2014年05月25日

脱市場に向けた追求機運 2 市場からの撤収

みなさん、こんばんは。
先週から始まったこのシリーズ、今回のテーマは『市場からの撤収』です。
『市場(しじょう)』は日常生活の基盤になっているため、
そこから撤収するイメージが湧きにくいですね。

『市場から撤収すると食いっ逸れて飢え死にするんじゃないか?』とか
『撤収した後、市場に代わるものがあるのか?』

というように色々な疑問が浮かんできます。
実は、市場の中での生活が当たり前になっていること自体、大間違いなんだそうです。

撤収

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るいネットにそのものズバリ「市場からの撤収」という投稿があります。

『私たちが生きている、この市場社会はマヤカシであり本当の社会は別なところにある』

というかなり衝撃的な内容です。
少し難しいですが、みなさんが日頃感じている実感と摺り合わせて行けば、
大いなる可能性が見えてくると思います。

まずは『市場のおかしさ』とは何なのか?
それに気づき始めた大衆の意識とはどのようなものなのか? を見て行きましょう。 

「円高」とか「国債格付け」とかいうことは、
すでに実際の国富の多寡や生産物の質や市場の需要と無関係に語られている。

こういうファクターを決定しているのは「現実」ではなく「思惑」である。
「未来予測」であり、同一の未来予測を共有するプレイヤーの頭数である。

「貨幣で貨幣を買うゲーム」は「ゲームの次の展開」だけが重要であり、
「次はこういう展開になる」という「まだ起きていないことについての予測」が反転して
「これから起きること」を決定する。

不思議なゲームである。

ここで流れる時間は、人間的時間の流れとはもう違うものである。

ある意味で時間は止っているのである。
だから、この「貨幣で貨幣を買うゲーム」のプレイヤーにはどのような人間的資質も、
市民的成熟も求められない。

そこで必要なのは適切な「数式」と高速度の「計算」だけである。
だから、金融工学についての十分な知識をもっていれば「子ども」でも
株や債券の売り買いについての適切なアルゴリズムを駆使して巨富を築くことができる。

現に、そうなっている。

今では人間に代わってコンピュータが
一秒間に数千回というようなスピードで取引をしているのである。

グローバル経済にはもう人間主体のものでもないし、
人間的成熟を促すためのものでもない。

私たちはそのことにようやく気づき始めた。
「こんなのは経済活動ではない」ということに気づき始めた。
「こんなこと」はもう止めて、「本来の経済活動」に戻りたい。
そう思い始めている。

私にはその徴候がはっきりと感じられる。
そのような人たちは今静かに「市場からの撤収」を開始している。
さまざまな財貨やサービスをすべて商品としてモジュール化し、
それを労働で得た貨幣で購入するというゲームの非合理性と
「費用対効果の悪さ」にうんざりしてきたのである。

『そんなこと(市場での過当競争)をやって何になるのか?』という実感ですね。

もう少し詳しく言えば、
『市場での過当競争は疲れるばかりであり、そうまでしてお金を得たいとは思えない。』
『そもそも、人としてもっと充たされる本来の経済活動があるはずだ。それは何なのか?』
という意識でしょうか。
確かにこうした意識は、まっとうな感性をもつ人なら誰もが持ち始めているような気がします。

なぜそうなったのか?
これを解明する切り口として『欲望の二重の一致』という概念が取り上げられています。

目の前に生きた労働主体が存在するなら、彼の労働をわざわざ商品化して、
それを市場で買うことはない。

「ねえ、これやってくれる。僕が君の代わりにこれやるから」で話が済むなら、
その方がはるかに合理的である。

経済学的にはこれは「欲望の二重の一致」といって「ありえないこと」とされている。
だからこそ貨幣が生まれたとのだ、と説明される。

貨幣

 

だが、ある程度のサイズの「顔の見える共同体」に帰属していると、
実際にはかなりの頻度で「欲望の二重の一致」が生じることがある。

これはやればわかる。
というか、欲望というのは自存するものではなく、
「それを満たすものが目の前に出現したとき」に発動するものなのである。

だから、共同体に「いろいろな財貨やサービスや情報や技能」をたっぷり持っていて、
「誰か『これ』要らないかなあ」と思っている人が出入りしていると、
「あ、オレが欲しかったのは、『これ』なんだ」というかたちで欲望が発動すると
「欲望の二重の一致」はたちまち成就してしまう。

『欲望の二重の一致』とは、

相手が欲しいものと自分が譲ってもいいもの
自分が欲しいものと相手が譲ってもいいもの

という二つが一致することを言います。

例えば、私が「ミカンをやるからお前のりんごをよこせ」と主張したとしても、
相手が『ミカンなんていらねぇよ』とか、
『メロンをよこせ』とか、
『りんごなんてもってねぇよ』といわれたら、その時点で交換は成立しません。

なので、経済学的には『起こりえないこと』と言われています。
そして、こういう状況を解決し物品の流通を実現するために貨幣が登場した、
と主張するのがこれまた経済学なのですが、そこはかとなく怪しいですね。

そもそも、『欲望』を前提にしている時点で間違っているんです。これ。
なぜかと言うと、
『欲望』というのは約5000年前に
他集団を対象とした略奪闘争が始まって以降に漸く登場した

元々人類には備わっていなかった意識だからです。
それ以前の人類は、母集団たる共同体において自給自足をベースに生活していたため、
『自集団にはない〇〇が欲しい』という思考など、発生するはずはなかったのです。

このように『欲望の二重の一致はありえない』とする経済学の常識は、
『欲望』という概念を正当化し、貨幣経済を捏ち上げ、
市場拡大を創出するための騙しだった、ということなのです。

私の主宰する凱風館という武道の道場には約200人の人々が出入りしているが、
専門領域や特技を異にするこれだけの数の人がいると、
多様な相互扶助的なサービスのやりとりが貨幣を介在させずに行うことが可能になる。

今凱風館で行き交っている情報や知識や技術や品物の「やりとり」は、
それらひとつひとつがモジュールとして切り出されて、パッケージされて、
商品として市場で売り買いされた場合には、
かなりの額の貨幣を積み上げても手に入れることがむずかしい質のものである。


だが、凱風館では貨幣は用いられない。


ここでは、情報や技術や品物が必要なひとはその旨を告知しておけば、
そのうち誰かがそれを贈与してくれるからである。

この贈与に対する反対給付は「いつか」「どこかで」「誰かに」
パスすることで相殺される。

いま贈与してくれた人も、かつて、どこかで誰かに「贈与されたもの」を
ここで次の受け取り手に「パス」することによって反対給付を果たしているのである。

貨幣が介在しないことで、ここでは貨幣で買えるものも、貨幣では買えないものも、
ともに行き交っている。


これはもうある種の「物々交換」と言ってもよいだろう。


そして、すでに日本の各地では、さまざまなサイズ、
さまざまなタイプのネットワークを通じて、このような「直接交換」が始まっている。

ここでは、筆者:内田氏が主催する道場における物々交換の実例が書かれています。
注目点は、先行してサービスを提供しよう(したい)、
潜在的なみんなの期待に応えたいという意識の存在です。
みんなの期待に応える、そのために技能を磨く、それを相互に交換する。
こうした意識があれば、貨幣をベースにした市場など無くても事足りるように思えます。

例えば、プロボノなんかがそうですね。

プロボノ

高いスキルを“無償で提供”する「プロボノ」な人たち

このような意識はどのようにして生起してきたのでしょうか?

貨幣を媒介させるのは、「その方が話が速い」からであった。
だが、今は貨幣を媒介させた方が「話が遅い」という事態が出来している。

自分の創出した労働価値を貨幣に変えて、
それで他の労働者の労働価値から形成された商品を買うというプロセスでは、
労働価値が賃金に変換される過程で収奪があり、
商品を売り買いする過程で中間マージンが抜かれ、
商品価格にも資本家の収益分や税金分が乗せられている。

それなら、はじめから労働者同士で「はい、これ」「あ、ありがとう」
で済ませた方がずっと話が速いし、無駄がない。

例えば日本人の主食である米については、
すでにその相当部分は市場を経由することなく、
生産者から知り合いの消費者に「直接」手渡されている。
この趨勢はもう止らないだろうと私は思っている。

こういう活動は「表の経済」には指標として出てこない。
すでに始まりつつある「国民の市場からの静かな撤収」について
経済の「専門家」たちの見解をメディアは報じないが、
たぶんそれは彼らがそれについてまだ何も気づいていないからであろう。

一番敏感なのは就職を控えた若者たちである。
感度のよい若者たちはすでに自分たちを「エンプロイヤビリティ」の高い労働力として、
つまり「規格化されているので、いくらでも替えの効く」労働者として
労働市場に投じるほど、雇用条件が劣化するということに気づき始めた。

労働
それなら、はじめから労働市場に身を投じることなく、
「知り合い」のおじさんやおばさんに「どこかありませんか」と訊ねて、
「じゃあ、うちにおいでよ」と言ってくれる口があれば、
そこで働き始めるというかたちにした方がよほど無駄がない。

あまりに雇用条件を引き下げすぎたせいで、就活が過剰にストレスフルなものになり、
就活を通じて人間的成長どころか心身に病を得る者が増えたせいで、
労働市場から若者たちが撤収するという動きはすでに始まっている。

「市場からの撤収」は就活に限らず、あらゆるセクターでこれから加速してゆくだろう。

 

『貨幣を使えば話が早い』
なるほど、そうだった気がします。昔は。
そして、確かに現在は『貨幣を媒介させると話が遅くなる』と感じますね。
あるいは重くなる、抵抗感がある、スッキリしない。
それはなぜなんでしょうか?
引用文中にもあるように、
貨幣を媒介にしてモノを手に入れるまでの様々な局面で、様々な収奪が行われているからです。

搾取

だから、あるモノを手に入れるために実感に合わない労働をして、
カネを稼がなければならなかったければならなかったりする訳です。
スッキリしないのも頷けます。

そして、この現象にはさらに深い原因があります。

1970年頃の貧困の消滅→物的欠乏の消滅によって市場が縮小を開始し、

市場経済が回らなくなったから。

というのがそれです。

1970年頃、日本をはじめとする先進国では貧困が消滅し、
モノが欲しいという大衆の欠乏が衰弱し始め、市場が縮小を開始します。
市場経済が縮小すると、市場経済に寄生して儲けている人たちが困りますね。
だから大衆をムリヤリ働かせ、経済をムリヤリ回して、市場をムリヤリ成長させ、
そこから収奪し続けよう、ということになります。
このように、ムリヤリ回しているので『遅くなる』のは当たり前です。

過当競争

そして『遅くなる』だけでなく、ムリヤリ回す弊害がアチコチに出てきています。
やる気の出ないムリヤリ労働によるストレス蓄積などがそうですね。
こういう状況なので、何か別のやり方(生き方・可能性)を模索し始める人が出てくるのは必然です。
前述のプロボノなどはその先例。
人の役に立つということが活力源であり、相互に切磋琢磨することでお互いに活力が生まれる。
新たな社会の原型が見えてくる。

振り返ってみると、そもそも人類はそうやって生きてきたんですからね。

これからさき、ポスト・グローバリズムの社会では、
「貨幣を集めて、商品を買う」という単一のしかたでしか経済活動ができない人々と、
「贈与と反対給付のネットワークの中で生きてゆく」という
経済活動の「本道」を歩む人々に
ゆっくりと二極化が進むものと私は見通している。

むろん、貨幣はこのネットワークが円滑に形成され、
ひろがってゆくためにはきわめて効果的なアイテムであり、
「本道」の人々も要るだけの貨幣をやりとりする。

だが、貨幣はもう経済活動の目標ではなく、ネットワークに奉仕する道具にすぎない。

 

超国家・超市場論22 にも、

つまり、お金は(決して認識の質を測るモノサシなのではなく)、
現実の必要度を測るモノサシとして機能するのである。

とあります。

『貨幣=お金』それ自体に価値があり、
お金をたくさん持っている人がエラいと思われていた社会、
すなわち
『市場社会』は終焉しつつあると言う事なのです。

お金をたくさん持っていても、そのお金をバラまいても、
もはや人々の心は動かず、従わせることなどできません。
そして人々は、お金の多寡に捉われず、まわりの期待に応える・活力の出る方向へ、
意識や行動を転換させつつあるのです。

そしてお金は、そのような人々のあらたなネットワークを支援する、
現実の必要度を計る『単なるモノサシ』として残って行くことになるということになります。
これまでのお金がガソリンだったとすると、これからは潤滑油になる、ということでしょうか。

離陸

市場からの撤収とは、この変化にいち早く気づき、無味乾燥な市場競争から足を洗って、
みんなの役に立つために、互いに切磋琢磨する追求充足を基盤とした
本質的な経済活動に移行することなんです。

次回以降、すでに萌芽し始めている『充足を基盤とした本質的な経済活動』を取り上げて行きます。
お楽しみに!

List    投稿者 nihon | 2014-05-25 | Posted in 02.アメリカに食い尽される日本1 Comment » 

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コメント1件

 アンチネトサポ | 2014.05.27 16:38

現在の通貨は、通貨発行権を持つ人間なら、いくらでも作り出せる。
歴史で言えば、教会が発行した免罪符と一緒。
そしてお金があれば何でも手に入り何でも許される。
現代の世は、そう洗脳されている。

そんな物の為に、我々の時間・財産・果てまた命まで捧げているなんて、本当に愚かだ。

この記事の言いたい事はそういうことだと思う。

お金というシステムは本当に便利で、
この世に必要不可欠なのかもしれません。
だが、ごく一部の人間が好きなように発行できるシステムはハッキリいって欠陥です。

金本位制等、インチキができないお金のシステムの構築が、今一番求められていると思います。

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