裏天皇の正体5 南朝後醍醐の皇子護良親王が市場ネットワークの裏首領になった?
前稿「裏天皇の正体4 南朝を支持したのは市場勢力。それを統括していたのは秦氏」で紹介した論点は、次の通りである。
【1】南朝(後醍醐天皇)の支持勢力は、散所、つまり非農業民の市場勢力(非人経済)であり、北朝の支持勢力は、武力支配による農民からの収奪に立脚した勢力、つまり、貴族をはじめとする荘園領主であったこと。
【2】日本における市場勢力の源流は2つある。一つは百済の滅亡後~鎖国まで続いた大陸・朝鮮からの流入民であり、彼ら流入民が散所(市場)の住人となっていった。もう一つは、百済系の北朝の収奪と寒冷化によって農業で喰えなくなった農民たちが逃散し、都市の市場に流入した。
【3】彼ら市場の住人となった非農業民たちは、非人・河原者と呼ばれ、差別の対象となっていったが、そのまとめ役を担ったのが秦氏であり、秦氏が支配する市場勢力こそ南朝の支持勢力である。
【4】そして、この南北朝の秘密統合(強制統合)と市場(散所・非人)経済を拡大するために、後醍醐天皇と律僧文観がたてた政略が「大塔政略」である。
大塔とは、後醍醐の第三皇子大塔宮護良親王を指す。
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『国際ウラ天皇と数理系シャーマン―明治維新の立案実行者』(成甲書房 落合莞爾著)「第4章 大塔政略と伏見殿」を要約する。
●伏見殿は天皇バックアップーシステム
「大塔政略」の骨子を列挙すれば、下記のようになります。
(1)は、大覚寺統(後の南朝)と持明院統(後の北朝)の合意により、両統の強制統合を極秘裡に行う。具体的には大覚寺統の護良親王の特定王子を持明院統に入れ、当該王子を「持明院統正嫡」として皇位に即ける。これが極秘に行われた「両統の強制統合」です。
(2)は、今後は皇統を(1)の大塔宮護良親王の子孫に限り、その他は一切認めないこととする。これが「唯一皇統の確定」です。
(3)は、(2)の唯一皇統をバックアップするために、並立して永世親王を創設し、永世親王の嫡子が何代の後でも皇位継承権を保有することとする。これが「永世親王制」です。
(4)は、(3)の世襲親王の初代に(1)の「持明院統正嫡」とされた皇子を充てる。これが後に、「伏見殿」となります。
以上が「皇統の強制統合」に関する朝廷政策ですが、「大塔政略」はこれがすべてではなく、護良親王自身にも重責が負わされます。それは、貨幣の浸透により急速に伸張する「散所経済」の舵取りを大塔宮が自ら行うことで、いわば「西大寺戦略」です。
この「西大寺戦略」こそ、「皇統の強制統合」と並んで「大塔政略」の骨子を成すものですから、下記に(5)以下の詳細を述べます。
(5)は、大塔宮護良親王が南都西大寺に秘かに入山し、西大寺流律宗を拠り所とする非人(非農業民)の頭領となって、行商・芸能・駅逓・流通・風俗・葬送・易占・密偵などあらゆるサービス産業を総覧する。
ここで注目すべきは、救癩・老幼弱者の介護など西大寺教団の伝統的事業の外、砂金の採掘および水銀採取と水銀製剤、ケシ栽培その他の製薬事業をも併せて行うことで、これが「西大寺戦略」です。
(6)は、西大寺の活動を全国に広げるため、非農業民衆の拠点となる寺院形態の「極楽寺」の全国ネットワークを作ります。これが「極楽寺ネットワークの展開」です。
(7)は、上記(5)及び(6)を円滑に実行する目的で、大塔宮が蔓去を偽装すること。そのために政権との不和を仮装すること。これを実行したのが大塔宮の鎌倉移送と、淵辺義博による土牢での偽装弑逆を骨子とした「淵辺作戦」です。
持明院と大覚寺の両統が交替で皇位に即く両統迭立の政治慣行は、明らかに日本社会を悪い方向へ導きますが、外から皇室をコントロールしていた鎌倉幕府にとっては甚だ好都合なため、幕府側からはその解消を言い出すことなく、むしろ事あるたびに、両統迭立を根本原則として強調してきました。
両統が始終対立していた朝廷も、三代遡れば後嵯峨天皇にたどり着きます。元は一つの朝廷側では、やがて「両統対立は幕府の思う壷であるから、ここらで合一策を講ずべし」との気運が内々で高まりますが、この悪しき慣行を一掃するには、その基となった皇統の分裂を修復して元の一つに戻す一大作業が必要になります。
そこで南北皇統の首脳が完全に合意して、固く結んだ極秘協定が「南北朝の強制統合」なのです。
南北朝の秘密統合から百年後、南北皇統が表向きにも合一して唯一の皇統となった後花園皇統の予備家系として伏見殿が創られます。
こうして創立された伏見宮家は、後花園系皇室の永遠の実家となったばかりか、あらゆる面で皇室をバックアップするシステムとして、ある意味では天皇家を超えた存在と言っても過言ではないのです。
●伏見宮に後醍醐天皇の子孫が入ったことが、六百年も極秘にされてきた理由は何なのか。これを理解するには、まず「南北両統の迭立」という國體(国体)上の変則事態の意味を理解しなければなりません。言い古された格言ですが、「天に二日なく地に二帝なし」とは、正に事の本質を指しているのです。
鎌倉末期に、皇位継承権において全く対等な皇統が二つ存在した事由は、同父同母の兄弟が、ともに皇位に就いたことに始まります。両統が互いに譲り合わなかったのは、双方に長講堂領と八条院領と謂う全国最大級の荘園が属していたからです。
鎌倉幕府がそれを承知しながら両統迭立の原則化を進めたのはこれを恰好な朝廷操縦策と考えたからです。
そこで事態を憂えた両統の首脳が、建武元(一三三四)年、後醍醐天皇の主導により両統の強制統合に関する秘密合意をいたしました。
それは、大塔宮護良親王の直系男子を以て唯一の皇統とする原則です。その実現策として、護良親王と某女性との間に建武元(一三三四)年に生まれた男子を、北朝初代の光厳上皇の第一皇子として入れたのです。
両統の首脳が一致して不世出の偉材と認める大塔宮護良親王は、両統合一の大目的を達するために鎌倉に移されます。鎌倉府では、足利尊氏の同母弟の執権足利直義が、腹心の淵辺義博に親王の身辺保護を命じ、房州白浜に親王のための隠れ家を手配しながら、親王を偽装弑逆する時機を待ちました。
そこへ「中先代の乱」が生じたのを好機に、淵辺義博は親王弑逆を偽装し、六人の郎党と共に親王を護り、予て用意の房州白浜へ落ちます。翌々日義博の影武者が、義博の主君足利直義の身代わりとなって北条軍を相手に奮戦し、陣没します。
こうして生き延びた大塔宮は、やがて鎌倉極楽寺に入って体制を整え、街道に沿って設けられていた極楽寺のネットワークを伝って大和にたどり着き、西大寺に入って西大寺流律宗の隠れ首頭になります。
一方、光厳天皇の第一皇子に入った益仁親王は、護良親王の王子興良親王に因んで興仁と改譚し、北朝の皇統を継いで崇光天皇となります。崇光の皇子栄仁親王は皇位に即かずに伏見殿の初代となり、その王子伏見宮貞成親王も皇位に即かず、ひたすら伏見宮家を固めます。
その間、光厳天皇の実子が後光厳天皇となり、後光厳→後円融→後小松→称光と続く北朝の閏流を建てます。光厳第二皇子とされる後光厳の子孫のこの四代は、光厳第一皇子の系統ではないという意味で「新北朝」と呼ばれますが、崇光は実は護良親王の王子ですから、第二皇子とされた後光厳こそ、本当は光厳の第一皇子で、正に北朝の正嫡なのです。
新北朝の四代目の称光天皇が継嗣なく夭折したのを機に、伏見宮貞成親王の第一皇子が後花園天皇として北朝皇統を継ぎ、南北皇統の統合が完成しました。また第二皇子貞常親王が伏見宮第四代となり、皇統の予備血統としての世襲親王家伏見殿を実質的に創めます。
まとめると、
【1】南朝の後醍醐天皇の皇子護良親王は、足利勢の淵辺義博に殺されたことになっているが、それは偽装で、護良親王は生き延びて奈良の西大寺に入り、そこを拠点にした非農業民の市場ネットワークの隠れ首領となった。
【2】南北朝は北朝に統合されたことになっているが、北朝の光厳天皇の皇子とされる崇光天皇は実は、護良親王の王子である。つまり、現在の皇統は表向きは北朝とされているが、実は南朝系統である。これが南北朝の皇統の強制統合である。
長州奇兵隊の大室寅之祐が明治天皇にスリカエられただけではなく、ここでも天皇がスリカエられている。
南北朝の昔から、あるいはもっと以前から、有事の際には天皇はスリカエてもよい(スリカエた方がいい)ということが朝廷内で暗黙のうちに共認されていたらしい。
【3】南朝後醍醐天皇→護良親王→崇光天皇→栄仁親王→伏見宮貞成親王→第一皇子が後花園天皇として北朝系統を継ぎ、南北朝が統合された。一方、伏見宮貞成親王の第二皇子が伏見宮家となり、伏見宮家は後花園天皇の血筋が絶えた時には、いつでも天皇を出せるバックアップ家系となった。これが裏天皇伏見殿であり、以来明治維新に至る400年の間、表天皇と国事分担して海外活動を専管し、測量機関や諜報機関を配下においていた。
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