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裏天皇の正体4 南朝を支持したのは市場勢力。それを統括していたのは秦氏

前稿「裏天皇の正体4~裏天皇は南朝発。孝明天皇は偽装崩御して、裏天皇になった」で発掘された論点は次の通りである。
【1】明治天皇が長州奇兵隊の大室寅之祐(南朝の末裔?)にすりかえられたのは事実であるが、孝明天皇と陸仁親王が殺されたというのは嘘である。孝明と陸仁は生きており、そのまま堀川御所で裏天皇となった。
【2】天皇のスリカエは明治天皇だけではない。南北朝時代にスリカエられている。北朝に統合されたことになっているが、北朝とされている崇光天皇は実は南朝の後醍醐天皇の皇子護良親王の息子である。つまり、北朝とされている皇統は実は南朝にすりかわっていたのである。
【3】その崇光天皇から枝分かれした伏見殿(伏見宮家)が裏天皇であり、表の皇統が絶えた時に天皇を出せるバックアップシステムとなった。と同時に、表の皇室と国事分担して海外活動を専管し、国内でも諜報機関と測量機関を配下においていた。
【4】幕末の伏見殿が朝彦親王であり、朝彦親王が作り上げた京都学習所は尊王攘夷論の拠点となった。
南朝・北朝それぞれの支持勢力がいて、両者は対立していた。それが南北朝の対立である。南朝・北朝の支持勢力は何だったのか?
南北朝の背後にはそれぞれの対立する勢力がいたということであり、


『国際ウラ天皇と数理系シャーマン―明治維新の立案実行者』(成甲書房 落合莞爾著) [1]「第4章 大塔政略と伏見殿」を要約する。

●南北朝の秘密統合(後醍醐と文観が建てた「大塔政略」
「大塔政略」とは、南北朝の秘密統合を実現するために、後醍醐天皇と律僧文観が建てた幾つかの政策と戦略の集合体のことです。その建策は嘉暦三(1328)年に始まりました。この年、在位満十年を迎える大覚寺統の後醍醐天皇は、持明院統との間でなされていた両統迭立の約束により、早々に退位して皇位を持明院統に明け渡さねばなりません。
後醍醐の第三皇子大塔宮護良親王も、この年に早や二十一歳に達してしまいます。不世出の英資により、大覚寺統は謂うまでもなく、対立する持明院統からも、今後の皇運・国運を担う唯一の大人物として期待されていた大塔宮は、両統迭立という不純・非合理な政治慣行により立太子を阻まれ、今後は僧籍に入るしかない状況でした。
折から国内では、旧来の大荘園主たる大社寺および平安貴族と、平安末期以来台頭してきた荘園護衛の武士階層との荘園支配権をめぐる構造的対立が深まり、さらに想定外の国難であった元寇の残響として、武士階層の中に恩賞を巡る不満が蓄積していました。
本当の問題は、貨幣経済の浸透により商品経済が伸張し、流通・商工業者による資本蓄積が始まって金融業が生まれるなど、日本社会の経済的構造が変化しつつある状況それ自体にありました。
つまり、古来の律令制度は言うに及ばず、摂関公家による荘園制も崩壊に瀕し、新興の武士による幕府体制ですら対応できない時代に差し掛かったことにあります。
ところが、鎌倉末期に始まった皇位継承をめぐる持明院統と大覚寺統の争いに鎌倉幕府が介人したことで、両統迭立という愚かな方式を半ば制度化したため、日本国憲法の衆参両院制の下で二大政党が並立した時と同じような、「決められない政治状況」が続くことになりました。
この状況に憂慮したのが、般若寺で修行した律僧で真言密教の醍醐寺を本拠にする文観です。奈良時代の行基の流れを受け継ぎ、非人救済事業に携わってきた西大寺流律宗の現場にいた文観は、荘園の隙間に生まれた自由空間すなわち「散所」における貨幣経済の到来と、商品流通経済の進展を眼前に見ました。

1文観が洞察した「非人経済」の興隆
文観は鋭い経済感覚と、人権に重きを置く公正な社会感覚の持ち主として、さらには有史以来の頭脳を持った、史上稀に見るすぐれた宗教指導者でした。
鎌倉時代に入り、南宋帝国および元帝国から個々と流入する銅銭により、貨幣経済が急速に浸透しつつある時勢を凝視した文観は、貨幣使用により活発化した物資の取引が、商品の生産と流通を促し、これに携わる非人(無籍非農業民)の生活が格段に向上し、さらに進展を遂げることで社会を大きく変えつつある将来を洞察しました。
荘園よりも荘園を取り巻く外側に在って散所(産所)とか別所と呼ばれた地区や、物資と旅客が行き交う街道を根拠とする非人(非農業民)社会の方が構造的に変化していることに注目したのは、文観と後醍醐だけではありません。宗教界では鎌倉新仏教が正にそれで、密教全盛時代の荘園依存と鉱物資源採取による寺院経営から脱皮するために、大衆済度による個人献金に収入源を求めたのです。
こうして社会構造の著しい変化に着目した文観は、宋学により国家統治者としての意識を高めた後醍醐天皇と出会い、今後は荘園社会が停滞するのに引き換え、商品流通社会が到来するという「非人史観」で完全に合意しますが、「非人経済」がやがては「荘園経済」を凌駕して日本を支えるとの両所の見方は、後年ズバリ的中します。
 その流れは今日にもおよび「非人経済」系統の商工業者が今日の「経団連」となり、「荘園経済」系統の自作農民が「農協」を構成して対抗しているのです。
国際的な資本主義の進展により、日本が輸出立国の国柄となってからは前者の旗色が勝ることはご高承の通りです。後者は専ら地方の保守勢力を牙城とし、一票の格差を活用して保守政党の大票田となり、議会政治を通じて国政に影響を与えてきました。
荘園経済の後身農協と、非人経済の後身経団連は、今やTPPを巡って力の限りの綱引きをしています。その中にあって現時の代議政党は、往時の公家よろしく、南(非人)に具せんか、北(農協)に加担せんかと、綱引きの帰趨を見守っています。これが現代における南北両勢力の対立なのであります。

●散所とは何か?
「散所」の語は天平十九(七四七)年の文書に初めて見えるそうです。正式な場所を意味する「本所」の反対語の「散所」は、語義として領主の直接的支配の及ばない場所と、そこに棲む人を指すとされています。平安時代から室町時代にかけての散所は、荘園内の特定地域ですが、ここに定住を認められて年貢の代わりに雑役を負担した非農業民を意味しました。
散所の淵源は、街道沿いの「宿」や港湾の「津」、大社寺の門前および「別院」、有力者の居館などの近傍で、様々な非農業役務の従事者が、俗に非人と呼ばれて集住した地区です。
貨幣の浸透により進展する「非人経済」を、大寺院などの荘園領主が「田畑経済」に取り込む目的で、年貢免除などの保護を与える代償として各種の役務を課す特定地域を、荘園内に設定しました。これが散所で、後世の現業職公務員の原型となる「散所の民」が、ここに発生したのです。
荘園内に設けられた散所は、先行して発達した「宿」や「津」などの非農業民居住地域と、機能的には同じような地域となりますから、本稿では学術的定義に捉われず、これらの一切を総称して「散所」と呼ぶことにいたします。

1「大塔政略」の根本は「荘園史観」から「散所史観」への転換
領主から保護を受けた散所には、公領からの逃散百姓をはじめ、半島を経由して陸続と渡ってきた渡来民など、様々な浮浪民が流入しました。ことに、南満洲から朝鮮半島にかけて住んでいたツングースなどの族種には、元来南下衝動が潜在しているのか、大和政権時代から鎌倉・室町を経て江戸幕府が鎖国するまで一千年に且り、多数の単純労働者と非職能民が渡来して、散所の民となりました。
こうした無籍民の流入による人口増大と、折からの「非人経済」の進展で、散所の経済規模は大きく拡大し、それがまた浮浪民を吸入します。こうした循環によって、スパイラル的に拡大した「散所経済」は、やがて荘園経済の外壁を突き破り、外界と連結しながら中世都市へと発展します。
散所内における商工業の進展拡大に伴い、散所じたいの都市化が進む一方で、古都に流入した散所非人も商工業人化し、その多くは都市住民に転化していわゆる町衆になりました。
散所の地に新たに流入した芸能民ら半定住民・漂泊民は、本来荘園の片隅に定住し、農業や雑業の合間に荘園の外に出て行商や芸能を業としていましたが、都会における芸能需要の拡大に応じて散所に異動してきたのです。
散所に集住して行商や芸能・雑業を始めた彼らは、既に商工業人化か進んで町衆に脱皮した、かつての散所非人から賤視を受けることとなりますが、そこで身分が固定した者が近世の非人(筋目非人)になります。

さて、「散所経済」に注目して、その将来を見通した後醍醐天皇には、社会構造の変革に取り掛かる前に早急に解決しなければならない政治問題が横たわっていました。すなわち、皇位継承に関する両統迭立の政治慣習です。鎌倉時代から朝廷の宿病となったこの階習の解消を図った後醍醐天皇と文観は、政治的策略として両皇統強制統合の奇策を建て、さらに社会改革策とその実現のための政治的戦略を総合した壮大且つ緻密な基本計画を立てます。
それが本稿の謂う「大塔政略」です。
「大塔政略」の二大要素は、政治面では「南北両朝の強制統合」、社会面では「散所経済の発展誘導」に尽きますが、その根本にある歴史観は、幕府と公家ら荘園領主が拠り所とする「荘園史観」に対して、商工・サービス業の勃興を必然と考える「散所史観」なのです。

南朝(後醍醐天皇)の支持勢力は、散所、つまり非農業民の市場勢力あった。
それに対して、北朝の支持勢力は、武力支配による農民からの収奪に立脚した勢力であり、貴族をはじめとする荘園領主であろう。

日本において、こうした市場勢力や芸能勢力が登場したのは何故か?
【1】大陸・朝鮮からの流入は百済の滅亡後~鎖国まで続いた。彼ら流入民が散所(市場)の住人となっていった。
その需要源となったのは、支配階級の消費需要である。だからこそ、市場(散所)は平安京や平城京の近くにできた。この支配階級の消費需要が市場拡大の源泉であったという点は西洋の市場が拡大した理由と共通する。
西洋市場はそれに加えて金貸しがけしかけた戦争需要によって拡大したが、日本の古代市場は戦争需要による拡大という側面が非常に希薄であるという違いがある。
そして、朝鮮からの流入民を受入れ、統括していったのは秦氏だと考えられる。
それは秦氏の出自が朝鮮半島経由でやってきた交易部族であったからである。

『秦氏の研究』(大和書房刊 大和岩雄著)によると、
「漂白芸能民や白比丘尼が秦河勝・秦道満を祖とすることからみて、古代の日本列島へ渡ってきた朝鮮半島の才人白丁は、秦氏の統制下に入るか、自ら秦氏に結びつこうとしたかの、どちらかであったと推測される。」 
「散所は、中世前期まではそれほど差別的な意味はなかった。しかし、中世後期になると、散所という語は、非人・乞食など被差別民を指す言葉となる。」
「秦氏は、平安京造営のスポンサーになり、藤原氏とも血縁をもち、彼らが祀る松尾大社は上賀茂・下賀茂神社と共に平安京の守護神となっているが、一方では、被差別の対象にもなっている」
【2】国内でも、農業で喰えなくなった農民たちが逃散し、都市の市場に流入した。
それは平安貴族の収奪と寒冷化によるものである。

平安貴族が如何に農民から収奪したかは『暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族』http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/05/002556.htmlに詳しい。
また、この時代、1200年代後半から100年間、地球は「1300年イベント」という著しい気温低下に見舞われ、ヨーロッパ北部では大規模な飢饉が起きている。
鎌倉時代末期~南北朝時代はその真っ最中であり、日本でも飢饉によって大量の流民が発生した。

北朝の支持勢力は荘園領主、つまり武力支配による農民からの収奪に立脚した勢力であり、その主力は百済勢であろう。
北朝(百済勢)の収奪や寒冷化で喰えなくなった農民や朝鮮半島からの流入民が市場の住人(非人、河原者)となったが、そのまとめ役を担ったのが秦氏であり、秦氏が支配する市場勢力こそ南朝の支持勢力である。
(倭人勢力である葛城はどういう関係にあったのか?)
長州(山口県)に明治の元勲や戦後の首相を輩出した田布施という朝鮮部落があるが、明治天皇にスリカエられた大室寅之祐もこの田布施の出身である。
この田布施は秦氏の拠点か?それとも百済勢力の拠点か?

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