米国の圧力と戦後日本史21~バブル崩壊→日本のアメリカ化改造計画を本格始動させた「年次改革要望書」~
http://moneyzine.jp/article/detail/125423
日航機墜落事故以降、アメリカに完全に操られるようになった中曽根。プラザ合意→前川レポートを経て、日本はバブル経済に突入していった。しかし、’80年代末から欧米が中心となって日本バブルを崩壊させる動きに入っていく。
さらに1993年、日本のアメリカ化を強力に推進する『年次改革要望書』がスタートすることになった。今回は、そこに至ったアメリカの戦略転換とその背景、さらにアメリカによる日本支配の最大の基盤を突き止め、突破口を探っていく。
■日本の銀行と経済を長期不況に追いやったBIS規制
1980年代のバブル景気によって、日本の銀行が世界トップ10のうち、7行も入るまでに成長した。
http://www.tabilinks.com/basel/bis.htm
1988年、この日本の銀行の躍進に歯止めを掛けるために、BIS規制(バーゼル合意)が発表される。すなわち、国際業務を行う場合、自己資本比率8%以上(総リスク資産に対して8%以上の自己資本の保有)を義務付けた。
※BISは国際決済銀行の略。1930年に第一次世界大戦で敗戦したドイツの賠償金支払いを取り扱う機関として設立された。本部はスイスのバーゼル。各国の中央銀行を株主とする銀行として組織されている。
※BIS規制とは、国際業務を行う銀行の自己資本比率に関する国際統一基準のことで、バーゼル合意ともいいます。BIS規制では、G10諸国を対象に、自己資本比率の算出方法(融資などの信用リスクのみを対象とする)や、最低基準(8%以上)などが定められました。自己資本比率8%を達成できない銀行は、国際業務から事実上の撤退を余儀なくされます。BIS規制は、国際間における金融システムの安定化や、銀行間競争の不平等を是正することなどを目的として、1988(昭和63)年7月にバーゼル銀行監督委員会により発表され、1992(平成4)年12月末(日本では1993年3月末)から適用が開始されました。http://www.findai.com/yogo/0024.htm
>1987年7月、ボルカーFRB議長は、「自己資本比率規制に関する合意は、日本の銀行との競争において、アメリカの銀行が不利な立場にあると考える多くのアメリカの銀行の懸念を和らげるものになるだろう」とのべています。
>つまりBIS規制には、日本の銀行の競争力を弱める狙いがあったのです。当然、日本経済と日本の銀行は大きな打撃を受けることになります。(「戦後史の正体」孫崎享)
自己資本比率は
自己資本比率 = 自己資本 ÷ リスク資産
のように計算されるが、これを高めるには、
①分子を増やす
②分母を減らす
しかない。
そして、
①分子を増やす=自己資本を増やすために、銀行から新規株式が大量に発行された。市場に出回る株式が大幅に増加した結果、既存株式の株価が下落していった。
②分母を減らすために、
A.リスク資産である「企業への貸し出し」を減らす⇒貸し渋り・貸し剥がしが増え、企業活動が停滞していくことになった。
B.さらに、リスクゼロとしてカウントされる(=いくら買ってもリスク資産にならない)国債への投資が進んでいくことになる。
これらの結果、日本経済はバブル崩壊に見舞われ、大打撃を受けることになった。
さらに、90年代以降、銀行の国債投資=政府による借金の増が急激なスピードで進むことになった。(これが、新たなバブルが生み出される原資となっていく)
http://blog-imgs-23.fc2.com/h/a/t/hatimitsu2002/20071015024539.jpg
★バブルの発生はプラザ合意が背景となっているが、直接的に株高・土地投機が進んだ契機に元日銀総裁が作成した「前川レポート」がある。そして、バブル崩壊の契機となったのはヨーロッパ発のBIS規制。つまり、日本のバブルを生み出したのも、それに幕を引いたのも、ロスチャイルド系勢力だったということになる。
★この過程で、アメリカ(ロックフェラー系勢力)も少なからず被害を蒙ったと考えられる。つまり、バブル発生→崩壊とは、ヨーロッパ(ロスチャイルド系勢力)からアメリカ(ロックフェラー系勢力)への金融戦争だったと言うこともできる。
★即ち、それまでの「武力戦争」から「金融戦争」への大きな転換点が、’90日本のバブル崩壊であった。以降、世界全体を巻き込んだ、ヨーロッパ(ロスチャイルド系勢力)とアメリカ(ロックフェラー系勢力)の争いが熾烈さを極めていくことになる。
■冷戦終結後(’90年代)のアメリカの世界戦略
http://www.hanwa.co.jp/history/1990/pop/1990_t02.html
1991年、アメリカの対日戦略を決定付けてきた「冷戦」が崩壊した(ソ連崩壊)。
これは、アメリカにおける巨大な軍事的脅威が消滅することを意味するが、アメリカが取りえる戦略は大きく二つあり、国論を二分することになる。
①財政を圧迫してきた軍事費を大幅削減する。
②軍事力維持し、世界の警察としての地位を確固たるものとする。
当時、父ブッシュ政権は、D.ロックフェラーの力が強かったこともあり、②軍事力を維持する戦略をとる。
しかし、そのためには、何かアメリカへの軍事的脅威が必要となる。こうして、イラク、イラン、北朝鮮という「ならず者国家」が『作られる』ことになる。
こうして『作られた』のが湾岸戦争(1991年)であった。
さらに、冷戦構造の終焉は、CIAの主要対象が消滅したことを意味する。当然、CIAの主要任務も大きく転換した。
1995年10月15日ニューヨークタイムズは
>「経済的な優位を得るために、同盟国をスパイすることがCIAの新しい任務である。クリントン大統領は経済分野での諜報活動に高い優先順位をあたえた。財務省および商務省はCIAから大量の重要情報を入手した。」
>日本は「敵」としてCIAの工作の対象になっていたのです。(「戦後史の正体」孫崎享)
★ヨーロッパ(ロスチャイルド系勢力)が金融戦争を仕掛ける一方で、アメリカ(ロックフェラー系勢力)としては「戦争」とそれが生み出す経済効果は手放せない。結果、武力戦争が作り出されていくことになった。
★しかし、金が無ければ戦争もできない。その金の源泉となったのが、日本経済であった。
★さらに、アメリカ(ロックフェラー系勢力)としてもヨーロッパ(ロスチャイルド系勢力)が仕掛ける金融戦争は無視できない。そこで、CIAの役割を大きく転換させ、金融戦争への対応戦略を整えていった。
■年次改革要望書 ⇒日本のアメリカ化改造計画の始まり
1980年代末から1990年代はじめにかけて、様々な名前の日米経済交渉が行われてきた(ex.「日米構造協議」「日米包括経済協議」)
http://janjan.voicejapan.org/government/0810/0810270294/1.php
そのような中、宮沢⇔クリントン時代から交わされてきたのが「年次改革要望書」だった。
※日本政府と米国政府が両国の経済発展のために改善が必要と考える相手国の規制や制度の問題点についてまとめた文書で、毎年日米両政府間で交換されていた。正式には「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」
しかし、日本→アメリカへの要望は一切実現されず、一方でアメリカ→日本への要望は、そのほとんどが実現されている。
年次改革要望書の要求どおりに成立した法案
【年次改革要望書の要求】→【日本の法改正・制度改正】
・人材派遣の自由化 → 99年:労働法改正
・大店法の廃止 → 00年:大店法の廃止
・司法制度改革 → 02年:弁護士業自由化、04年:法科大学院導入
・アメリカ型経営形態導入→ 03年:商法改正
・外国企業の日本参入 → 05年:新会社法成立
・会社合併手続きの簡素化→ 05年:新会社法成立
・保険業の自由化 → 98年、05年:保険業法改正
・郵政民営化 → 05年:郵政民営化6法案成立
・独占禁止法の強化 → 05年:独占禁止法改正
・医療制度改革 → 今後?:自由診療拡大etc・・・
これらの内容は、単なる規制緩和・市場開放に留まらず、日本の社会システムそのものを変更させて、米国企業が利益を得やすいルールを構築させようというものであった。
☆なお、「年次改革要望書」は自民党政権から民主党政権に代わった鳩山時代に廃止されている。「年次改革要望書」に代わって新たに急浮上してきたのがTPP。
●アメリカはなぜ、日本への直接的な要求を伝えるようになったのか?
バブル発生→バブル崩壊の流れを見ても分かるように、金融戦争においては、ヨーロッパ(ロスチャイルド系勢力)がアメリカ(ロックフェラー系勢力)に対して大きな優位性を持っていた。
さらにヨーロッパは、’90ドイツ統一 ’93EU ’99ユーロ と統一通貨による金融世界の新たな枠組み作りに突き進んでいく。
つまり、金融戦争においてアメリカは、ヨーロッパの2歩も3歩も後を追いかけている状態であり、そのままではドル崩壊→アメリカ経済の崩壊の危険すらある。
要は、アメリカが生き残る基盤は、「日本しかない」状態に追い込まれていた。よって、日本のアメリカ化を一気に進め、日本の金融資産を取り込み、かつヨーロッパに対抗し生き残る基盤を作ろうとしたのだ。
●日本はなぜ、アメリカからの要求を呑んだのか?
このような「年次改革要望書」(を通じたアメリカからの要求)を、日本の政治家・官僚の大半は、半ば積極的に受け入れていった。
なぜか?
1990年代当時、日本の官僚の中心勢力は40代~50代。つまり、1960年日米安保闘争では中心となって活躍していた世代にあたる。この世代は戦後民主主義教育を受けてきた世代であり、学校教育の点からもアメリカの洗脳が完了した世代だと言える。
(米国の圧力と戦後日本史12 安保闘争とは何だったのか?~政治家がマスコミとの共認闘争に敗れた~)
彼らの価値観は、アメリカの価値観と一致しており、アメリカからの要求に対する反対する意識すら起こらず、積極的に受け入れていったのであろう。
もちろん、政治家を中心として、彼らよりも上の世代の中には、「年次改革要望書」を”内政干渉だ”と撥ね退けようとした人間もいるだろう。しかし、これまでの歴史が証明しているように、抵抗勢力は直接的・間接的に脅され、封じ込められていくことになる。
★「洗脳が完了した」というアメリカの状況認識は大きい。なぜなら、そのような状況認識があったからこそ、今までの”密約”主導の日本改造ではなく、”オープンな場”での直接的な要求に切り替えたからだ。その方が、正確に、かつ速くアメリカ化が進むことになる。
★「アメリカによる日本支配」を突破する上で最大の壁が、この「アメリカ型教育による洗脳」だと言える。しかも、学校教育以降は、マスコミが洗脳機関として君臨している。
★そうである限り、次代の教育を現実の基盤の中から提起し、実現していくことでしか、「アメリカ支配」の壁を突破していくことはできない。その意味で、教育業界に託された役割は自分達の想像以上に大きく、かつ次代の日本を導く最強の実現基盤だと言える。
(ないとう)
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