米国の圧力と戦後日本史10 ~脱米・自主独立にまっすぐ挑み続けた石橋湛山~
(画像は石橋湛山)
石橋湛山という政治家をご存知でしょうか?
日ソ国交回復を実現した鳩山一郎に続き、首相となった人物です。
戦前・戦中はジャーナリストとして活躍し、大日本主義(軍国主義・専制主義・国家主義)を主張する軍部を厳しく批判するなど、硬骨の言論人として知られています。
戦後は政界に進出し、大蔵大臣、通商産業大臣を歴任した後、第55代内閣総理大臣(1956.12~1957.2)を務めました。戦後10年が経過し、アメリカによる検察支配やマスコミ支配が強固になりつつある中、石橋は一貫して「脱米・自主独立」を主張します。
今回の記事、「米国の圧力と戦後日本史10~脱米・自主独立にまっすぐ挑み続けた石橋湛山~」では、そんな石橋湛山にスポットを当て、彼の政治家としての人生を紐解いていきたいと思います。
※以下、文章引用元は全て「戦後史の正体」(孫崎享)
■米軍駐留費の減額を求めた石橋湛山
(大蔵大臣期の石橋湛山)
GHQによる占領時代、日本政府は敗戦後の経済的にかなり困難な時期であったにも関わらず、国家予算の3割を米軍の経費にあてていました。第一次吉田内閣において、GHQが米軍駐留費を増額したことに対して石橋湛山大蔵大臣は、マッカーサーの側近に書簡を送ります。
「貴司令部においては22年度[1947年度]終戦処理費[米軍駐留費]を、さらに増額しようという議論がされていると伝え聞いている。インフレが危機的事態にたちいることは避けられない。そうした事態になれば私は大蔵大臣としての職務をまっとうすることはとうてい不可能である」
こうした石橋の主張もあり、アメリカは終戦処理費[米軍駐留費]を2割削減しました。戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、1947年の衆院選挙で当選した直後に公職追放されてしまいます。この背後には吉田茂首相の思惑がありました。
吉田は石橋に対して「山犬にかまれたとでも思ってくれ」といったそうです。また、「石橋先生の女婿で外交官の千葉氏がある席でケーディス民政局次長にあったところ、ケーディスが、あの当時、石橋があるシンボルになろうとしたので、われわれとしても思い切った措置に出ざるをえなかったと述べた」という証言もあります。
GHQは、日本の立場を堂々と主張する人物が、国民的人気を集め、脱米・自主独立のシンボルとなることを恐れました。そして、そのような人物の登場を察知すると、「思い切った措置」に出ることになります。
この時の石橋の言葉が印象的です。
「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、俺と同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかもしれないが、まあ、それを2、3年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」
終戦直後の占領下という状態であっても、主張すべきことを主張する日本の政治家はいたのです。
1947年に公職を追放され、表立った政治活動を自粛せざるを得ない状況に追い込まれた石橋でしたが、1951年の公職追放令解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山派の幹部として、打倒吉田に動き出します。そして、鳩山新内閣(1954~1956)が発足し、石橋湛山は通商産業大臣として脱米、中華人民共和国・ソビエト連邦との国交回復を主張します。
石橋は中華人民共和国、ソビエト連邦との国交回復などを主張したが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのダレス国務長官は「中華人民共和国、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。
石橋が通商産業大臣を勤めた1955年前後は、高度経済成長が始まった時期です。この頃の通商産業省は、国益派官僚が数多く集まり、大きな力を有していました。「アメリカの意向は無視しましょう」という、一見、越権行為の様にも思える石橋湛山の強気な発言も、通産省官僚という強い後ろ盾があっての事だったのではないでしょうか。
公職追放されてもなお脱米・自主独立の主張を変えず、更には通産省官僚という後ろ盾を活用し、鳩山首相をコントロールしようとする石橋湛山は、日本と共産国とを隔離させたいアメリカにとって、扱いづらい邪魔な存在であったことは察して余るものがあります。
■石橋首相誕生とアメリカの失望
1955年、自由党と日本民主党という二つの保守政党が合併し、自由民主党が誕生します。翌1956年4月に行われた総裁選挙で、その時の首相だった鳩山一郎が初代総裁に選ばれ、その年の暮れ、鳩山首相の退陣に際して行われた12月の総裁選挙で石橋湛山が選出されます。この時、第一回目の投票では、本命であった岸信介が第一位でしたが、過半数に達せず、二回目の投票が行われます。ここで、二位、三位連合を組んだ石橋が当選しました。
(石橋内閣)
では、石橋はなぜ首相になれたのでしょう。先に確認した通り、石橋は根っからの脱米・自主独立派です。鳩山内閣では通商産業大臣として共産国との国交正常化に尽力しました。その様な人物が首相になる事を、アメリカはもちろん望んでいませんでした。この時、アメリカが期待を寄せていた人物は、石橋に惜しくも敗れた岸信介と言われています。
アメリカは、自民党の第二総裁に『期待の星』岸が選ばれると確信していた。石橋が選ばれたことによるアメリカの失望は大きく、困惑した。
そもそも、石橋が脱米・自主独立の流れをくむ鳩山一郎は、日本の再軍備に反対した吉田茂を没落させるために、アメリカが寵愛し、支援した人物です。結果、吉田内閣は倒れ、日本の再軍備が実現しました。しかし、鳩山は共産国との連携強化をはかり、アメリカが望まない政策をとりはじめたのです。そんな状況を警戒したアメリカは、CIAのエージェントであった岸信介を支援し、次期首相に据えようと画策したのです。
「アメリカが支援する岸」VS「自主独立の流れをくむ石橋」という構図の中、行われた自由民主党総裁選挙は、アメリカの期待とは裏腹に、石橋が僅差で逃げ切る形で決着しました。
石橋の勝利は、アメリカの岸信介支援戦略の失敗を表すと同時に、当時の自民党内に「A級戦犯容疑者である岸とアメリカとの連携により、急速に軍事化が進む恐れがある」と主張する、反岸派(主に元自由党員)が数多くいたことも表しています。そして、堂々とアメリカに意見する石橋に期待を寄せる議員が少なからずいたこともまた事実です。
この様な背景の下、石橋は当選を果たし、脱米・自主独立のシンボルとなる首相が誕生したのです。
■徹底した脱米・自主独立政策と不可解な退陣劇
首相となった石橋湛山は脱米・自主独立政策を次々に表明します。初の記者会見では「アメリカの言うことをハイハイ聞いていることは、日米両国のためによくない。アメリカと提携する向米一辺倒ではない。」と述べています。また1957年の全国遊説の中で、「何でも人の言う事をハイハイというのが平和をもたらす方法ではありません。理不尽な事を言われれば果敢にこれに立ち向かう。非人道的な処置をもってくるものに対しては、我々もまた断固として、出来るだけの方法において反抗する必要があります。」と発言しています。
こうした石橋の姿勢は、具体的にどのような政策になって表れているのでしょうか。一つは「米軍駐留問題」です。大蔵大臣期に米軍駐留費の削減に取り組んでいますが、次は在日米軍をも撤退させようとしました。
もう一つは「中国問題」です。ロバートソン国務次官補が東京を訪問した時に、石橋は「日本が中国について、アメリカの要請に自動的に追従する時代は終わった」と語っています。
これら二つの問題は、日本にとって踏んではいけないアメリカの虎の尾なのですが、石橋は堂々とこれらの問題に触れ、アメリカからの離脱と、共産国・アジアとの連携強化という方針を明確にしていたのです。
脱米・自主独立政策を表明する石橋を、アメリカは当然のことながら警戒しました。
今後、日本との間にかなりのトラブルが起こるだろう。石橋は有能だが強情で、占領中に追放されたという個人的屈辱をのりこえられずにいる。しかし、岸が石橋にブレーキをかけることが出来るだろう。いずれ、最後には岸が首相になるだろうし、我々がラッキーなら石橋は長続きしない。
そして、事態は「我々がラッキーなら石橋は長続きしない」という秘密文書そのままの経緯をたどります。
母校早稲田大学での総理就任祝賀会に出かけた石橋湛山は、突如肺炎になり、施政方針演説と質疑対応を出来ない事態となり、退陣に追い込まれます。
決め手となったのは四名からなる医師団の「約2ヶ月の静養と治療を要する」という診断結果でした。
(車椅子で入院する石橋湛山)
この退陣劇には、不可解な点が二点あります。一点目は、石橋の主治医の見解は「肺炎の症状は消えて、回復の途上にある。肺炎以外の病気の心配はない。」との談話を発表しているにもかかわらず、医師団は「約2ヶ月の静養と治療を要する」と診断している点です。
二点目は、「約2ヶ月の静養と治療を要する」という診断結果を出した医師団の正体についてです。医師団は東大教授をはじめ、有名教授により構成されていましたが、神経が専門でした。専門外の医師がなぜ肺炎云々という診断結果を出したのでしょうか。
医師団の診断を理由に首相を辞任した後、石橋は6年間政治活動を続け、15年後の1973年、88歳で他界しています。1957年の病気とは本当に、一体なんだったのでしょう。
世論形成において、学者(この場合では医師団)が果たす役割が「お墨付きを与える」である事は、前回の記事「米国の圧力と戦後日本史9-アメリカが決して表に出てこない原発推進の構造-」で追及しましたが、石橋湛山の辞任劇においても、この構図は普遍的に活かされているのです。
医師団の診断を受け、石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣します。石橋の潔さには、野党でさえ好意的で、日本社会党の浅沼稲次郎書記長は感銘を受け、「政治家はかくありたい」と述べたと言います。この石橋の潔さの一因となったのは、ジャーナリスト時代の石橋自身の主張にあります。
石橋はかつて、暴漢に狙撃されて帝国議会へ出席できなくなった当時の濱口雄幸首相に対して、退陣を勧告する社説を書いていました。もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者を欺く事態になると考えたのです。
ジャーナリスト時代の自らの主張が、巡りめぐって、自らの進退問題に決定打を与えることになろうとは、思いもよらなかったでしょう。
アメリカの対日戦略が右へ左へ舵を切る中、アメリカの意に反して発足した石橋政権は、わずか3ヶ月で崩壊しました。そして、その後任はアメリカが期待した通り、岸信介が選出される事になるのです。
■まとめ・総論
★戦後、アメリカに対して「自主路線」を表明している人は、重光葵や岸信介のように、自ら戦前の日本を引っ張っていた人か、芦田均や石橋湛山のように、軍部の圧力にもめげず、堂々と発言していた人です。突然、対米自主路線を唱えているわけではないのです。
★1954年の鳩山政権から1960年の岸政権にかけては、政治家の脱米・自主独立気運が最も高まっていた時期のひとつです。その背景には、占領終了後の経済的発展と、アメリカが警戒した石橋湛山というシンボルの存在があったのです。
★しかし、石橋湛山の様な政治家が首相としていられるわけもなく、3ヶ月という短さで没落します。石橋の辞任は、後の政治家たちにとって最大の脅しとなりました。脱米・自主独立を本気で主張するのであれば、CIAに匹敵するようなネットワーク網を利用するか、秘密裏に進める必要があるのです。
★石橋湛山が脱米・自主独立を一貫して主張するも、成し得なかったのは、「実現するための共認基盤(実現基盤)の脆弱さ」にあります。現代において、日米関係が孕む問題性は、ネットを通じて盛んに議論されており、脱米・自主独立の気運が一般人レベルで高まりつつあります。この一般人発の気運の高まりを実現基盤とすれば、脱米・自主独立に向かえるはずなのです。「実現に向かうための共認基盤(実現基盤)」を作る事こそが、最大の政治活動であることを、石橋湛山は教えてくれているのではないでしょうか。
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