裏天皇の正体8~裏天皇の諜報組織が国内・海外に分化→両者の対立をけしかけるイエズス会
「裏天皇の正体6~裏天皇(南朝系伏見殿)の諜報ネットワーク」では、裏天皇(南朝系伏見殿)が室町時代から海外に諜報部隊を派遣していたことを紹介した。
「裏天皇の正体7~葛城(+秦)⇒裏天皇の諜報組織(修験道)」では、裏天皇の諜報機関の源流は葛城系の役行者であり、役行者が開祖とされる修験道は、日本国内の先住民(縄文人)を対象する諜報・情報操作組織であったことを紹介した。
このように、葛城(+秦)⇒裏天皇(南朝系伏見殿)の諜報組織は、海外諜報と国内諜報の2つの課題を抱えていたのである。
そして、アメリカの諜報機関が国内はFBI、海外がCIAに分化しているように、裏天皇の諜報組織も国内担当と海外担当に分化したらしいのである。
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『国際ウラ天皇と数理系シャーマン―明治維新の立案実行者』(成甲書房 落合莞爾著)「第七章 伏見殿と天海大僧正」「第八章 国際ウラ天皇=伏見宮海外ネットワーク」から要約する。
元来日本では、シャーマニズムによって社会を運営してきたが、古代に仏教が渡来したことにより神道政治が破綻に瀕する。同血集団の氏子が奉祀する神道に対し、資本家の檀那に経済支援を仰ぐのが仏教だから、両者は軌を一にせず、仏教勢力の隆盛によって破綻に瀕した古代社会を立て直すために、仏教勢力の中心だった蘇我氏を討伐したのが「大化の改新」だった。
さる筋から仄聞した「法親王ネットワーク」とは、
国体上最高の国家シャーマンたる天皇の血を享けた法親王の本質は、古神道系ないし神仏習合系のシャーマンで、古神道の主流が山岳信仰であることに鑑みると、その実態は修験道に近い。
修験道は、森羅万象に神霊が宿ると考える山岳信仰を中核とした古神道と密教が習合し、さらに道教・陰陽道を加えた宗教である。成立は奈良時代だが、修験道が確立したのは、鎌倉後期から南北朝にかけての時期で、室町時代になると各地の山岳修験者の間に、役行者を宗祖とする共同意識が生まれた。幕末に至るまで修験は皇室から各藩諸侯、さらには民衆の間で信仰を集めた。
役行者の宗教思想を受け継いだ西大寺流律宗と役行者の修験道との間には、その実践的宗風と非農業的な支持基盤において共通する要素がある。
山岳修行者たちは、厳しい修行で得た超自然的な験力を用いて衆生の救済を目指す。
経文の文字・意味よりも、音の霊力(言霊)を重んじる古神道の遺風であり、修験は本質的に神道系の山岳シャーマンである。
その後は仏教と神道の調和が図られ、高野山密教では両部神道、比叡山天台宗では山王一実神道(広義の両部神道)を立て、神仏融合の本地垂迹説により日本的宗教世界を創るが、南北朝までは仏教優位の両部神道が、室町時代に入り吉田神道が盛んになり神道優位に傾く。
これは、新たに渡来したイエズス会が吉田神道に侵入したことによるもので、既存仏教の破壊を企てたイエズス会は、吉田神道を通じて織田信長を操り、鉄砲火器で籠絡して比叡山を焼き討ちさせる。
これに対して伏見殿は、明智光秀に命じて信長を成敗させたが、豊臣秀吉の死後、後陽成天皇から豊国大明神の神号を贈らせる工作をしたのがイエズス会である。
イエズス会の狙いは、秀吉が純粋神道の吉田神道で祀られれば、山王一実ないし両部神道を奉ずる密教勢力との間に軋轢が生ずることを期したものである。
これを祓う(避ける)ために、家康は、吉田神道で固まった京都を去り、山王一実神道を奉じて関東へ移住することを伏見殿から命ぜられ、江戸の地に日枝山王神社を建てて京都の吉田神道と棲み分けした。
伏見殿は、南光坊天海を通じて家康に宗教政策を指導させること、在来宗教の抗争に終止符を打たせることを命じた。
豊臣秀吉が吉田神道系の明神号で祀られたため、神号を権現とする山王一実神道系(密教系両部神道)との間が不穏となり、それを治めるために、家康が江戸に移って幕府を開くことを命じられた。
それを受けて家康は、宗教対立を収めて民心を一致させ、イエズス会の侵攻に対する防衛策とした。
関ヶ原の戦いは、古神道系の吉田神道と本地垂迹説の両部神道との対立が、秀吉が明神号で祀られたことにより激化したために生じたものである。
その後、家康が権現号を以て祀られるや、天下の大勢は一斉に山王一実神道に靡き、吉田神道は一時見る影もなく衰退する。これがイエズス会がけしかけた不穏を取り除いた結果である。
江戸幕府は1613年に修験道法度を定め、修験は真言密教系の当山派(根拠地は吉野大峰山)か天台密教系の本山派(根拠地は熊野)のいずれかに属すべきとした。これは、俗権力による間接操縦が目的の二大勢力均衡策である。
修験道には真言密教系の当山派(根拠地は吉野大峰山)か天台密教系の本山派(根拠地は熊野)の二派があることがわかるが、これは平安時代初期に唐に派遣された空海や最澄が帰国後、創設された宗派である。
『皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集』「真言宗当山派(東密)・天台宗本山派(台密)」
五世紀から六世紀頃、陰陽五行説が朝鮮半島を経由して仏教や儒教とともに日本に伝わった時、陰陽五行説(古代中国思想)と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易と言った自然の観察に関わる学問、占術と合わさって自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられた。
この様な技術は、当初は主に漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から征服部族の子孫が行う事となり、七世紀後半(奈良時代末期)頃から役小角(えんのおずぬ)が初期の陰陽組織を成立させて、帝の影の使い「陰陽師」が現われ始め、陰陽修験は大王(おおきみ/帝)の諜報工作機関として成立した。
役小角(えんのおずぬ)が初期の陰陽組織を成立させてから百三十年余り後、ここで陰陽修験道は新たな時代を迎える。
八世紀(平安初期)の始め、ちょうど弘法大師(空海)と伝教大師(最澄)が仏教修行に行っていた唐(中国)から帰って来た頃、時を同じくして「陰陽寮」が設置される。
七世紀後半から八世紀始めに律令制が布かれると、国家体制の確立を目的として、陰陽の技術は中務省の下に設置された「陰陽寮」へと組織化される。
すなわち初期の陰陽組織を公然化して「恐れ」の国家体制を再構築し、民意を誘導して再び大和朝廷(国家管理)の下に置く目論見があったのである。
平たく言うと、天子降(光)臨伝説(征服部族が空から舞い降りた神)の「デマを流布する」目的である。
元来、為政者の情報操作が、民意誘導の基本的テクニックで有る事は、「原始村落社会の成立」と言う小社会の昔から普遍的なものである。
現在では映像がその主役になっているが、当初は占術託宣、呪術的なものであり、原始宗教であった。
その利用目的を、より為政者有利に誘導する為の組織として「陰陽寮」は中務省の下に設置され、更に諜報機関としての裏面も備えていたので有る。
この事は、偶然だろうか?
いや、明らかに大和朝廷はこれを「統治に利用しよう」と考えたのである。
或いは、当時渡来信仰として無秩序に広がっていた「妙見信仰」を、空海や最澄を大師として遇する事で朝廷の影響下に置く計画だったのかも知れない。
そこで大和朝廷は、異例の速さで弘法大師(空海)と伝教大師(最澄)を高僧として扱い処遇した。
弘法大師(空海)が唐から伝えた経典の一部に、密教がある。
同時期に帰国した天台宗の最澄も空海の密教理念を自派の教えに取り入れる。
弘法大師(空海)、伝教大師(最澄)達が、大和国(日本)にもたらした密教の、強力な「現世利益の秘法」は、「深遠な秘密の教え」の意味である。
この真言宗の教えの中の密教と陰陽修験(日本古来の山岳信仰・神道)などが結びついて、山岳修行僧と言う新しい信仰形式が生まれ、役小角(えんのおづぬ)を祖とし、天台宗の本山派(天台山伏・台密)、真言宗の当山派(真言山伏・東密)の山岳修行僧などが、結び付いて新しい形式の陰陽修験として発展している。
『国際ウラ天皇と数理系シャーマン―明治維新の立案実行者』(成甲書房 落合莞爾著)
『皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集』「真言宗当山派(東密)・天台宗本山派(台密)」
から伺えることを重ね合わせた仮説を提起する。
神道には吉田神道と両部神道の二派あって、吉田神道が古神道系(純粋神道系)であるのに対して、両部神道が仏教と融合し本地垂迹説を唱える仏教優位の神道であるというのが一般の学説であるが、どちらも修験道(諜報組織)と重なっていることから考えて、吉田神道も両部神道も裏天皇の諜報組織であって、吉田神道が国内諜報活動を、両部神道が海外諜報活動を分担しているのではないだろうか。
元々、修験道の開祖役行者の段階では、国内担当・海外担当に分化しておらず、国内・海外を兼任していたであろう。
平安時代初期に、空海・最澄を唐に派遣し、彼らが帰国後、空海が高野山真言宗、最澄が比叡山天台宗を開く。彼らが仏教と神道(修験道)を習合させて仏教色の濃い両部神道を興す。真言宗系が吉野大峰山の当山派、天台宗系が熊野の本山派である。
彼らは葛城(秦)⇒裏天皇の諜報組織であるが、空海・最澄が唐から帰国後、創設されたことや世界宗教であった仏教色が濃いことから考えて、諜報組織としては海外担当だったと考えられる。
空海・最澄が唐に派遣されたのは、当時、中国では安禄山の乱で唐が衰退し始めた。同時に朝鮮半島では新羅が衰退し始めた。
ここで最新の海外情勢を収拾するために空海・最澄が派遣されたのであろう。
海外情勢が不穏になり、情報収集の必要が増すと、諜報機関が国内・海外兼任では手が回らなくなってきたので、国内専任の吉田神道と海外専任の両部神道に分化したものと考えられる。
元々、両者はそれぞれの役割分担で棲み分けし調和していたが、
16世紀に入ると、イエズス会が日本支配を企て、国内(吉田神道)・海外(両部神道)の二大諜報組織の対立をけしかける。(国内対立を煽り立て両者を操ることで支配する金貸しの支配の手口は、いつでもどこでも同じである)。
まず、イエズス会は国内諜報を担う吉田神道に接近。
ここでも、まずは、吉田神道を通じて織田信長に、両部神道の拠点である比叡山を焼き討ちさせた。
それに対して、裏天皇(伏見殿)は明智光秀に信長を討たせた。本能寺の変である。
それでもイエズス会は諦めず、再び吉田神道を通じて豊臣家にも接近し、吉田神道と両部神道の対立をけしかけた。
豊臣秀吉はイエズス会を警戒し長崎港を没収して直轄領にしたが、あれほどの智恵者が、晩年に無謀な朝鮮出兵を企てたのは、イエズス会に戦争をけしかけられたからではないか?
それに対して、裏天皇(伏見殿)は徳川家康に命じて、両者の対立を収めさせた。
関ヶ原の乱を経て江戸で幕府を開かせ、両部神道の拠点を江戸、京都は吉田神道の拠点とすることで、両者を棲み分けさせ、対立を収拾。イエズス会の侵略から防衛したということである。
ところがイエズス会の侵入姿勢はその後も目立ったので、家康は切支丹禁教を国是に定め、家光に至って鎖国を法定する。
その後、裏天皇の諜報組織はどうなっていったのだろうか?
次に記事で紹介します。
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