米国の圧力と戦後日本史11 ~面従腹背で対米自主を目指した岸信介~
◆『米国の圧力と戦後日本史』シリーズこれまでの追求
米国の圧力と戦後日本史1 ~従米派と自主派とのせめぎ合い~
米国の圧力と戦後日本史2 ~日本の徹底破壊を狙った初期占領政策(自主独立を目指した重光葵 vs 対米隷属を進めた吉田茂)~
米国の圧力と戦後日本史3 ~アメリカは占領期であっても、閣僚を完全にコントロールできていた訳ではない~
米国の圧力と戦後日本史4 ~冷戦直前の占領政策。アメリカGHQの内部対立に翻弄される日本~
米国の圧力と戦後日本史5 ~米国は占領中期には、半永続的に日本の民主主義を支配しコントロールする力を掌握した~
米国の圧力と戦後日本史6 ~サンフランシスコ講和条約と日米安保条約。戦後民主主義体制とは何だったのか~
米国の圧力と戦後日本史7 ~戦争終結後のアメリカの対日戦略。米国によるエリート支配は何故続いているのか~
米国の圧力と戦後日本史8 ~対米自主派の登場と日本の米露戦略。日本の外交の枠組みが構築された~
米国の圧力と戦後日本史9 ~アメリカが決して表に出てこない原発推進の構造~
米国の圧力と戦後日本史10 ~脱米・自主独立にまっすぐ挑み続けた石橋湛山~
(画像は岸信介)
戦後の首相、岸信介は1960年に新安保条約の締結を強行した人物として知られています。
それだけでなく、アメリカCIAから資金提供を受けていた事が分かっており、従来は米国追従派の政治家というイメージで語られてきました。
しかし、調べていくと、実は対米自主路線を模索していた事がわかります。
※以下、文章引用元は全て「戦後史の正体」(孫崎享)
①冷戦下で、第2次大戦に関与した日本人勢力の利用を考えたアメリカ
冷戦が始まると、アメリカは日本を「共産主義に対する防波堤」とする方針を固めました。この時アメリカは、第2次大戦に関与した有力な日本人勢力を利用する事を考えます。
岸信介はそのような日本人勢力の中の一人でした。
(このような勢力には、戦後最大のフィクサーと言われた児玉誉士夫や、後に日本テレビ網を立ち上げた正力松太郎らがいました)
岸信介は戦前に東条内閣の閣僚を務めるなどの経歴から、公職追放され、A級戦犯容疑者として、巣鴨刑務所に拘留されます。
第2次大戦に関与した日本人勢力を利用するというアメリカの方針転換によって、公職追放が解かれ、巣鴨刑務所から釈放されると、アメリカは、エージェントとして利用すべく、すぐに岸に接触し、ヨーロッパ旅行やアメリカ旅行の手配をしています。
ティム・ワイナー「CIA秘録」には次のような記述があります。
「それから7年間の辛抱強い計画が、岸を戦犯容疑者から首相へと変身させた。岸は『ニューズウイーク』誌の東京支局長パケナムから英語のレッスンを受け、同誌外信部長のハリー・カーンを通してアメリカ政治家の知己を得る事になる。カーンはアレン・ダレス(安保闘争時のCIA長官)の親友で、のちに東京における、CIAの仲介役をつとめた。岸はアメリカ大使館当局者との関係を、珍種のランを育てるように大事に育んだ。」
パケナムは、表向きニューズウイーク東京支局長でしたが、実際はアメリカが日本を共産主義の防波堤に使うという方針を実行するために設立された、アメリカ対日協議会(AGC)の一員でした。彼らは明らかに岸信介を首相の座につけたいと考えていました。
情報報担当の米国務次官補ロジャー・ヒルズマンによれば、
「1960年代のはじめまでに、CIAから日本の政党と政治家に対して提供された資金は、毎年200万ドルから1000万ドルだった。」
と述べています。
1955年8月に、ジョン・フォレスター・ダレスが岸との会談で、保守政党をまとめて、新しい党(自民党)を作るなら、財政的支援を期待していいと述べていることから、上記の巨額資金受取手の中心が岸だった事は間違いないでしょう。
実際、その後自民党は新安保の批准時に、衆議院で288議席(社会128、民社37)という圧倒的多数を実現しましたが、そこにアメリカから得た資金が活用された事は、想像に難くありません。
以上のようにアメリカは岸をエージェントとして利用すべく、支援してきましたが、これに対して岸は、実際どのように考え、行動したのでしょうか?
②アメリカの資金援助を受け、アメリカのエージェントとなる事を期待される一方で、安保改定と真の日本の独立を目指した。
岸はアメリカCIAのエージェントとなる事を期待されていながら、実際はそれを裏切る事になります。
1956年12月、石橋湛山政権の外務大臣となった岸信介は、以下のように述べています。
「旧安保条約は、あまりにもアメリカに一方的有利なものだ。形式として連合国の占領は終わったけれど、これに代わって米軍が日本を占領しているような状態だ。」
このような考えの元、外務大臣としてアメリカとの交渉に臨むつもりでしたが、石橋湛山が病気のためわずか2ヶ月で退陣。その後をついで、1957年2月に、首相に就任。今度は内閣の総力を挙げて安保改定にのりだします。
首相就任2ヵ月後の1957年4月19日には、参議院内閣委員会で、以下のように答えています。
「安保条約、行政協定は全面的に改定すべき時代にきている」
米国と交渉のため訪米を考えますが、それに先立ち、マッカーサー駐日大使と会談し、そこでは驚くべき事に「駐留米軍の最大限の撤退」を求めています。
「駐留米軍の最大限の撤退、米軍による緊急使用のために用意されている施設付きの多くの米軍基地を日本に返還することをなども提案した。さらに岸は10年後には沖縄・小笠原諸島における権利と権益を日本に譲渡するという遠大な提案を行った。」『岸証言語録』
岸は6月に訪米しますが、その時は、次のような気持ちでのぞんでいます。
「日本はサンフランシスコ条約で政治的独立が回復されたが、各方面において不平等関係、つまり、しこりみたいなものが残っていました。占領は形式的に終わったが、実質的にはその残滓というか、残った澱みたいなものが日本人の頭にあるのです。これをいっさいなくして日米関係を対等な地位におく必要がある、と言う事です」
岸はこの時ダレス国務長官に次の点を主張します。
「抽象的には日米対等と言いながら、現行の安保条約はいかにもアメリカ側に有利であって、まるでアメリカ占領されているような状態であった。これはやはり相互契約的なものじゃないではないでしょうか。」
以上から分かるように、岸のとった行動や発言は、アメリカの意図とは裏腹に、安保問題を軸に対米自主を模索したものでした。
つまり岸信介は、アメリカCIAから巨額の資金援助を受けながら、表向きアメリカのエージェントとして振舞いつつ、実際はその資金で党内強化を図り、アメリカの意図に反して、対米自主の実現のために安保改定を目指していたという事です。
このような政治スタイルをとった背景には、岸以前の対米自主派(重光葵、芦田均、鳩山一郎、石橋湛山)の顛末が念頭にあったのかもしれません。
彼らは何の後ろ盾もなく強行路線を貫いた政治家であり、いずれもアメリカの圧力の下に失脚を余儀なくされました。単なる強硬路線がアメリカに通用しない事を十分承知していたはずです。
岸信介は、こう述べています。
「政治と言うのは、いかに動機がよくとも結果が悪ければダメだと思うんだ。場合によっては動機が悪くても結果がよければいいんだと思う。これが政治の本質じゃないかと思うんです。」『岸信介証言録』
しかしその岸でさえも、その後、歴史的な安保反対運動の前に退陣を余儀なくされる事になるのです。
(続く)
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