天皇制国家の源流11 高句麗に滅ぼされた北百済の継体勢力が東国勢力を味方に応神勢力に取って代わる
※画像は、日本サッカー協会のシンボルマークにも使われている八咫烏(やたがらす)。
八咫烏とは、神武東征の際に、高皇産霊尊によって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる烏です。3本足で日本を導く鳥とされています。
高句麗広開土王に南侵で南百済(熊津百済)から亡命してきた応神天皇以降続いた王統は、武烈天皇でいったん途切れ、応神天皇の五代孫とされる継体天皇に移ります。
今日はこれがクーデターではないかという説を紹介します。
『「日本=百済」説~原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第八章 継体の謎解き」より引用させて頂きます。
■『記紀』の中の継体
『記紀』によると、ヤマトの豪族たちはまず血統を考えます。最初、応神の子孫を探し出しましたが、当事者は自分を捕らえに来ると錯覚し、逃げてしまったということになっています。
雄略以後に即位した実際の大王と認められるのは億計(仁賢)の一人くらいですから、継体が名実ともに即位するまで実際三〇年も空位であったのです。これらの話は王の候補者選びがたやすくないことを述べています。あるいは、大王がいてもいなくてもあまり影響がない状態だったのでしょう。
しかし、血統による権威が絶対でした。当時の半島・列島には国境概念もなく、遠く山奥にいる血筋の曖昧な人物より、海を越えても文明国の王族のほうがよく見えるはずです。血筋が明らかな百済王子を大王に推戴するのに大きな拒否感はなかった時代でした。
『日本書紀』によれば継体、すなわちオオト(男大迹)は、応神天皇の五代孫ということになっています。しかし当時の倭王は一〇人くらいの妃や夫人といった妻を従えていたので、五代孫くらいの血筋といえば畿内にも多くいたはずです。それに、五代孫ともなれば、ほとんど血筋の繋がりを感じないのは、今日と変わらなかったと思います。
『記紀』は普通の場合、天皇の正系については歴代の名を記していますが、継体についてはただ五世とだけ書いて、その間の人物の名も書いておらず、尋常ではありません。これは、多くの学者たちも指摘していますが、たぶん応神の五世の孫というのは後から書き入れたとみています。
■継体情報の不可思議さ
『記紀』 に記された継体(オオト) の出身地は畿内から遠く離れた所です。
継体の背景は明らかでないだけでなく、『古事記』や『日本書紀』の彼に関する記録もー致しません。ただ、『書紀』 からは、日本海に面した畿内の勢力圏から離れた地域である北陸で育ったことは伺えます。それが遠いところなのでかえって作為を感じさせます。応神と因縁が深い敦賀に近いところだけは一致します。継体が天皇になるには、その地方豪族の後ろ盾があったのは事実でしょう。
豪族たちの大王を推戴する条件は何であったのでしょうか。
まず、現実的に辰王系である百済王子を推戴するとすれば、何か特別な理由があったはずです。当時ヤマト政権が粘り強く中国(南朝)に朝貢した事実(倭の五王)などを考えると、倭王となる人物は中国側からみて十分正統性を認定され、また国際社会に明るい、すなわち韓半島と中国に対する情報に精通する人物を要求していたことと思われます。
継体が百済系豪族によって推戴され即位しましたが、これはまだ形式的なものだったのかもしれません。百済人の本拠地・河内に都を置いたのが、死ぬ五年前。二〇年間居場所を移動しながらやっと、王都に入ることができました。
継体は二代前の天皇の娘を妃として前王朝に入り、婿入りの形式をとっていることも事実を糊塗するための系譜偽装のようです。
■継体が「親百済路線」をとったわけ
継体は、おそらく形式的な即位以前から実質的な倭王としての行動をとっていたようです。王都に入れなかったにもかかわらず、王位に就くやいなや、親百済政策をとります。
『書紀』によれば、倭の領土任那(加耶)の地、己汶(こもん)・滞沙(たさ)地域を百済に譲渡しました。
これに先立ち雄略が、高句麗により漢城百済が陥落すると、さも自分の領土であるかのようにみなしているのです。
これら雄略・継体両天皇は(半島の)熊津とその一帯の領土を、まるで倭国のものであるとみなしているのです。
私は、それらの領土が渡来以前、利残(熊津百済)勢力の制度であったことを示しているのだとみています。
逆にいえば、彼ら倭王たちは百済・倭連合の国王のつもりでいたのであり、倭の五王が東晋や宋に送った大陸の王に対しての上表文にある南韓諸国の支配権の要求も、そうでなかったら理解できないものです。
また、継体は新羅攻撃のために六万の大軍を九州に送り、それを妨害した新羅の分国磐井と戦っています。
継体の後継者たちもすべてが親百済路線であり、とくに舒明(じょめい)天皇は百済宮をつくり、死んだ後も百済式で葬儀(百済大殯(もがり))を執り行なっています。
このように継体が突然、倭が百済と一つになる路線に変化したのは、天皇家の百済王家との一体的な関係以外に何の説明も見いだせません。その百済・倭の一体的な関係とは本国と分国、あるいは兄弟国の関係といえます。
継体とは、名前自体が体制を継承するという意味で、熊津百済(利残)の体制を漠城百済(百残)が継承するという意思がうかがえます。
■百済からやってきた皇子の名前
『日本書紀』は「雄略紀」にみえる百済王子昆支(こんき)を、”軍君(こにきし)”とも表記しています。
(中略)
結局、昆支の名は継体の倭名「オオト(大人)」と同じであり「おおきみ(大君)」なのです。
継体が即位した現大阪の枚方は、百済人の本拠地であるだけでなく、継体と同じ名前を持った昆支がほとんど同じ時期に在留していた所です。
つまり、昆支と継体は同一人物だったのです。
『日本書紀』で継体は、五八歳(五〇七年)のとき、豪族大伴金村から神宝である鏡と剣を受け取り、まるで前王朝から降参を受けたような形式で即位します。事実「仲哀紀」八年の記事にはそれと同じ形式が服従または降参の儀式として書かれています。この即位は正常な政権の継承ではなく、すなわち征服またはクーデクーだったという印象を受けます。
歴史教科書的な説明、あるいは「古事記」「日本書紀」によると応神天皇には男の子が居らず血が途絶えかけます。そこで、使者が各地に天皇の子息を探す旅にでますが、断られたり、隠れられたりとうまくいきません。
最後に白羽の矢が立ったのが継体天皇で、応神天皇の五代孫とされ、福井or滋賀から来たと言われています。
ところが、朝鮮半島の史実と重ねると、次のような事実がみえてきます。
475年に高句麗によって北百済(漢城百済)が滅ぼされます(南百済=熊津百済は660年、唐-新羅連合軍によって滅ぼされるまで残存)。
そして、大量の難民と共に北百済の王族であった継体勢力も日本に亡命してきたのではないでしょうか。
北百済から亡命してきた継体勢力は、大伴金村や東国勢力と手を組んで、既存の応神体制の転覆を試みます。そして、20~30年かけて政権を簒奪し大王として即位します。
そして、親百済路線=故地(百済)奪還路線を鮮明にします。
ここで、手を組んだ大伴氏と東国勢力についてまとめておきます。
まずは、大伴氏について。
るいネット『大伴氏の出自』によると、大伴は神武天皇より早い時期から日本に来ている高句麗系の渡来氏族だとされていますが、大伴は三河・信州など東国にも勢力基盤を持っていました。
つまり、継体が応神王朝から政権を簒奪する力の基盤となったのは、継体と手を組んだ東国勢力です。
『こんどう史科医院の裏ブログ』「持統上皇三河行幸 その十四 賀茂神社と大伴氏 」
次に、その東国勢力について見て行きます。
るいネット『高句麗が百済を滅ぼすと、百済のバックアップであったヤマト王朝は衰退し、伽耶系の王朝が登場する(リンク)』より引用
●継体新王朝の出現
『日本書紀』によれば、継体は、父彦主人王の三尾の別業で生まれたとされている。三尾は、近江国高島郡である。母は越前の三国出身、先の「上官記一云」によると父方の祖母は美浪の牟義都国造の娘、妻は八人ほどで、三尾(二人)・坂田・息長という琵琶湖の沿岸の豪族の娘がもっとも多く、ほかに淀川流域の英田、大和盆地東北部の和珂、そして尾張連の娘がいる。こういう婚姻関係で見る限り、継体という人物の勢力基盤が近江を中心として越前・美浪・尾張にあったことは明らかであろう。広大な面積と多くの人口をもつ東日本を掌握することが王権の最大の根拠であるが、継体は、十分、その条件を満たしていると言ってよいであろう。
しかも、近江の三尾付近に鴨稲荷山古墳がある。築造年代は六世紀前半頃であるから、継体の近親者の基と考えてよさそうである。そこからは、南朝系の環頭大刀、金製の耳飾や金銅製の冠・沓・双魚珮など大量の半島渡来の装身具が出土しているのである。単に、東国だけではなく、淀川から瀬戸内海を経て朝鮮半島にまで人脈を広げていたと考えてよいであろう。
継体(オホド王)が、王権を掌握するにふさわしい能力をもっていたことは確かと言ってよい。では、彼は、どのようにして大王となったのか。もちろん、個人的能力と数々の偶然に支えられてはいるだろうが、やはり、外交と東日本の支配が王権の二本の柱である。
この東国勢力が、高句麗に滅ぼされた北百済から亡命してきた継体勢力と手を組んで、応神王朝から20~30年かけて政権を簒奪したと考えられます。
注目すべきは、日本では、朝鮮半島から来た後発勢力を先着の支配勢力が奉りながら実権を握るというパターンとなることです。
加耶発の崇神(=神武)勢力や百済発の応神勢力を奉った葛城も然り、百済発の継体勢力を奉った大伴・東国勢力も然り、加耶発の欽明勢力を奉った蘇我も然り。
単純な力関係では、先着勢力(葛城・大伴・蘇我)≧後発勢力(崇神・応神・継体・欽明)だった可能性すらあります。
ところが、全面戦争によって後発勢力を撃退するのではなく、先着勢力が後発勢力を奉ったのは何故でしょうか?
呉や朝鮮から来た支配勢力にとって、縄文人は信じられないくらい素直で従順であり、ほとんど戦争をすることなく、支配体制が受け入れられていきました。世界の常識では当たり前の、力の原理に物を言わせて従わせるということが、縄文体質の世界では全く不要なのです。これは世界的に見ても極めて特異なことであるが、すると、支配階級の側も力で制圧するのではなく、縄文人たちと仲良くやった方が得→庶民の生活が第一という意識が形成されてゆきます。
つまり、先着の支配階級も縄文人由来の共認原理に感化されてゆきます。
その上で、後発勢力がやって来た時も、力の原理で敵を打倒するのではなく、共認原理的な決着のつけ方を選択するようになります。
それが、大義名分による支配です。
先着勢力から見れば、朝鮮半島からやってきた後発勢力は宗本家(本国)に当たります。従って、由緒正しい百済王子を大王として推戴する方が支配の大義名分となります。
これは、幕末に官軍が錦の御旗を掲げたら幕府軍が戦意を喪失したのと同じであって、これは大和朝廷の黎明期から続いているのです。
そうなった根本的な理由は、縄文人の共認充足第一⇒「お上捨象」と秩序安定期待にあります。
縄文人は朝鮮から渡来してきた支配者を表面上は「お上」として奉りながら、心の底では「自分たちとは無関係なもの」として捨象してきました。つまり、日本人のお上意識とは正確には、お上を捨象する意識なのです。
このように「みんなのため」「民の生活第一」という発想が日本の支配階級の間で形成されたのも、庶民大衆が縄文体質だったからです。庶民は「お上捨象」で、支配者は「民の生活第一」という世界でも稀な特異な体質が下にも上にも形成されたのは、日本人の縄文体質(受け入れ体質)の結果です。
そして、日本の天皇家が存続してきたのは、上も下も秩序安定期待が第一で、天皇家を奉っておくのが、秩序安定上最も無難だったからです。
私権第一であれば私権追求の極致である戦争(力の原理)によって決着をつけることになりますが、共認充足第一であれば、共認秩序を破壊する戦争はできるだけ回避しようとします。
こうして、上も下も共認充足第一⇒秩序安定が第一となった以上、後発勢力がやってきた時も戦争はできるだけ回避することになります。
この共認充足第一(お上捨象)⇒秩序安定第一⇒戦争回避という意識が、後発勢力を奉り、実権は握るという日本固有の支配パターンを形成した理由でしょう。
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