2013年05月29日

暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族

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射殺された清少納言の実兄、不正のかぎりを尽くして私腹を肥やす受領……。藤原道長や藤原行成の日記に書かれていたのは、王朝貴族たちの犯罪と暴力だった! 風雅で優美なイメージの裏側に隠蔽されてきた衝撃の実態。
日本の特権階級(政治家・官僚・マスコミ)はTPPによって、日本の国益を売り飛ばそうとしている。
特権階級の暴走が露骨になってきたのは2000年代に入ってからであり、その直接的契機は市場縮小によって金貸しが追い詰められたことであるが、暴走はそれ以前から始まっている。
例えば、戦前には試験制度によって無能化した特権階級たちは失策と暴走を重ねたあげく、日本を太平洋戦争の大敗北に導いた。
しかし、特権階級の暴走は明治に始まったものではない。
平安時代には支配階級・特権階級である貴族たちが、庶民から収奪の限りを尽くし、暴走に次ぐ暴走を重ねている。
金貸しの窮乏と暴走以前に、日本の特権階級の暴走の原型がそこにあると考えられる。
そのような問題意識から、特権階級の暴走の源流を探ってゆく。
それが、「天皇制国家の源流」に続く「暴走の源流=平安貴族」シリーズである。

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『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)「序 清少納言の実兄、白昼の平安京にて射殺される」「結 清少納言、源頼光の四天王に殺されそうになる」「あとがき」から要約する。

現代日本人がイメージする王朝貴族は、和歌や音楽や恋愛に人生の喜びを見出す繊細な人々であり、血が流れるのを見たら気絶するような気の弱い人々である。
このような王朝貴族のイメージを形成してきた情報源は『源氏物語』や『枕草子』に代表される一群の文学作品である。
紫式部や清少納言の作品に親しむ人々にとって、王朝貴族社会は犯罪や暴力とは縁のない、風雅で優美な世界である。
しかし、疑いのない事実として、王朝貴族が諸々の犯罪行為に手を染め、数々の暴力沙汰を起こしていた。
王朝貴族の犯罪行為も数々の暴力沙汰も、王朝時代には当たり前の日常茶飯事だったのである。
その証拠は、藤原道長や藤原行成といった上級貴族たちの日記である。
彼らの日記を紐解けば、王朝貴族が犯罪や暴力に関与していたことは否定のしようがない。
1017年の藤原道長の日記『御堂関白記』によると、
清少納言の実兄清原致信が騎馬武者の一団の襲撃を受けて殺されている。
清原致信は王朝貴族の一人であり、朝廷に仕える中級官人であった。大宰府の三等官である大宰少監を務めていた。
そして、清少納言の実兄である清原致信が襲撃され殺されたのは、それに先立って、致信自身が人殺しをしていたからである。

清原致信を殺したのは、源頼親の武士団であり、致信殺害は源頼親が命じたものである。
そして、源頼親は王朝貴族たちから「人を殺すことを得意としている」と見られていた。一方で、源頼親は淡路守や右馬頭といった官職を帯びる中級官人であり、王朝貴族であった
同時に、大江山の酒呑童子を退治したことで知られる源頼光の弟であり、「大和源氏」と呼ばれる武士団の祖でもあった。王朝貴族の一員でありながら自ら強力な武士団を率いていた、「軍事貴族」と呼ばれる存在だったのである。
その軍事貴族の源頼親が、配下の武士たちに命じて清原致信を殺害したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。当麻為頼が清原致信によって殺されていたからである。
ところが、当麻為頼殺害の真の首謀者は清原致信ではなく、その背後にいた。清原致信が仕える藤原保昌であろう。
丹後守として丹後国に赴任した藤原保昌は、悪名高い王朝時代の受領国司たちの一人だった。しかも丹後守の他に日向守・肥後守・大和守・摂津守などをも歴任した保昌は、その貪欲さと悪辣さとで知られる受領を代表する存在であった。
藤原保昌が1017年の清原致信殺害事件に先立って大和守の任にあった。従って、藤原保昌の朗等であった清原致信は、大和国において大和守保昌の汚い欲望を満たすことに勤しんだこともあっただろう。
当時、大和守の住人であった当麻為頼は保昌にとって邪魔な存在であり、保昌が為頼の抹殺という汚れ仕事を致信に押しつけたものと想像される。

清原致信殺害の首謀者であった源頼親は、配下の武士たちに致信を殺させたことが露見したため、それまで帯びていた淡路守および右馬頭の官職を取り上げられたが、当時の朝廷は、これ以上には頼親を罰しようとはしなかった。つまり、致信の殺害を謀った頼親は、ただ官職を失うだけで済んだ。しかも、1017年に淡路守と右馬頭を罷免された頼親も、1024年には、新たに伊勢守を拝命し、続けて大和守と信濃守を務めている。
さらに真の黒幕である藤原保昌に至っては、致信が殺されても、馴染みの朗等の一人を失っただけで、1020年あたりに丹後守に任命され、その後、大和守を経て、摂津守に任命されている。
それにしても、人を殺すという凶悪な犯罪行為が、王朝貴族にとっては、いかに身近なものであったことか。
王朝貴族の世界とは、悪事を働いた者が臆面もなく暮らすような、悪徳に満ちた世界だったのである。

この事例は、王朝貴族の悪だくみの氷山の一角にすぎない。

当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。
清少納言の実兄である清原致信殺害事件の真相は、次のように理解される。
1013年頃、大和守に任命された藤原保昌は、同国の豪族たちから少しでも多くの財を巻き上げようとして、不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領といった不正行為の数々に手を染めていた。
だが、そんな藤原保昌に歯向かったのが、大和国の当麻為頼である。
地元の有力豪族として大和守藤原保昌との確執を深めた当麻為頼は、藤原保昌の配下によって消される。保昌から当麻為頼殺害という汚れ仕事を任されたのが、保昌の朗等であった前大宰少監清原致信であった。清少納言の実兄である致信は、藤原保昌が大和国で財を成すことを助けるため、保昌の命じるままに為頼の始末を実行した。
しかし、清原致信が藤原保昌から与えられた汚れ仕事は、為頼抹殺だけではなかっただろう。藤原保昌が企図した不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領などの実行にあたったのは、藤原保昌の朗等たちだったはずであり、その中には(清少納言の実兄)清原致信がいたに違いない。

清少納言が『枕草子』に描いた王朝貴族社会の豊かさは、悪徳受領たちが地方諸国において不正行為を用いて築き上げた汚れた富によって支えられたものだったのである。

それだけではない。
「幕末の志士亡き後、戦前の試験エリートは失策に失策を重ねた」「戦前から顕在化していた、詰め込み教育の弊害」「大衆に逆行して、偽ニッチの罠に嵌った試験エリートたち」で提起されたように、試験制度の弊害は枚挙に暇がないが、試験制度(官人採用試験)は平安時代には既に整えられていた。
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宮中での取っ組み合いの喧嘩、従者の殴殺。果ては邸宅建設のために平安京を破壊するなど、優雅な王朝時代のはずが、貴族たちはやりたい放題の暴れぶり。当時の記録をもとに貴族たちの意外な素顔を探り出した意欲作。
『殴り合う貴族たち~平安朝裏源氏物語』(繁田信一著 柏書房刊)「序 素行の悪い光源氏たち」「藤原道長、官人採用試験の試験官を拉致して圧力をかける」によると、

988年当時、23歳の権中納言の藤原道長が、従者たちに命じて、式部少輔橘淑信という貴族を拉致させた。
橘淑信は式部省という官司の次官であった。式部省とは官人の採用や評価を職掌とする官司であり、この頃の橘淑信には官人採用試験の試験官の職務が与えられていた。当時、家柄のぱっとしない者にとっては、式部省の官人採用試験で好成績を残すことが、出世のための重要な足がかりとなった。
ところが、藤原道長は、自身が懇意にしている受験者の試験結果に手心を加えさせようと、試験官に脅しをかけた。この受験者を何とか官人にしようとする道長の身勝手な思惑の犠牲となったのが、官人採用試験の試験官式部少輔橘淑信であった。
この事件は瞬く間に世間の知るところとなり、この一件を伝え聞いた人々は、嘆きの吐息を洩らしたという。

庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたのである。
これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。
おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにあるからである。

List    投稿者 staff | 2013-05-29 | Posted in 04.日本の政治構造No Comments » 

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