プラザ合意=お金をあげる約束?!
こんばんは
最近ようやく、「社会ってほんとに、人が動かしてるんだな~ 」
と実感できるようになりました (当たり前ですが )
さてさて、今日は
レーガノミックス政策の失敗で、赤字がますます膨らむアメリカ
の続きです
技術競争で日本に負けたアメリカ産業界は、大ダメージ を受けます。
貿易赤字は年々拡大。もちろん輸入の中心は、日本製品 です。
’83年には、ついに貿易赤字が200億ドルを超えました 😥
レーガノミックス政策も失敗 に終わり、アメリカ国内産業は全く回復する気配がありません。
産業界から、 「何とかしろ」:evil: との要求が日に日に強まってゆくなか、
政府が考えたのは
国内景気を回復させるために『金利を下げる』ことと、
貿易収支を健全化するために『ドルの価値を下げる』こと。
そして、1985年、プラザ合意が成されました。
(プラザ合意とは:当時のアメリカ合衆国の対外不均衡解消を名目とした協調介入への合意である。対日貿易赤字の是正を狙い、円高ドル安政策を採るものであった。~Wikipediaより~)
これにより、急激な円高 が進み(約2年半で、一ドル237円から一ドル123円へ)、
これまでのアメリカの対日貿易赤字は一気に半分 になり、日本は円高不況 に陥ったのです。
・・・というのが一般的な説明ですが、日米経済グラフで、日・米金利や株価の動きを見ていると、
やっぱりそれだけではなさそうです
数字の動きと、その日付をよぉ~~く見てください。
まず、思惑どおり、急激な円高 が進んでいるのがわかりますね。プラザ合意発表の一日後に、ドル円レートは約20円も下落しています。
ところが、実はこの日、日本は祝日で、東京為替市場は休場
もちろん、日本がそれで大損 したことは言うまでもありません。
これって絶ーーーっ対、日本が祝日な日を狙ってますよね 👿
そしてなんと、プラザ合意のわずか4ヶ月後に、日本は金利を0.5%引き下げました
不況対策とのことですが、実は驚くべきことに、円高で輸出が激減した日本は、
生産コスト削減で収益の回復を図り、翌年の貿易黒字額はなんとーーー、
前年値を上回ったんです
そして’88年には、早くも輸出も回復基調に。
ではなぜ、日本政府は金利を下げる必要があったのでしょう。
どうしてこんなに素早く手を打つことが出来たのでしょう。
それは、アメリカが金利を下げたかったからです。
アメリカは、国内経済を活性化するためにも金利を引き下げたかった。
しかし、借金国のアメリカは、金利を下げてアメリカに資金が集まらなくなると困る。
アメリカの最大の資金源は、日本である。
以上のことから、日本との金利差を一定に保ち、日・米公定歩合が逆転しない範囲で
アメリカの金利を下げていけば、アメリカの金利をさげつつアメリカにお金が集まる、という訳です。
おそらく、プラザ合意の時点(あるいは直後)に、すでにアメリカから日本政府に
金利引下げの命令が下っていたのでしょう。
日本が先行し、すぐその後を追う形でアメリカは金利を下げているのが
グラフからもはっきり分かります。
そして、行き場を失った日本の大量の金融資産は、投資市場へ流れ込みます。
それが、バブルを引き起こしました。
その後バブルが崩壊して、日本の資産がことごとく海外に没収されたのは、
みなさんご存知の通りです。
貿易赤字の半減、為替市場での大損、バブル崩壊での資金流出。
プラザ合意からわずか数年間で、日本の資産はアッという間に奪われてしまいました
プラザ合意とは、勤勉なアリ=日本人が、消費体質のキリギリス=アメリカ人
に騙されて(脅されて?)交わした、お金をあげる約束のことだったのです
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コメント3件
minamikazekozo | 2008.01.20 3:29
なぜ満州から始めるのか?
満州に感じる様々な闇。アヘンや諜報機関の暗躍。・・・一言で言えば、初めて国際金融資本の利害と衝突したのが満州だったからではないか?
満州、続いて華北において、日本は国際金融資本のマネをして中国に深入りしていった。それが国際金融資本と深刻な対立を生み出し、日中戦争→太平洋戦争へ。
電通やマスコミは国際金融の支配の真似事で、だから戦後彼らの傘下で生き延びることになった。
神田美貴子 | 2009.06.02 13:36
日米衝突の始まりの始まりは『満洲』、正解。
吉村昭『ポーツマスの旗』
袖井林二郎『マッカーサーの2000日』
この2冊と、松村正義氏の日露戦争研究の講義を学び。
時の外務大臣小村寿太郎の苦難。海が広過ぎた時代の悲劇。小村寿太郎が帰国するまでの間に、タフト陸軍長官が桂太郎と東清鉄道(ロシアが敷設)の共同経営の話をつけ。小村は冗談じゃない。血の一滴も出さなかった米国に何故?と激怒。米国は米西戦争に時間がかかり扶清滅洋後来ています。グワム、フィリピンをゲット、北東アジアにきてみれば関東軍が既に居た、遅かった。満洲が欲しかったのに。その先頭が鉄道王ハリマン。アーサーマッカーサーとご昵懇の実業家。ダグラスはそこで育っている。松村正義氏は、そのジャンルの第一人者。
この6月1日まで3泊4日、北朝鮮とA型インフルを気にしながら。大連、旅順、瀋陽(奉天)まで、歴史の鉄路に揺られ万鉄に会いに行ってきました。元関東軍本部、結婚式の宴会準備中だった元の旧大和ホテル(毛、蔣介石、周恩来、近衛文麿、松岡洋右、ずらりと要人が宿泊している)は(孫文)中山広場に面して今もその立派な館は息づき。しかしロシア人街はあってもロシア人は居ない。観光客に白人が居ない。『新京まで行けば白系ロシア人が居ます』とガイドの張さん。
旅順は水師営会見所は当然、今も日本残影濃厚鮮明。立派な観光資源になっています。瀋陽駅は東京駅、大連駅は上野駅。白いアカシアの花盛り。蜜蜂。ポプラ並木に蔦葛。拓殖銀行あり、横浜正金銀行あり。朝鮮統治時代の元第一銀行、清水組みが建設した(?)朝鮮銀行支店。万鉄本社、古色蒼然でも立派な建物が保存され資料館などとして生きている。大連埠頭はいまも大活躍。田崎真珠の鮑貝の虹色真珠は名物に。どこかの国の大統領がパワー回復策として日本残影を消すのとは違うのも興味深い。南京面妖と全く異質。
渤海に向かえば北朝鮮の國境丹東と鴨緑江はすぐ。その半島の先に日本列島。北東アジアが一手に掴める。露にとって遥かな海・大連港は魅力ある配置図だっただろうことがよく分かる。日露戦争の仲介にあたったルーズベルトによるポーツマス条約は。朝鮮保護をめぐり日本を認めるものだった。日韓併合時、どの国からもクレームはつかなかったのはこの条約があったればこそ。その後4年間の世界大戦中。辛亥革命、ロシア革命。その間。大統領は代わって民族自決を叫ぶウイルソンに。その翌年、3・1抗日運動です。マッカーサー父子が満鉄を忘れるはずはない。満洲の共同経営案はどこに消えたのか。リットン調査団の報告がダブッテ浮上してきます。
ソウル生まれ、12歳まで半島育ちの私。やっと日米衝突の原点の原点が見え。なるほど、それで米国沖縄基地問題はグワムなのか、理解のひとつに到達しました。露はともかく。独仏が消えた幻の満州国。日本人は今のうちにもっと旧満洲を見ておこう。四川省級の大地震が起きたら、ガラガラ総崩れのレンガ積み上げがまだまだ荒野一面に建っています。それだのに旧満洲族と満州語は消滅です。例えば。ホンタイジの妻は15人。故宮内の妻の家は5軒で妻はモンゴル人。続々生まれて散らばれば諸民族混交は明白。アジアは同じ黄色民族。どこが違うのか。要するに人間は環境の動物。風と人は自由に動く。ちなみに私は76歳朝鮮からの引揚者、戦後、ジャーナリズムの世界で生き、高度成長のさなか。アメリカナイズのお先棒を担いで、マクドナルド第一号店が銀座にできれば、同時にハワイに飛び、アメリカナイズの最先端をかけずり回り。今思えばああ、おおです。そして共産国社会は鎖国期から解放に向け、混乱が起きないないはずがない。
瀋陽の中山広場の真ん中に毛沢東の銅像。その足下を、阿片戦争以来100年の銃をとる愛国の兵士達が取り巻く記念碑。次の100年がもう始まっている。大混乱にならない今のうちに旧満洲を。百聞は一見に如かず。
かくいう私。旅行代理店とは全く無関係であることを特記しておきます。帰国してホッ、肩まで浸れるお風呂に江戸前すしにお茶漬け。やはり環境の力は絶大。皆で大事にしましょう、この日本の文化と森羅万象を。
さいゆー | 2008.01.12 22:24
こんなお話は如何でしょう。安部芳裕氏の<日本人が知らない恐るべき真実>http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-27-1.html
クーンローブ商会の親であるロスチャイルドは欧州で鉄道事業により成長した歴史があります。東アジアでも同じことを目論んだと言えるかも知れませんね。