『今こそパラダイム転換が求められる時』シリーズ-6~現実否定の倒錯思考~
このシリーズも中間地点ということで、これまでの流れを一旦整理しておきます。
シリーズ-1では、
社会不全→思考停止のループを打ち破り、観念パラダイム転換への意識潮流が巻き起こる予感について扱いました。
シリーズ-2では、
その意識潮流を若者を、中心とした様々な事象から探っていきました。特に、今回の大震災や原発事故によって、その潮流は大きくなっていることが分かりました。
シリーズ-3では、
この本能を直撃する不全によって、嘗て原始人類が抱いた“祈り”にも似た思念から、現実直視の萌芽が見られ、事実追究への欠乏が数段高まっていることを見ていきました。
シリーズ-4では、
原発関連の報道から、政治家・マスコミなどの特権階級への不信感からの高まりから、素人達による事実追究が、ツィッターなどのネットを軸として、繋がり、拡がっているということを取り上げました。
シリーズ-5では、
マスコミに登場する学者が「ウソをつく!」ということから、旧観念に対する不信が顕在化し、それは、観念パラダイムの転換の好機と捉えました。また、原発事故という未曽有の不全から、その不全をみんなで共有して初めて、課題化され得ることが分かってきました。
これまでの展開から、今回の大震災、原発事故を受けて、人々の意識のレベルでは、観念パラダイムの転換の可能性が大きく高まってきたことがわかります。
そして今回は、それでも特権階級に根強い「現実否定の倒錯思考」とその背景にある支配構造という、観念パラダイムの転換の前に立ち塞がる壁について見ていきたいと想います。
いつも応援 ありがとうございます
以下、観念パラダイムの逆転2 現実否定の倒錯思考からの引用です。
原始人も現代人も、現実に立脚して生きており、その意味では、現実を受け容れ、肯定して生きている。それは、当然すぎるくらい当然の事であって、現実を否定するなどというのは天に唾するようなもので、現実には有り得ない不可能なことなのである。実際、我々はメシを喰うことを現実に否定することは出来ないし、その為に市場の中で何がしかの金を得ることを現実に否定することも出来ない。
現実の否定は、頭の中でのみ(=観念としてのみ)可能なのであって、決して現実には有り得ない。実際、現実にメシを喰いながら現実を否定するというのは自己欺瞞であり、それでは下半身(存在)と上半身(観念)が断絶し分裂して終う。
それほどに、現実を否定する意識というものは異常な意識なのであり、この異常な現実否定こそ、現実の中に可能性を求めるのではなく、頭の中だけに閉ざされた可能性を求める(当然それは決して実現されることがない)倒錯思考の原点である。現代社会の至る所で噴出する異常現象は、全てこの現実否定→倒錯思考の観念パラダイムが生み出したものであると云っても過言ではない。
事実、私権時代の全ての既成観念(古代宗教と近代思想)は、この異常な現実否定意識に基づいて作られている。その証拠に、これまで現実を否定する意識は、常に暗黙の内に正(義)として意識され、現実を否定する意識そのものを疑うような意識は、全く登場してこなかった。これは、現実否定→倒錯思考が、私権時代を貫く思考のパラダイムである事を示している。
「天に唾するような」現実否定の観念が、どのように生み出されたのかについては、前回投稿:シリーズ-3の、「2.古代の思想運動」で見てきました。
この現実否定の観念が登場した背景には、「現実=変えられないどうしようもないもの」と思わせる絶対的な支配という現実がありました。
その支配の歴史は、紀元前約5500年:今から約7500年前の遊牧部族まで遡り、史上初めて、野生のヤギや羊を飼いならすという生産形態を取ったことに端を発しています。
群れのボスを調教すれば、その他の者はボスに追従するという性質を利用し、去勢などの方法で群れを操ることに成功しました。この自然の摂理に反した生産様式は、(自然に対する)加工感、或いは操縦感ともいうべき意識を醸成していきました。これが、後の奴隷支配に繋がっていったのです。
さらに、驚くことに、この羊の群れや奴隷に対する調教→支配の手法をそっくりそのまま、現代まで踏襲しているのです。肥大した群集の“調教”には、交易に移行した部族による騙し能力により倒錯観念を“洗練”させた支配観念が使われました。
遊牧・交易部族の詳しい状況は、3/13の「なんでや劇場」で扱われた以下の投稿が参考になります。
①牧畜によって何が変わったのか?
②遊牧によって何が変わったのか?
③交易によって何が変わったのか?
④略奪集団であるが故に自我の塊になった西洋人
⑤西洋人の精神構造と異常な性意識
このような序列支配の構造が、現実否定の倒錯観念を西洋人の意識の中に、深く刻みこまれていくのを余儀なくさせてしまったのです。
このパラダイムの内部では、それによって作られた観念群をどう組み変えても、又、どれだけ深く思考を巡らせても、決してパラダイムそのものを否定することは出来ない。だからこそ、これまで現実を否定する意識に対する懐疑(例えばデカルトの「我、思う」ことそれ自体に対する懐疑、例えば、思い続けている自分がおかしいのではないかという懐疑)は、針の先ほどさえ全く生じ得なかったのである。
支配観念というと、古代では、「目には目を・・・」で有名な、同害報復法と言われるハムラビ法典などが有名ですが、庶民はそれを好んで受け入れるというものではありません。故に、支配者の一方的・強制的な支配のための観念であったと思われます。
一方、庶民の圧倒的支持を得ていたことから、最初は迫害されたキリスト教ですが、それでも普及し続けることに目を付けたローマ帝国は、その後国教として登用し、統合の要として神に最も近い【法王】を擁し、以下牧師という指導者(羊のボス)の基、庶民に対して、神との契約に基いて、今の身分を許容し、従順に生きることを教えました。これによって、庶民が帰依する美化観念と、支配者が庶民を騙して従わせる欺瞞観念とが結びつき、国家の統合体制の基礎が出来上がりました。
その後、国家間の商取引の拡がり、植民地支配の進展などから、国家に金を貸して利益を生み出す金貸しが、教会や国家に組み入り、操る(:支配する)ようになりました。彼らは、更なる支配観念の普及に乗り出し、大学を設立し、神学・法学(罰則法)を中心に指導者を育成してきました。
「金貸し支配」について詳しくは、以下を参照願います。
なんで屋劇場『金貸し支配とその弱点』1 ~市場の起源、原資拡大の方法、その真実の姿
なんで屋劇場『金貸し支配とその弱点』2 ~金貸しの存在構造、不換紙幣の成立
さらに、産業革命により市場拡大(:金貸しにとっては、さらなる利益拡大)が推し進められ、庶民にも私権獲得の可能性が開かれると、農村から都市に集中してきた群集を統合するために、近代思想を生み出し、社会との契約関係の中で、バラバラの個人が一定の秩序を持って行動することを教えてきました。これは、公教育制度を通じ広く末端にまで拡大されることになります。
そこでは、大学に進学するエリートを洗脳→調教して、各国の指導者として育成する試験制度や留学制度も組込まれることになり、また、マスコミを通じてそれら美化観念を撒き散らすという、金貸しにとっては磐石の洗脳⇒支配システムを構築したことになります。
(参考)
公教育の本質は、【調教】にあるのでは!?
公教育の成立構造を考える③~キリスト教による洗脳教育~
公教育の成立構造を考える④~公教育は金貸し支配のための洗脳システム~
この支配の特徴をまとめておきます。
①世界の各国は金貸しの支配下にあり、その事実は門外不出であった。
②支配の手法は、羊の調教と同じように、各国に彼らの意のままに動く指導者を送り込んで、庶民(群集)を操るという方法
③そのため、欺瞞観念の刷り込みを教育とマスコミを利用しておこなっている。中身は近代思想→個人主義思想
④これにより、集団は解体され、バラバラの個人(迷える子羊)として、力を押さえ込まれる。
⑤それ故に、至るところで対立構造を生み、場合によってはそれを仕掛ける(戦争・労働組合・日教組etc.)
⑥これら私権課題に収束することによって、全体のことや、社会に向かう意識を殺いでいる。→金貸し支配の現実は誰もわからないまま
少なくとも5000年に亘る倒錯観念の歴史、欺瞞観念による支配・・・これでは到底、庶民にとっては、現実直視や自身の思考を疑うことなどできない構造になっていることが分かります。
せっかく観念パラダイム転換の可能性が開かれた現在、この壁はとてつもなく大きく感じられます。この支配構造がある以上、転換はものすごく難しいのでは?・・・と思ってしまいますね。
しかし、日本人の可能性はそう容易く潰されることはありません。
次回以降は、この大きな壁を突破できる(彼らに勝てる)可能性はあるのか?を探っていきます。
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