2011年07月17日

原発問題から見える特権階級・近代科学の問題性11 ~近代科学に対する誤った認識~

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画像はこちらからお借りしました。
 
福島での原発事故は、原発が人類の手に余る危険な代物であることを、日本中、ひいては世界中に知らしめることになりました。
今回の原発事故は、もちろん原発そのものの危険性や特権階級(政・官・産etc.)の無能(=自己中)がもたらしたものでありますが、それら以外にも大きな要因があるのではないでしょうか。
 
それは、我々(及び科学者)があまり自覚せずに持っている“近代科学に対する誤った認識”です。
本記事では、この“近代科学に対する誤った認識”について考えていきます。

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この問題は、かの原子爆弾の開発に関わった科学者達の研究姿勢において、端的に表れています。

~前略~
まず、終戦後の日本の原爆に対する意識はどうであったのだろうか?惨事として受け止められている反面、当時子供だった物理学者佐藤文隆氏によると、
>「原爆はすごい!」という感銘近いものが当時はあったという記憶である。「記憶」だけではなく自分を物理学に導いた原体験ではなかったかという想いである。戦後4年目の湯川秀樹のノーベル賞受賞という〈事件〉でも、その研究内容が原爆と同じ「原子の世界」であるという一体性が強調された。科学の進歩はいまや原子の世界を解明し、その最初の最初の証明が原子爆弾であったのは不幸であるが、その知識が原子力をはじめ数々の恩恵をもたらす科学の時代に入ったといわれた。
(佐藤文隆「科学と幸福」岩波文庫より)
広島.長崎で20万人をこえる死者を出した大惨事に対する、大衆の科学への評価はこうだったのです。湯川秀樹のノーベル賞に日本中が沸いたのは、終戦後僅か4年のことです。佐藤文隆氏は現在科学者集団の自己完結性問題を研究されており、科学者にもの申す科学者として活動されています。この不謹慎にもみえる社会の評価は、実は近代科学のもつ本質問題をあらわしていると思います。科学そのものは純粋なものでその利用方法に問題がり、そして、純粋である科学者の「知の追求」に悪意はなく、それだけで評価に値する、という2点の価値判断において。
この価値判断は原爆をつくった科学者達にも当てはまります。原爆開発とはどのような分野の科学からなるのでしょうか。それは、原子核.宇宙線.星に進化.宇宙での元素起源などX線天文学やビックバン宇宙論と深く関連する分野です、原爆で起きる現象は宇宙で起きる現象の再現なのです、それを地上で実験.観察する科学が、巨大な素粒子加速器を利用する、高エネルギー物理学といわれる分野です。
マンハッタン計画では、当時アメリカ最高の理論物理学者と評されたオッペンハイマーという原爆推進のリーダーである科学者が悪玉にされ、それを実際につくりあげた科学者はなんの責任追及もされていません。そのうえ、その科学者のなかにはたくさんのノーベル賞受賞者がいました(その後の受賞者も含む)、コンプトン、ローレンス、ユーレイ、フェルミ、ウィグナー、ベーテ、レビ、アルヴァレら多数、このほか、20世紀最大の数学者と言われるノイマンも加わりました。
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画像はこちらからお借りしました。 
そして、その他科学者と製造関係者まで含めると、12万5000人が2年半ロスアラモス研究所で研究開発を進め、原爆を完成させました。研究所の雰囲気は兵器開発という内容にもかかわらず、自由な討論にあふれ、全員が一心不乱に研究に励んだそうです。かつて、星や宇宙にあこがれ、その探索に励んだ少年達は、その研究に対する興味だけで原爆開発に励んだのでしょう。サイクロトロンなどの大型加速器は、今でも国家の投資がなければ建設不可能であり、それを利用して宇宙でおこる現象の一部を地上で再現できますから、科学者にとってまたとないチャンスだったと思います。その純粋?な追求活動の結果、原爆は完成したのです。
戦争に原爆を使用する決断をした統合者はいつも問題にされますが、これだけ大勢の科学者が、原爆開発の最中に何の罪悪感を感じていないことは、あまり非難されません。純粋な知の追求をする自分達は無垢な存在であり、その知の追求は善であり、それを誰もとがめることが出来ないという幻想観念を共認しているのではないでしょうか。そして、反社会的な研究活動を行うとき、集団内でその共認を強化し現実を捨象するのではないでしょうか。まるで、自分達が少年の無垢な心のままであるかのように思い込んで。
◇原爆をつくった星少年たち 1・・「科学者独自の倫理」
◇原爆をつくった星少年たち 2・・「科学者独自の倫理」

原爆開発に携わった科学者は、以下の2点を不動の前提であるかのように思い込んでいました。
 
○科学そのものは純粋無垢である
(科学技術の利用によって社会に問題が生じた場合はあくまでも利用法の問題)
○科学者(自分たち)の“純粋な知の追求”は無条件に是
 
この思い込み、おそらくほとんどの科学者に当てはまり、そして大衆の意識にも少なからず当てはまっていると思われます。
 
しかし、この前提が成立するならば、を認めてしまうと、科学者は自身が携わる研究が社会に及ぼす影響を全く考える必要がなくなってしまいます。
その結果、研究に取り組む目的意識は、自分の“純粋な”興味関心のみとなり、それこそがあるべき研究姿勢であると容易に正当化されてしまいます。
 
 
また、科学者の“特徴”を見ていくと、は社会と乖離した存在となっていることが浮き彫りになります。
 
※以下の引用文は、『神になる科学者たち』(上岡義雄著)第7章「科学の営為とは、科学者とは何か」において提起されている“現代流の科学者の行動様式や規範”に対しての考察(5点目以降を紹介)

147983.jpg画像はこちらからお借りしました。
引き続き、『神になる科学者たち』(上岡義雄氏著)からの引用です。
>5,優秀な研究者ほど、優れた成果を上げるために優れた研究環境に身を置くことを求める。また、潤沢な研究資金の獲得、確保を求める。そのために、魅力的に見える研究構想や仮説を研究計画書に盛り込んで提示し、しかるべきスポンサーから資金を得る。科学のスポンサーは主に政府、巨大企業、研究資金支援団体である。
>6,研究計画書に研究目標が記載されていても、結果的に目標が達成されたかどうかを問われることはほとんどない(軍事研究は除く)。なにがしかの前進があればよく、また、万一その研究に失敗しても資金の返却を求められることはない。科学者はスポンサーに対して道義的責任は負っても、基本的に成果に対する責任を負うことはほとんどない。
この辺の感覚も、企業の感覚からは大きくずれる部分です。成果に対する責任を負わなくていいとは…? 企業だけでなく、普通の人間の集団ではあまり許されることではありません。
>7,科学者とスポンサーとの間、また、科学者と社会との間には「重要なことは真理の発見である」「真理の発見は絶対的な価値である」という暗黙の了解が成立している。それが科学者の存立基盤の一つになっている。
このような意識が、「真理を発見するためなら何をやってもよい」というスタンスを支えていると思われます。原爆を開発した物理学者・数学者の研究グループも、当時は熱狂に包まれて研究開発を行っていたといいます。次にも出てくるように、真理の発見は至上の価値で、それがもたらす社会的影響については「わしゃーしらん」という意識も醸造されてくるでしょう。
>8,科学の知識は没価値・中立であり、ある研究成果が社会的弊害を生んだとしてもそれは科学者、あるいはその研究が悪いのではなく、悪用・誤用した人に責任がある。
科学者には責任がないというのはおかしいのではないでしょうか? 実際、毒ガスも核兵器も軍人や政治家が着想したのではなく、科学者が発案し提案したものです。「研究が悪いのではなく、悪用・誤用した人に責任がある」というのは言い逃れではないのでしょうか。それ以前に、罪悪感を感じることもなく普通に言い訳していられること自体に、ものすごい違和感を感じてしまいます(5202の本田さんの投稿の最後の部分で、本田さんが阿倍被告の発言に感じた違和感に近いと思います)。
「真理の追求」の美名のもと、自らの興味分野への資金の投入を期待して、政治家や軍に働きかけた科学者は数多い。普通、一般の世の中の職能集団はその結果に対して社会的な責任を負っている。科学者だけ「罪なき傍観者」というのはおかしいし、また、科学であれ何であれ、人間が生み出す成果に没価値・中立などということがありうるはずがないのでは? と思ってしまいます。
>9,優れた科学者の中には真理に殉じる精神を持っている人が多い。自然の真理とひたむきに向かい合い、真理の探求にひたすら努力する。私欲を忘れ、人類の幸福のためという夢を抱きながら研究に一生を捧げたりする。しかし、厳しい競争の中で、世俗的欲望に駆られ、モラールを欠いた行動をする科学者も決して少なくない。
前者は、モームの『月と6ペンス』という小説に出てきた画家のイメージに重なります。職場も妻も子供も捨てて、俗世から離れて孤島に行き、芸術を追求して一生を終える話です。後者は、半年ほど前、縄文土器の偽装発掘を行った考古学者や、ピルトダウン人事件で有名な人類学者のイメージでしょうか。
>10,科学研究の内容は一般に非世俗的であり、科学者は非世俗的な価値の下で研究生活を送り、非世俗的な価値を基準に世俗的な世界と接点を持っている。
5202の本田さんは、
>自分達は「白衣の聖職者」であり社会に貢献しているのだから、素人が生半可な知識で意見できるものではない
というような、幻想観念が成立しているのでは…、と書いていらっしゃいますが、私もそう思いました。
科学者も一介の職業人であり、真理に殉じる聖職者などではなく、社会的な影響も視野に入れた研究をしていく必要があるし、一般の人達もそれを監督できるシステムを構築すべきと考えます。
>11,科学者の多くはきわめて優秀な頭脳の持ち主であり、尊敬の目で見られることが多い。半面、専門領域に特化せざるを得ないため、科学者は社会一般の動向や価値観に疎くなりがちである。また、学問領域、学会が異なると、科学者同志の意思疎通が難しい場合が多い。
いわゆる、「世間知らず」と「象牙の塔」。よく言われていることではありますが、これからの発展にはネックになってくるでしょう。
>20世紀に入ると、非世俗的な科学と科学者が、どろどろした世俗と直接接点を持つ場面が急激に増えた。
と、上岡義雄氏は結んでいます。
既に何度か書かせていただいておりますが、「科学者集団の自己閉鎖性と自己充足性」これを解体していくような共認形成をしていかないと、21世紀の科学は、人間にとってとても危険なものになると思います。
◇科学者集団の特徴2

【参考】
◇Re:「科学と技術 その3」/科学者・科学者集団の特徴1
※「現代流の科学者の行動様式と規範」の1~4についての紹介

 
科学者は社会の期待圧力からも、評価圧力からも、徹底して断絶した存在(=罪なき傍観者)となっており、研究の目的意識を形成しているのは自分発の興味関心のみです。
 
通常は、社会の期待に応えて成果を上げられなければ淘汰されますが、科学者の場合は、「科学そのものは純粋無垢」「科学者の“純粋な知の追求”は無条件に是」という誤った認識が社会共認となっているために、社会期待と乖離した自分発の興味関心による研究ですら、存続が可能になっているのです。
その結果、第二次世界大戦での原爆被害、今回の原発事故被害というような事態がもたらされていると言えます。
 
科学者も庶民も、今回の事故=現実を直視して、科学(者)に対する誤った認識を捨て去って、「皆の期待に応えることができてこそ科学技術・科学者である」と捉え直す事が必要です。
 
その実践方法としては、研究テーマ設定や研究成果の評価に関して、社会的な期待圧力や評価圧力がかかるシステムを構築することが重要になると思います。
 
科学の領域においても、「社会期待⇒可能性発掘⇒評価闘争⇒より社会期待に応える提案」というサイクルを創り出していくことで、期待=応合の圧力が最大の活力源となる社会を実現していくことが可能になると思います。
 
 
最後まで読んでくれてありがとうございます。
応援よろしくお願いします。

List    投稿者 lived104 | 2011-07-17 | Posted in 10.日本の時事問題3 Comments » 

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コメント3件

 ねこってのフリーダムワールド | 2012.06.19 11:02

スキタイの末裔

 今、世界を支配しているのはアメリカという国です。
 ほぼ、世界がこの国の政府を牛耳っている連中の思い通りに操られてる
 と言って良いでしょう。
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