2012年12月25日

米国の圧力と戦後日本史12 安保闘争とは何だったのか?~政治家がマスコミとの共認闘争に敗れた~

前回 米国の圧力と戦後日本史11  ~面従腹背で対米自主を目指した岸信介~では、岸信介はアメリカから支援を受けながらも、それに背いて対米自主を目指して安保改定に取り組んでいた事を扱いました。
今回はその後どうなったか?です。

写真は国会を取り囲んだデモ隊(1960年6月18日)

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①従米政治化によって妨害された、岸の安保改定2段階構想
安保条約では、アメリカに一方的に有利な取り決めが全て、条約の下位にある行政協定によって決められていました。それは、行政協定は国会の承認を必要とせず、広く日本国民の目に触れさせること無く、無理強いするのに相応しかったからです。条約本文は抽象的な文言でゴマカシ、実質的内容は行政協定で縛りをかけられていました。
対米自主を考えるとき、この行政協定を改定する事が必要不可欠でした。
だから岸信介は、
行政協定を全面的に改定すべき時期にきている
と国会で答弁したのでした。
この協定改定の実現にむけて、岸は2段階論を考えていました。それはまず安保条約を改定し、その後行政協定を改定するというものです。
それは行政協定こそが本丸で、これを一度に改定するのはハードルが高かったからです。またこのやり方だと駐留米軍の撤退についても、時間をかけて協議する事ができます。
しかし、この方針に対して、自民党内部で意見が割れます。池田勇人、河野一郎、三木武夫などの実力者たちが、そろって同時大幅改定を主張しました。
池田勇人は、岸のあとに首相になっていますが、かれはその後、行政協定を改定する動きを見せていません。この事からも、彼らが同時大幅改定を主張したのは、無理難題をふっかけて、岸政権を潰す事だったと考えられます。
池田と共闘した三木武夫は、占領時代から米国と太いパイプを持ってた人物でもあります。
当時、自民党は圧倒的多数を誇っていましたから、数的には新安保批准は問題なくできたはずです。ですから池田や河野、三木らの無理難題は、岸が推し進める対米自主に危機を抱いたアメリカの圧力であったと推測されます。
②100万人を超える国民がデモに参加し岸政権は崩壊
対米自主を目指した安保改定でしたが、学生運動家らを中心に安保反対運動が巻き起こります。
この反対運動は多くのマスコミに支持され、1960年6月15日にピークを迎えました。
6月15日には、総評は全国で580万人の動員を行い新安保阻止と、岸退陣を訴えました。
同日、全学連が国会構内に乱入し、警官隊らと乱闘するなか、東大生の樺美智子さんが死亡。多数の負傷者と逮捕者が発生するという事件がおきます。
この事がマスコミで大きく報じられて以降、それまで全くデモに参加したことが無かった無数の人達が運動に参加していきます。
6月18日には、日本政治史上最大のデモが国会・首相官邸付近を取り囲みます。50万人以上の労働者、それと同数の市民団体が加わっていました。学生だけでも5万人を超えていたといいます。
しかし、この大動員の前日17日に大手新聞からいっせいに、暴力的手段を批判する「7社共同宣言」が出されます。警察は守りを固め、労働組合も過激な行動を行う予定はありません。この段階では既に全学連の指導者らは逮捕され、大集団を指導できる人物はいませんでした。結局6月18日のデモは暴動に発展する事はありませんでした。この日を持って安保騒動は終結します。
その後、新安保条約は参議院の議決が無いまま6月19日に自然成立。
6月23日には岸は、混乱を収拾するため、責任を取って辞意を表明することになります。
③安保反対運動がおき、急速に終焉したのは何故か?
安保闘争を主導したのは、反米の全学連、その中でもブント(共産主義者同盟)と呼ばれる組織でした。1958年にに日本共産党からケンカ別れした組織で、当然金がありません。書記局にはたった1台の電話しかなく、その電話代は半年も未払いという状況でした。
これが安保闘争最盛期になると、急に金回りがよくなります。
デモ動員のためにバスを何十台もチャーターしたりするのですが、このお金はどこから出てきたのでしょうか?
全学連幹部は、占領時代アメリカの情報関係者と積極的に接触を図っていた右翼活動家の田中清玄と接近します。田中は、米国と深い繋がりを持った経済同友会の財界人を紹介。彼らが岸政権打倒に向けて全学連に資金提供を行います。
経済同友会は戦後すぐ1946年に設立された、親米路線をとる若手経営者グループ
岸政権当時は神武景気の後半から岩戸景気に突入した好景気真っ只中にありました。ですから経済界が積極的に岸政権を打倒する理由は見当たりません。
にも関わらず、経済同友会が岸政権打倒に向けて学生運動家らを支援したのは何故でしょうか?それはアメリカの意向が働いていたとしか考えられません。岸政権の対米自主を快く思わないアメリカが、安保運動を盛り上げる事で、岸政権を潰そうと考えたのです。
◆マスコミの動き
マスコミは当初の安保反対論調から、岸政権打倒に傾き、最後は7社共同宣言で暴力排除へと変わります。
当時安保騒動に関与した人はみな、7社共同宣言ですっかり流れが変わったと話しています。
この7社共同宣言を書いた中心人物は、朝日新聞の論説主幹、笠信太郎ですが、彼は戦前朝日新聞のヨーロッパ特派員としてドイツに渡り、後にCIA長官となるアレンダレスと協力して対米終戦工作を行うなどアメリカとの繋がりが強い人物でした。
シャラーの「日米関係とは何だったのか」によると

マッカーサー駐日大使は日本の新聞の主筆たちに対し、大統領の訪日に対する妨害は共産主義にとっての勝利であると見なすと警告した。
CIAは友好的な、あるいはCIAの支配下にある報道機関に安保反対者を批判させ、アメリカとの結びつきの重要性を強調させた。
3大新聞では政治報道陣の異動により、池田や安全保障条約に対する批判が姿を消した。7月4日の毎日新聞は「アメリカの援助が日本経済を支える」という見出しで、「日本の奇跡的な戦後の復興を可能にした巨大なアメリカの援助を忘れてはならない」とのべた。

これらから、朝日の笠信太郎や各新聞の主幹らが、アメリカの意向を受けて途中から、安保反対を批判する立場に変わったと推測できます。
以上の事から、安保反対運動の顛末について、孫崎享氏は以下のシナリオが考えられるとしています。

1.首相の自主路線に危惧を持った米軍及びCIA関係者が、工作を行って岸政権を倒そうとした。
2.ところが岸の党内基盤及び官界の掌握力は強く、政権内部から切り崩すという通常の手段が通じなかった。
3.そこで、経済同友会などから資金提供をして、独裁国に対してよく用いられる反政府デモの手法を行うことになった。
4.ところが、6月15日のデモで女子大生が死亡し、安保闘争が爆発的に盛り上がったため、岸首相退陣の見通しが立った事もあり、翌16日からはデモを押さえ込む方向で動いた。

結局安保闘争の結果をそれぞれの立場で見てみると、以下のようになると思います。
岸信介:どうでもいい安保条約は改定されたが、本丸の行政協定の改定には踏込めず、対米自主は実現できなかった。
学生運動家:反対していた安保条約は結局改定されてしまった。
岸も学生運動家も、双方とも目的は実現できなった。しかしアメリカだけが、本来の目的である日本の対米自主を阻む事に成功したという事になります。
④安保闘争とはなんだったのか?
最後にここで安保闘争を大衆運動という視点でみてみたいと思います。
安保闘争を主導した、全学連ブントの中心人物の一人、西部邁はこう述べています

「総じて言えば60年安保闘争は安保反対の闘争ではなかった。闘争参加者のほとんどが、国際政治及び国際軍事に無知であり、無関心ですらあった」

おなじく森田実はこう述べています

「岸が進める、日米安保改定を許せば、『平和国家・日本』の立場は損なわれるとの思いでした。岸信介氏に対する反感が高まるとともに60年安保闘争が盛り上がっていったのです。」「戦後左翼の秘密」

仮に安保反対闘争の中心人物らが、それなりの意識を持って運動を主導したのだとしても、その運動論は人々の意識に訴えかけるしかなく、そこはマスコミに依存するしかありませんでした。
結局大多数の人が、東大生樺美智子さんの死亡とそのマスコミ報道をきっかけに、安保闘争に参加し、その後のマスコミの7社共同宣言であっという間に、運動が終結したという事実を見ても、運動そのものが、マスコミの報道内容に徹底的に左右されています。
そのマスコミがアメリカの影響下にあるのですから、そんな運動自体が成功するはずがありません。
対米自主の大衆運動としてとらえた場合、その原点はこの60年安保闘争だと言えるでしょう。現代、改めて対米自主を実現しようとした場合、この60年安保闘争を通した総括から、重要な視点が発掘できます。
★マスコミ報道に左右されない脱米、対米自主意識の盛り上がりが実現基盤。
60年安保闘争では、アメリカの影響下にあったマスコミ報道に踊らされ、アメリカの思うがままとなりました。
日本のマスコミは、現在「従米官邸→電通→マスコミ」の流れにあり、今もアメリカの影響下にあるのに変わりありません。
そうである以上、マスコミ報道に依拠した運動では、対米自主など実現出来ない事は明らかです。マスコミ報道に左右されない対米自主機運の盛り上がりが、その実現基盤となります。

★戦後民主主義教育の申し子=学生が安保闘争を直接的に主導。⇒近代観念に代わる新しい観念の必要。
安保闘争を主導した実働部隊が学生だったというのは興味深い事実です。
1960年といえば終戦から15年を経過していますが、この世代は戦後民主主義教育を受けてきた世代であり、学校教育の点からもアメリカの洗脳が完了した世代だと言えます。
一方で岸は戦前の大戦に加担した勢力に属し、戦後はA級戦犯に問われた身です。戦後民主主義の立場からすれば、再び戦争国家に突き進む非常に危険な人物としてレッテルを貼ることは容易だったと思われます。
森田実が、岸の安保改定の背後に、「平和国家・日本の解体、つまり議会制民主主義に対する危機を感じた」というように、岸が目論んだ対米自主(新安保条約→行政協定改定)を潰したいアメリカは、マスコミを通じて『戦後教え込んできた「民主主義」が危機に瀕している』という点に訴えかける事で、安保反対→岸潰しの機運をつくりだしたといえるでしょう。
戦後GHQによる日本支配の結果、検察とマスコミはアメリカの手に落ちました。それに加えて60年安保闘争では、戦後民主主義教育を通じた観念支配の完了世代が、アメリカの手先となって動いた最初の運動だったと見る事ができます。
以降、この学生らが社会人となり、日本の社会を動かす中心となっていきます。
70年全共闘運動終焉を持って、学生運動は下火となりますが、戦後の民主主義を刷り込まれた世代が、社会の中心を担うようになり、今度は徹底して従米路線へ突き進む事になります。
このようなアメリカから植えつけられた民主主義に代表する近代観念にとらわれている限り、アメリカの手の内に落ちる事は明確です。したがってその近代観念に変わる新しい観念を生み出す必要があるでしょう。

★政治家VSマスコミの共認闘争⇒マスコミを超える共認勢力の結集。
60年安保闘争は、表面的には政治VS学生(大衆)運動という図式ですが、実際は政治VSマスコミの共認闘争であったと言えるでしょう。岸はアメリカCIAスパイ網の支援によって、自民党を立ち上げ、一度は私権闘争で勝利しました。しかし、岸の対米自主を警戒したアメリカが、手の内にあったマスコミを通して学生(大衆)を先導した運動に敗れたのでした。マスコミが政治家を凌駕し、共認闘争に敗れたのです。これ以降はマスコミが従来以上に絶対的な力を持つようになります。
ですから、この絶対的な力を持つマスコミに依拠した運動に可能性が無い事は明らかで、このマスコミを超える、新たな共認勢力の結集が必要とされるのです。

List    投稿者 kichom | 2012-12-25 | Posted in 03.アメリカの支配勢力と支配構造No Comments » 

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