2008年04月18日

日本支配の構造6 戦争と金貸し~日露戦争

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戦争でいずれの国が正しかったのか悪かったのかというと歴史家好みの戦争談義にしかならない。
そういう説明はわかりやすく聞こえるが、実はトランプ手品のように別な方向に目を向けさせて机の下でカードをすり替えるのと同じ手口である。これが戦争を始める人間が得意とする【すり替え】である。ここでは日露戦争における国家と金貸しの関係を明らかにしてみたい。

以下は主にユダヤ人銀行家の日記(田畑則重氏の著書)より引用要約しています。
ここでいう銀行家というのは日露戦争の外債を引き受けたジェイコブ・シフのことです。
1◆シフと高橋是清の出会いはシフ側の計算されたもの
シフは1847年生まれでフランクフルトのユダヤ人街区でロスチャイルドと一軒の家を共有していた。・・後にシフはニューヨークのクーンローブ商会の共同経営者となり、国債と鉄道債券を取り扱う。政治と距離を置いていたモルガン商会に対して、シフは全米ユダヤ人協会会長であり、ロシアのユダヤ人迫害に対して抗議するようにアメリカ政府に嘆願していた。
一方外債の発行を考えた高橋是清は1904年(明治37)2月、外債募集が閣議決定されると、アメリカに渡った。ロスチャイルド、モルガン財閥などは是清の申し出を断った。それでも是清はロンドンに渡った。そしてパース銀行ロンドン支店副支配人のアラン・シャンドに相談する。シャンドは明治5年から5年間、日本人に銀行業務を教えたが、そのとき彼の身の回りの世話をしたのが、少年時代の高橋是清であった。
一方高橋是清はロンドンでシフと偶然パーティで同席した。そのあとシャントはシフが日本公債を500万ポンド引き受ける用意があることを伝えた。これを高橋は《天佑》と思っているが実は満州鉄道の利権をもくろむシフ側の計算されたものであったと推定される。
というのはシフの伝記を書いたナオミ・コーエンによれば、1904年2月ユダヤ人指導者の会合でシフは「72時間以内に日露間で戦争が勃発する。私が日本の公債を引き受けることでロシアの同胞にどんな影響が及ぶか、諸君の意見を聞きたい」と述べているからである。
結果として日本側の戦費調達担当者であった高橋是清とジェイコブ・シフが起債できた外債は、4回で8200万ポンド(4億ドル=8億円)。これは1904年当時、日本の国家予算の約2.5倍にあたる。戦費総額17億2121万円の約40%を外債でまかなったワケだが、それでも1年半で継戦不可能になったという。
2◆当時の彼らを取り巻く欧米列国と日本の状況
当時のロシアはフランスと親しく、それ以外の欧米の仮想敵国であった。フランスと対立していたイギリスとドイツはロシアの目を極東にそらす必要があった。当時ドイツは3B(ベルリンビザンチンバクダット)近東戦略をもって南下しようとしていた。イギリスも当時ボーア戦争(南ア)に手一杯であり、その結果日英独三国同盟という動きまで出ていた。
一方三国干渉以降ロシアの極東侵略は露骨になり、1900年暴徒鎮圧を名目に満州にまで出兵してきた。日本は露と戦争をせざるを得なくなったが、当時日銀は所有していた正貨で11700万円しかなく、戦争に突入すると兌換責任を果たせない状況にあった。
ところでロシアは満州を横断する鉄道(東清鉄道)を中国支配の柱としていた。その東清鉄道の資金源は露清銀行であり、パリの銀行群とロシア商業銀行に牛耳られ、背後よりロシアのロスチャイルドといわれたグンズブルグ男爵が支配していた。
3◆戦争をどう終わらせるかが国家戦略の重要な戦略
金子堅太郎(伊藤系)貴族院議員はルーズベルトとハーバートで同窓(1876年)であり、その人脈で戦争終結の立会人をルーズベルトに依頼しようとしていた。末松謙澄は、ケンブリッジ大学でイギリス蔵相のチェンバレンと同窓でイギリスで日本国の宣伝を担当。明石元二郎は、レーニンやポーランド革命家へ資金提供し、ロシアの内戦対策へ。彼らの働きは、ロシア国内で世情不安を作り出しフランスのロシアへの資金供給を止める要因になったといわれている。
4◆ポーツマス講和条約締結までの間に彼らが果たした役割
1904年:シフは日本公債の半分500万ポンドを引き受ける。他はパリのロスチャイルド家などから調達。ここではシフはロシアの外債引き受けに反対した。
同年11月10日:第2回外債 1200万ポンド起債。次年に旅順陥落。
1905年血の日曜日事件でロシアはすでに革命前夜の様相。
同年日本は財政上、戦争継続困難となり3月に3000万ポンド外債発行。
ここで金子はルーズベルトと陸軍長官タフト(後の大統領)に和平への調停者になってもらうことを依頼。ルーズベルトはロシアが敗戦により崩壊した場合日本の膨張主義が太平洋のアメリカの権益を侵すのを懸念し、和平問題について独仏と話し合うこととなった。
1905年3月までに日本軍は死傷者7万人で満州軍総参謀長児玉源太郎は、戦費の調達はは不可能と政府に進言。
4月:講和条件を決定。
5月:日本海海戦で予想外の大勝利。外相小村寿太郎は、手続きの方法他国への協議の有無まで米大統領に一任する方針。一方ロシア国内では戦争反対デモがおきていた。
6月9日:露は米よりの講和条件の覚え書きを受け入れた。
7月8日:4回目外債3000万ポンド発行。トータル8200万ポンド(約8億円)
8月10日:日本が要求した賠償金と領土の割譲を露が拒否。
8月29日:樺太の南半分を日本に割譲することで合意。
同時に露は韓国における日本の優先的利益を認め東清鉄道と遼東半島の租借権を譲渡。この直前8月25日にシフは駐米公使高平小五郎に手紙を送っていた。
その内容は
「ここで平和が回復しなければ日露どちらかが完全に疲弊するまで戦いを継続することになる。その場合私の理解では米英独の金融市場は、日本の資金要求に応える用意はない」
これでどんなに講和条件が不利であろうと戦争終結が絶対となった。
9月5日:日露講和条約調印。一方日本国内では日清戦争で勝利しながら三国干渉で遼東半島の返還を余儀なくされたような挫折感が広まった。17億円の戦費と12万人近い死者をだしても賠償金を得ることはできず。樺太の半分を得ただけでは国民感情は満足しなかった。この結果、講和条約反対の国民大会が起こり、東京市内の交番の7割が焼かれ死傷者は1000人以上でたほどであった。
続く
 

(さらに…)

  投稿者 tennsi21 | 2008-04-18 | Posted in 04.日本の政治構造4 Comments »