2014年01月15日

裏天皇の正体9~江戸時代鎖国下でも日VS欧の諜報合戦が繰り広げられていた

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世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ザビエルは1541年にリスボンを出発。アフリカのモザンビークで秋と冬を過して1542年5月6日ゴアに到着。同地に3年滞在。インドからマラッカに渡る。ここで1547年12月鹿児島出身のヤジロウという日本人に出合う。1549年8月15日鹿児島に上陸。
(画像と文章はこちらからお借りしました。)
「裏天皇の正体8~裏天皇の諜報組織が国内・海外に分化→両者の対立をけしかけるイエズス会」で書いた論点は、次の通りです。

葛城(+秦)⇒裏天皇(南朝系伏見殿)の諜報組織は、海外諜報担当と国内諜報担当に分化していたらしい。
修験道を源流とする吉田神道も両部神道も裏天皇の諜報組織であって、吉田神道が国内諜報活動を、両部神道が海外諜報活動を分担していた。
元々、修験道の開祖役行者の段階では国内・海外を兼任していたが、海外情勢が不穏になり、情報収集の必要が増すと、諜報機関が国内・海外兼任では手が回らなくなってきたので、国内専任の吉田神道と海外専任の両部神道に分化した。
平安時代初期に、唐に派遣された空海・最澄が帰国後開いた真言宗・天台宗系の両部神道が海外諜報担当であり、真言宗系が吉野大峰山の当山派、天台宗系が熊野の本山派である。
16世紀に入ると、イエズス会が日本支配を企て、国内(吉田神道)・海外(両部神道)の二大諜報組織の対立をけしかける。本能寺の変もその表れである。
それに対して、裏天皇(伏見殿)は徳川家康に命じて、両者の対立を収めさせた。
関ヶ原の乱を経て江戸で幕府を開かせ、両部神道の拠点を江戸、京都は吉田神道の拠点とすることで、両者を棲み分けさせ、対立を収拾。ところがイエズス会の侵入姿勢はその後も目立ったので、家康は切支丹禁教を国是に定め、家光に至って鎖国を法定する。

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  投稿者 staff | 2014-01-15 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments »