後史の中で、重光葵は米国に対して自主路線をもっとも強く主張した人物であった。
鳩山内閣崩壊にともない、ダレスとの交渉をした翌年の1956年12月23日辞任。その1ヵ月後の1957年1月急逝した。
□鳩山政権が成功させた旧ソ連国交回復と北方領土問題
長期政権であった吉田内閣を終わらせ、外務大臣兼副総理に重光葵を起用して、対米自立路線を目指した鳩山内閣はいったい何を残したのか。組閣後の総選挙で「憲法改正」と「対米自主路線」を唱えたが、その中でも重視したのが「日ソ国交回復」だった。
そんな鳩山政権を米国はどう見ていたのか?
「新政権は米国の利益を無視し、共産圏にばかり譲歩している。我々が日米関係の現状に不満だと分からせる必要がる。」とアリソン駐日大使。そんななか鳩山政権はソ連との国交回復に邁進してゆく。ここで重要なのが「北方領土問題」である。
○北方領土問題の真実
「アメリカは沖縄を返してくれたのに、ロシアは北方領土を返してくれない、嫌な国だ」と思っているかもしれないが、実は北方領土の北側2島、国後島、択捉島は第二次世界大戦末期に米国がソ連に対し、対日戦争へ参加してもらう代償として与えた領土なのだ。
さらに驚くべき事は、日本政府が国後、択捉をソ連へ引渡そうとした際、米国務長官になっていたダレスが重光外相に圧力をかけ、「もし、日本が国後、択捉をソ連に渡したら、沖縄をアメリカの領土とする。」と猛烈に脅してきた事である。北方領土をめぐる問題を解決不能な構造に仕立てあげ、日本とソ連との間に紛争のタネを残し、友好関係を作らせない事を意図したものであった。
○旧ソ連国交回復へ
1956年10月12日、鳩山首相はモスクワに到着し、交渉の結果、10月19日、日ソ共同宣言に署名。北方領土問題については、将来、平和条約が締結された時には「歯舞群島および色丹島を日本国に引き渡すことに同意する」と書かれていた。
戦後、ソ連は択捉、国後に加えて歯舞、色丹も占拠しており、後者もソ連の領土という立場をとってきたが、日本との国交回復を強く望んだフルシチョフ・ソ連共産党第一書記はここで一歩、日本に譲歩したのである。にも関らず、現在まで北方領土問題がくすぶり続けているのは前述のような米国の思惑があるからである。
鳩山首相は国交回復をはたし、それを花道に退陣した。
★領土問題とは、二国間の利害関係が本質ではなく、最も利益を得る第三者によって作られているものである。実際に現在の日本と周辺国との関係を見ても、ロシアとは北方領土、韓国とは竹島、中国とは尖閣諸島と、見事なくらい解決が困難な問題が残されている。
★鳩山政権期になると、他国との外交を考える上で必要となる問題・事象が固定されてきており(アメリカ外交なら在日米軍、ロシア外交なら北方領土問題といった風に)、外交の枠組みが構築されたと捕らえることができる。
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/11/2425.html/trackback